蜘蛛糸の涯て

 虐殺は、来瑠が思っていたよりもずっと簡単に片付いた。


 風花の中には、たぶんずっとストッパーのようなものがあったのだろう。

 火箱風花の根底にあるのは善性だ。

 彼女は、基本的に誰かを傷つけることをしたがらない。それが、自分にとって大切な何かよりも優先されない限りは。

 そこに加えて風花自身の来瑠に対する情欲が手伝い、これまで風花は声枯らしの力を最大限に発揮することができずにいた。

 しかしそれも、彼女と来瑠が真の意味で相思相愛になる前の話。


 相思に至り相愛で結び付いたふたりの絆の前に、命はことごとく路傍の石だった。

 これまでこんな奴らに苦しめられていたことがまるで嘘のように、風花の声が響くたびに日常の閉塞が解消されていった。

 血を吐き、のたうち、抵抗どころか自分の身に起きたことを理解することもできずに誰も彼も死んでいく。

 助けを求める余裕もないし、悲鳴をあげることも許さないから、虐殺は学校の外に漏れることなくスムーズに進んでいき。

 わずか三十分足らずの時間にて、火箱風花は学校中の人間を鏖殺した。

 まだ生き残りがいる可能性は否定できないが、それもこの時までだ。


『――あ、あ』


 少し掠れた音が、学校中のスピーカーから流れ出す。

 人類の歴史をなぞるような、ちっぽけな箱庭のジェノサイド。

 違いがあるとすれば、使われるのがガスか音かの違いだけだ。

 ご丁寧に学校中に配置されたスピーカーを通じて溢れ出す彼女の声は、逃げ場のないツィクロンBと化して歴史を再現する。


『ごめんなさい。死んでください』


 紡いだ言葉はそれだけ。

 それだけで、来瑠達を取り囲んでいた日常は一転墓場と化した。

 生徒も教師もその他職員もたまたま学校を訪れていた業者やわずかな保護者も例外なく、ばたばたと倒れて死んでいく。

 死ぬ。死ぬ。ただ無価値に死ぬ。

 誰も彼もが、声を枯らされていく。

 命という草木を、枯らされて朽ちてゆくのだ。


「ふーちゃんさ」


 風花が放送のスイッチを切った。

 そこで来瑠が、おもむろに口を開く。


 放送室の中には、たまたま居合わせた放送部員が二人死んでいた。

 苦しみ抜いて事切れたその死体を見ながら、紡いだ言葉は問いかけだ。


「今更私が言うのも何だけど、本当に良かったの」

「どうしてそんなこと聞くの?」

「昔――詩述に無理やり声を使わされてた時は、嫌だったんでしょ。

 ふーちゃんはこういうことしたがらないと思ってたから。だから、大丈夫なのかなって」

「ふふ。くーちゃん、なんだかちょっと優しくなったね」


 うれしい。

 そう言って、花が綻ぶように風花は笑った。

 こんな状況なのに、風花の顔は変わらず――いや、今までよりもずっときれいに見えた。

 かわいいのはいつものことだけれど、今はそこに調度品のような美しさがある。

 きゅん、と胸が疼く感覚を覚えたものだから、来瑠はいよいよ自分も筋金入りだなと自分で自分に呆れることになってしまった。


「大丈夫だよ。私は、くーちゃんのためなら何でもできるの」

「……そ。まあ、そのくらいしてくれなきゃ困るけどね。ふーちゃんは私の玩具なんだし」

「うん。私はくーちゃんのものだよ。くーちゃんになら何されてもいいし、何だってしてあげる。

 ……でも昨日から、ちょっとだけ欲しがりになっちゃったかも。

 くーちゃんに好きだよって、かわいいよって、そう伝えて貰うのを楽しみにしちゃってる私がいるの」

「……ばか。あんま調子に乗んないで」


 ふい、と顔を背ける。

 そうでもないと、気恥ずかしさでどうかしてしまいそうだった。

 あんたが欲しがりなのはいつものことでしょ、なんてツッコミの言葉すらうまく出て来ない。

 やっぱりこいつの顔、苦手だ。この顔で見つめられると、自分の中の色んなものがおかしくなっていく自覚がある。

 まるで、麻薬のよう。あの並木道で話しかけてしまったその時から、自分はこの声枯らしの少女に魅入られ、取り憑かれていたのかもしれない。


 ――悪くはないけどさ。

 小さく息を吐き出して、来瑠は「それより」と話を切り替えた。


「まだ終わりじゃないよ。あんま気抜かないようにね」

「うん。分かってる」

「……一応聞いてみるけどさ、"あの二人"に声は使えそう?」

「……たぶん、駄目かも。ごめんね。私にとってあの子は、まだ――」

「言わなくていい。ていうか今カノに元カノの未練とか言うもんじゃないから。ふーちゃんって意外とそういうとこデリカシーないよね」

「……んぅ。ごめんなさい」

「まあいいよ。元から期待はしてなかったから」


 突き放すような物言いだと自分でも思ったが、その実来瑠は半ば根負けしてもいた。

 以前までの来瑠は、小綿詩述という人間の存在そのものが許せなかった。

 穢らわしい詩述の記憶が風花の中に、自分の所有物の中に根付いていることが許せない。

 跡形も残さず消し去ってやりたいと常々思っていたし、いつまでも後生大事にそんなものを引きずっている風花に怒りを覚えたことだって一度や二度ではない。

 けれど。風花への感情を自覚し、これまでとは比にならないほど深く繋がりあった今の来瑠には少しだけ変化が生まれていた。


 ――そんなに好きなら、もういいよ。勝手にしろ。


「友達だったんでしょ。あんなのでも、ふーちゃんの」

「……うん。とってもね、大事な友達だったから」

「なら、いいよ。ふーちゃんはもうそのままでいい」


 思えば、そうだ。

 気にする必要なんかない。

 風花が誰のことを好きでも、引きずっていても――

 最後に、一番上に来る"好き"が自分に向いてさえいれば、そんなことはどうでもいいんじゃないか。


 火箱風花は小綿詩述を殺せない。

 捨ててしまった親友への後悔を、今も引きずっているから。

 そんな詩述の隣で相棒をしてくれている小椋結菜のことも、同じく殺せない。

 彼女がやっていることは、自分が過去に犯してしまった罪への尻拭いだから。

 ――なら、もうそれでもいい。

 風花には十分仕事をしてもらった。


「あの二人は、私が殺すよ」


 捨てられない思い出を終わらせるのは、私がやろう。


 来瑠は、ポケットの中のナイフを強く握り締めた。

 日本は法治国家だ。人を殺せば、当然それなりの捜査が入る。

 まだ子供と呼ばれる年齢であるとはいえ、警察の捜査と追及を掻い潜って逃げ延びることは決して簡単ではないだろう。

 だがそれは、こちらが単なる人間であるならの話。

 風花の声がある限り――ふたりにとってそんな雑把は敵ではない。


 あくまでもふたりの敵は、あのふたりだけなのだ。

 そして彼女達との決着を果たす前にひとつ、清算しなければならない悪縁がある。


「……いいよ。くーちゃんなら、いい」

「許してくれるんだ。もっと複雑そうな顔されるかと思ったのに」

「ほんとは、もっと早くに選ばなきゃいけなかったんだもの。

 私は弱いから、それをずっと先延ばしにしちゃってたの。

 今だって、まだ選べるようになったわけじゃない。……だから、くーちゃんが選んでくれる?」

「分かった。じゃあ、私がふーちゃんの代わりに選ぶよ」


 放送室の扉を、来瑠が開け放つ。

 あの二人はもう学校に到着しているだろうか。

 だとすれば、あっちだってもう形振り構ってはいない筈だ。

 本格的に介入してくる前に、今も生き永らえているだろうあの怪物を退治しなければすべてが破算になってしまう。


「ふたりで行こう。どこまでも、私達が幸せになれる未来まで」

「うん。――連れてくから、連れてって。くーちゃん」


 ジェノサイドは完了した。

 群れを成す障害どもは排除した。

 続く演目は怪物退治。或いは、重犯罪人の斬首作戦。


 ――怪物教師・八朔冬美の抹殺である。



◆◆



「すごいな。此処までやれるんだ」


 見渡す限り死体ばかりの校内を散策しながら、女は感嘆したようにそう零した。

 まさに大虐殺だ。生きている人間は全く見当たらないし、火箱風花の持つ"声枯らし"の性質を鑑みても生存者の存在は絶望的と言わざるを得ないだろう。

 これだけのことをしでかして、一体どうやって収拾を付けるつもりなのか。

 それも気になるが、しかし悠長にそれを眺めている気は八朔にはなかった。


「――今になって現れるとはね。遠い昔に捨てた希望をまた抱かせてくるなんて、なんて罪な女の子だろう」


 火箱風花は犬神憑きだ。

 あの日、風花の"声"を浴びた時。

 八朔の眼には確かに、彼女の影からぬるりと這い出てくる真っ黒な犬の姿が見えていた。


 それも一匹や二匹ではない。数十、数百、ともすれば数千。

 大量の蛆が集まって白蛇に見えるように、大量の蝿が集まって竜巻に見えるように、数え切れない数の犬の怨霊が集まって一匹の黒犬を形成しているのだとすぐに分かった。

 八朔が見てきた怪異的存在の中でも、間違いなく上澄みだろう魑魅魍魎。

 あの少女はどういう道理に囚われているのか、確実にそれを扱いこなしていた。

 相手が自分でさえなかったなら、風花の声はこの世の誰にであろうと通じるだろう。――アレは、怪物だ。


「火箱さん。君には、この地獄せかいが見えているのかい」


 誰も同じではなかった。

 誰も、この地獄を共有してくれる者は居なかった。

 だから遠い昔に諦めて堕落したというのに、ああ何故今になって。

 今更救いらしいものをぶら下げられても、戻ることなどとうに出来ないというのに。


 ――あの子が欲しい。

 ――あの子が欲しい。


 八朔冬美は花盗人。

 この怪物は花を摘む。

 花を摘んで花弁を喰らう。

 すべてのしがらみを破壊され、希望という名の餌を目の前にぶら下げられた八朔は今こそ社会性の檻から完全に解き放たれた。


「欲しいな。手に入れてしまおうか」


 宣戦布告はゾッとするほど艶やかな声で。

 引き裂くような笑顔で歩み出した怪物教師に――しかし。



「誰があげるもんですか。地獄に落ちろ、クソ教師」



 否を唱えて、物陰から飛び出した影があった。



◆◆



 握り締めたナイフに、よりいっそうの力を込める。

 雲を衝くような女性離れした長身に威圧感を覚えないと言えば嘘になるが、逆にそれが来瑠から一切の迷いを取り除いてくれた。

 この手を汚して、自分はこれから人を殺す。

 その事実を、目の前の恐怖が掻き消す。

 そして怪物の口にした聞き捨てならない宣戦布告が、怒りを呼び起こして来瑠の足を更に前へと進ませてくれた。

 

「――死ね」


 酷薄な宣告、されどこんな奴にはこれで十分。

 刃で貫き、殺す。命を奪う。穢らわしいその手で自分の所有物に触れようとした罪を、文字通り命で贖わせてやる。

 渾身の突貫に誓って迷いはなかった。

 にも関わらず来瑠の刃は空を切る。それどころか彼女の身体そのものが、空を滑るようにして躍り、そのまま廊下に転がった。


「っ、あ……!」

「思ったよりも迷いがないね。

 火箱さんはともかくとして、君はもう少しウジウジするタイプかと思っていたが」


 来瑠は、父親の方針で半ば無理矢理に護身術の類を叩き込まれている。

 だからこそ、今何をされたのかはすぐに分かった。

 足払いを掛けられたのだ。まんまと地を転がされ、今来瑠は殺し損ねた不気味な長身に見下される格好になっている。


「ただ、わざわざ声を出してしまったのは失敗だったね。

 それとも、やっぱり迷いを振り払うために意識的なルーティーンが必要だったのかな。だとすれば、なかなかかわいらしいことじゃないか」

「うる、さい……! 気持ち悪いのよ、変態教師……ッ」

「おっと。させないよ、私も死にたくはないからね」

「が、ふ……!」


 ナイフを手に取り起き上がろうとしたその身体を、思い切り踏みつけられて肺の底から息が漏れる。

 まるでピン留めされた昆虫のような姿を晒す来瑠に、八朔は冷たく嗤っていた。


「君も悪くないけれど、やっぱり私は火箱さんの方がいいな」

「……っ。その汚い口で、人の彼女の名前、勝手に……!」

「おっと、失礼。"ふーちゃん"と呼んだ方がよかったね」

「――!」


 激昂する来瑠だが、それはますます惨めさに拍車を掛けるだけだ。

 結局のところ、高嶺来瑠はただの少女でしかない。

 多少身のこなしと躊躇のない暴力に自信はあるが、それでも少女で人間だ。

 けれど今、彼女が挑んでいるのは怪物退治。

 たまたま人の形をして生まれてきてしまった怪物には――少女の勇気も愛の力も、為す術もなく敗れ去る以外に術を持たないのだ。


「とはいえあの子は脅威じゃない。君をオードブル代わりに平らげてから、ゆっくり追い詰めさせてもらおうかな」


 べろり、と舌舐めずりをした。

 その顔は、ゾッとするほど美しく。

 それでいて――吐き気を催すほどに、醜悪。


「ようやく会えたんだ。これで高揚せずにいられるものか」

「……、そんなに。そんなに気に入ったの、あの子のことが」

「勿論だとも。あの子はきっと、私と同じ世界を見ている。

 人の身でありながら、"あちら"の存在を従え――繋がっている存在だ。

 初めて会った。初めて見た。何十年と探し求めてきた希望の光なんだよ、あの子は」


 世界の真実を、知っている。

 皆が美しいと褒めそやすこの世界が、本当は何に溢れているのか。

 人の営み、人の生き死にが何に握られているのか。

 それを――生まれたその時からずっと見てきた。


 故にこそ、この怪物は孤独だった。

 この世に存在する如何なる慰めも彼女の渇きを満たせない。

 地獄道に一人堕ちた哀れな旅人。或いは、人生という牢獄の虜囚。

 そうやって生きてきたし、そうして生きることに絶望したからこそ彼女は欲望に身を委ね、涎と咀嚼音を撒き散らしてきた。

 その絶望と諦めが、一緒くたに解消される時が迫っている。

 犬神憑きの少女が、人生で初めての充足を自分に与えてくれるものと怪物は確信していた。


「蝿の羽音を吐いて喋る子どもを見たことがあるかい?」

「……、……」

「蜘蛛の足を持って這い回る赤ん坊を見たことは?

 福笑いのように顔のパーツが入れ替わった老婆に日がな一日囁かれ続けたことは?

 含み笑いを漏らす黒い仏、人面の座頭虫、髪の代わりにコオロギの足が無数に生えた美女の肖像を知っているかな?」


 だからこそ、彼女は大虐殺の渦中にあってこそ何より幸福そうに嗤うのだ。

 少女達の愛と恋と、執着と因縁とを。

 何もかも踏み躙りながら、我が物顔で彼女達の運命に相乗りして。

 そして今、一つの詰みを突き付けながらこうして嗤っている。


「私が彼女に求めるのは、そんな孤独の共有だ」


 怪物が、身を屈めた。

 少女を食べる為に口を開け、唾液の糸をぬとりと引かせた。


「これで私は、もう独りじゃない」


 そんな、愚かな怪物に。

 おぞましいケダモノに。

 もはや胃袋に収まるしかなくなった少女は、ただ――


「……ふ、ふふっ」


 ――笑った。


 時が止まる。

 不快ではなく、違和が怪物にそうさせた。

 気でも狂ったか。自棄になったか。いや、そうは見えない。

 では、何故。何故――この状況で、この娘は笑っている?


「あは、ははははっ、くふ、ふふっ」

「……わからないな。何がおかしい?」

「そりゃ、笑うでしょ。ふ、ふふ――なぁんだ。

 そっか、そっかぁ。先生って、結局その程度なんだ?」


 その理由が、怪物には分からない。

 分かる筈もないのだ。何故なら彼女は、自分の目で見たものしか知らないから。

 声枯らしの少女を"見て"、それで希望と認識して焦がれているだけの彼女には知る由もない。

 そしてそんな彼女とは違って、高嶺来瑠は知っている。


 火箱風花の真実。

 声枯らしの種明かし。

 "犬神憑き"の誕生の秘話を。

 知っているから、詰みを突き付けられながら勝ち誇ったように笑うのだ。


「ふーちゃんは、先生と同じものなんて見えてませんよ」


 ――大虐殺、第二幕。

 ――演目は、怪物退治。


「あなたはずっと独りです。今までも、これからも」


 記憶の蓋が、伏せられた真実の箱が開かれていく。

 それはある男と女の記憶であり、奮闘であり。

 ある家の背負った、罪の追憶であった。

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