最終話

「何もない!」


 その一言で運命が確定した。

 運命などと言える立場でもなかったのだと、絶望と悪意に満ちた血走る眼で拳を振りかざす民や親族を見て思った。


 痛みから逃れようと本能が働き、殴られる中からもがくように輪の外へ出ようとする。

 侍女が毎日のように褒めてくれた髪が掴まれ引き戻されると、顔や下腹部に幾度も拳が当たった。

 この日のために設えられた上等な着衣が乱暴に摑まれ引き裂かれ、腕や足元に絡みついて肉を絞り上げてくる。


 床に伏すことも許されず殴られ続け、身体中から燃えるような痛みが血潮と共に体内を巡った。

 何度も顔を殴られ、衝撃で聞こえ難くなった鼓膜を震わせる恐ろしい慟哭。

 けれどもそれを吐かせてしまったのは誰かと自問すれば、申し訳なさに心が引き裂かれた。


 悪意を覚えた果ての世界の住人は、悪意を払拭できずに眠りに就く。

 果ての世界の住人として、それはとてもとても不名誉なこと。

 最後まで悪意を悔やみ、眠りに就く。


 怒りのまま民衆に掴まれ揉みくちゃにされ、永遠に感じる悪意の暴走。

 憎悪の呪詛に輝かしい王族たちの煌声がくすんでいく。

 美しく飾られた輝かしい謁見の間に、くすんだ煌声が驚くほどの速度で満ちて辺りを暗くさせる。

 

 誰か、誰でもいいから、止まらない狂気を鎮めてほしい。

 優しい人々が愚かな王子のために、自らを追い込み穢れてほしくない。

 誰か、誰か、誰か。


 彼らの精神がこれ以上蝕まれることのない、安寧の刻を与えてほしい。


 気が遠くなり、それでも全身の傷みに意識は残り、暴言の限りを尽くす無数の声を受け入れる。

 入れ替わり立ち代わり、様々な強さの拳が当てられた。

 殴られた場所が腫れて見え難くなった視界の中で、父と母が他を制した。


 途端に意識が飛び、新たな激痛に目を開いた時、そこは謁見の場ではなかった。


「この世界において何もないことがどういうことか理解しているか」


 父の言葉は煌声ではなった。

 もはや煌声すらも出せないほどに絶望している。

 疲れた声音は震えていて、謝罪したいのに上手く声が出ず、ただ頷いた。


「授かりし我が息子は直系の資格を失い消滅する。何もなかった者は規律通り咎人となり、幽閉の石床の導きによりここに縛る」


 見えていなかったが、群衆に囲まれていた。

 わっと歓声が上がり拍手が反響する。


「直系に許された能力は裁きにより帰化する」


 再び歓声が上がり、仰々しく石階段を上ってきた執行人二人が両脇に控えた。

 その手にある細長い棒が薄暗い中で鈍く光る。


「執行!」


 両肩を押さえられた。

 頭は強烈な固定魔法で動かず、悲鳴を上げる間もなく首の前側左右から灼熱の激痛が交差貫通し、感覚がなくなるほどの冷たさに喉の機能が完全に停止するのを感じた。

 声を出そうと喘ぐも、空気だけが口から小さく吐き出される。

 激痛の中、首を貫通している物体を切断する衝撃に背骨が仰け反る。

 それ以上の動きは許されず、痛みを痛みで覆うような呪縛布が何重にも首に巻かれた。


 いっそのこと狂ってしまいたいほどの複数の傷みを悦ぶ歓声に囲まれ、去っていく執行人の気配に何を思えばいいのかわからなくなる。

 目の前にはまだ、父が立っている。

 まだ、何かを執行されるのだろうか。


 咎人とは、なんという存在なのだろう。

 存在自体が悪であり忌むものだと習いはしたが、本当にそうだとは思わなかった。


 元は人なのだから、護られる部分もあるはずなのにと能天気に考えていた。

 人は、咎を負った時点で人でなくなる。

 それが間違いではなく現実だった。


 僕の罪は、絶望を知らず悪意を持たないはずの果ての世界にその二つを持ち込んでしまったこと。

 冷静に思えば、それは人の扱いをしてはならない大罪だ。

 だからこそ、僕は咎人になった。

 それで皆の心から悪意が薄くなり、絶望が消えるのであれば喜んで咎人になる。


 僕が生命の樹直系の王族として、唯一できる施しのはずだから。


 それでいい。

 これが正しい。

 きっと誰かが無能な僕の願いを聞き入れてくれて、最善の解決を導いてくれた。


 熱に侵されたように朦朧とする意識の中、王族として一生使うはずだった「永久の玉座」が持ち込まれるのを見た。

 盛り上がる観衆、冷たい目のままの父、座らされていた椅子を外され、玉座に座らされる。


「不要な座と共に朽ちるがいい」


 腕に絡みついていた呪縛鎖が玉座に繋ぎ留められ、足首も同じ鎖で繋がれた。

 激しい眩暈に襲われるも、どうしたって気絶はしない。

 これが咎人の償う罪だとでも言いたげだった。


 僕はもう、二度とここから動くことは叶わない。

 そう本能で理解できた。


 彼らに絶望を、悪意を植えつけた咎なのだから仕方がない。

 僕が悪いんだ。

 優しい彼らから無条件のあたたかさをもらっていた、無能者への懲罰だ。

 自分ではない誰かに向けられるはずだった祝福と誉れを奪い去った大罪。


 仕方がない。

 当然だ。


 幽閉され、直系としての名を毟り取られ、汚名を負って存在を消されたとしても、誰もが当然だと思う罪を犯した。


 祭りが終わったように人の熱が引いたあとも、父は長くそこに立っていた。

 言葉はもう交わせない。

 見つめ合っていても情は湧かない。


 やがて静かに独り立ち去り、二度と見ることはなかった。




 果ての世界の住人が罪を犯した時、罰を与える場所を生命の樹が選定する。

 決定した場所にその者の式彩を刻んだ石床が発生し、皆はそれを見つけそこで罰を受けるのがしきたりだ。

 咎人となり名をなくす前に、生命の樹は僕に幽閉の場所を選定してくれたのだろう。

 しかも生命の樹の内部、直系の王族が生命の樹からの神託を受ける場所だと気がついたのは全身の傷みに神経が麻痺して慣れてしまった頃だ。

 永久の玉座に座してからしばらくはひっきりなしに人がきた。

 残酷な祭りを楽しむように、僕を罵り、殴ったり蹴ったり、唾棄しにやってきていた。

 ひとりが咎の銘を石床に刻むと、それは瞬く間に広まり、儀式さながらに訪れる人たちは必ず咎の銘を僕の周辺に残した。


 とてもよくしてくれた侍女すらやってきた。

 でも、彼女は震えていた。

 周りの人に囃され、持たされた鉄鉤で僕の足元に咎を刻む。


 麻痺しているはずの足に冷たい雫が落ちた。

 顔を動かし見れば俯いている侍女が顔の辺りを袖で拭いている。


 勢いよく立ち上がり、僕を見ずに駆けて行ってしまった。

 仲間たちから「よくやった」「これで大丈夫だ」と褒められている背中が、とても哀しそうだった。


 悪意に染まらない人もいたのだと、その時初めて理解した。

 優しい人、こんな僕のために生き辛くなることはない。

 どうか彼女に祝福を。


 咎人に願われても迷惑だろうけれど、願わずにはいられなかった。

 祈るように目を閉じると、光が瞬いた気がして瞼を上げたがいつもと変わらない空間だった。




 狂気の時が薄れ、人々の中から悪意の気配が消えつつあった。

 訪れる人はまばらになり、僕はただ無の刻を過ごすことが多くなった。

 呪縛鎖は僕から生気を吸い、衰えることなく束縛している。

 喉に巻かれた呪縛布も然りで、ずっと新しい痛みが疼きのように続いている。


 不定期に激痛の走る呪縛鎖に歯を鳴らして噛み締めた時に、自分の口から光の粒が零れるのを見た。

 煌声だとすぐに理解できたが、彩のないそれは弱々しい。

 能力があれば、相応しい彩を纏うことができたのに。


 そんなことを考えても、過去は変えられないし現状も変わらない。

 何もできない己の精神が壊れていくのを感じながら時を刻む。


 眠るまで続く罰。

 咎人として忘れ去られて静かに眠る。

 それが僕に定められた唯一の未来。


「……そこにいるの」


 蓄光水晶が暗くなったタイミングで、来訪者があった。

 僕の意識を聞き入れてくれる蓄光水晶の灯り具合からしても、外は就寝の時間のはずだ。


「まだ、あなたなの」


 掠れていたけれど知っている声。

 顔が見たいと願えば、蓄光水晶がほんのりと周囲を明るくしてくれる。


 涙にくれたのか眼球が沈み込んでいる。

 ふくよかだった身体は骨と皮だけのように瘦せ細り、自力で歩くことすら困難に見えた。

 虚ろな瞳がギラギラと光り、僕を見定めると一歩ずつ確実に進んでくる。


「どうして」


 石板までの距離、階段と、衰弱している身体では辛い道程を歩き僕の目の前に立った。

 そこはまさに、父が立った場所。

 仁王立ちになり両拳を震わせる様は、怒りそのものだった。


「どうして生まれたの」

「どうして私を選んだの」

「どうして何もなかったの」


 腹の底で煮え滾っていただろう疑問が呪詛となり吐き出された。

 答えるつもりはなかったが、運悪く走った痛みに僕は歯を鳴らしてしまった。

 唇から落ちた弱い光を見つけ、静かに零れていた言葉は唐突に激しい罵りに変わる。


「どうして期待を裏切った!」

「どうして当然のように祝福を受けた!」

「どうして美しい瞳を持って生まれてきた!」


 慟哭が真正面から叩きつけられた。

 彼女は倒れ込むように駆け寄り、手にしていた杼で太腿の肉を刺した。

 一回、二回、三回。

 勢いよく刺した。


 僕の母は、果ての世界で長く機織りをする巫女だった。

 彼女の生み出す生地は加護を持ち、とても丈夫で軽く美しく、大きな終結を目指す英雄たちに最高の防具として渡され続けた。

 たくさんの人の祝福を祈り糸を紡いだ愛用の杼で、裏切の象徴である咎人に一矢報いるつもりだったのだろうか。 


 呻くくらいできればよかったけれど、喉が使えないから空気しか出ない。

 痛がることができればよかったけれど、身体は痛みに麻痺してしまって微かにしか動かない。

 心だけが、潰れてしまわないかと思うほどに苦しくて痛かった。

 枯れない涙が頬を伝っている。

 だけど彼女には、助けを求め媚びているように見えたのかもしれない。


「その目で見るな!」

「もう騙されないぞ!」

「お前はなんでもない!」


 激昂に口から唾液が飛び、手にしていた杼を振り上げ肩に突き刺す。


 本当に申し訳なかった。

 彼女が胎内で育みこの世に生んでくれた。

 咎を生み、数年間愛情を注ぎ続けた彼女は、発狂寸前だった。


 素足で、服の裾が汚れている。

 髪も艶をなくし手入れもされていない。

 微かに漂う臭いから、王族の習わしである沐浴すらしていないのだろう。


 優しい笑みを知っている。

 柔らかな抱擁を覚えている。

 知的で歌が上手くて、何度寝る前に読み聞かせと子守唄をねだったか。

 彼女はいつも微笑みながら僕に幸福をたくさんくれた。


「見るなと言っているだろう!」

「恨むつもりか!」

「呪うつもりか!」


 髪を掴まれ、激しく振られた。

 玉座に後頭部が当たるが、彼女は気にしなかった。

 泡の浮く涎を滴らせ、口汚く罵り喚き、興奮のあまり流してしまった自らの尿を服に吸わせ全裸になると濡れた服を僕の頭に乗せて手を叩いた。


「どうせその髪も偽りだ!」

「それくらいが相応しい!」

「あはは、ははっ!」


 ああ、壊れていく。

 大好きな人が、目の前で壊れていく。


 誰か、彼女を救ってあげて。

 僕ではきっと救いきれないから、どうか、僕を痛めつけることで彼女が慰められるのならそうできるようにしてあげて。

 皆を悪意から遠ざけたあの時のように、誰か。


「見るなぁ! 見るなぁあぁあ~!」


 髪を振り乱し、足元に転がっていた杼を入れるケースから糸と針を取り出した。

 荒い息を肩で繰り返し零れそうなくらい見開いた目をしていても、長年の手癖で覚えているのか針に糸をするりと通す。


「咎人、見る、汚らわしいから……見るなああぁ!」


 意識が欠片になって零れているように見えた。

 さらにぎこちなさを見せる彼女は、糸の通った針を持って片手で僕の瞼を摘まみ針を刺した。


「見るから、見るからだ、見るな」


 愛してくれた彼女のお気に入りだった瞳を、彼女自ら封印しようとしている。

 瞼や涙袋を通る針の硬さや糸のしなやかさを薄っすらと感じながら、止まらない涙にも怒って頬を杼で殴る彼女を可能な限り目に焼きつけた。


 僕が生まれてしまったことの帳尻合わせだ。

 たくさんの人から騙し取った幸福を、祝福を、彼らへ返すための儀式だ。


 そう思えば、なんてことはない。


 縫い合わされた瞼の隙間からでも彼女が見える。

 満足して喚いていたが、僕の頭から落ちたらしい服を引き裂く音がする。

 何事かと狭い視界で見守っていると、裂いた布を僕の目に当てた。


「二度と、誰かが、お前の目に、騙されないようにっ」

「咎人だろう、咎人だから、こうしておけば大丈夫」

「誰ももう不幸にならない……不幸なんて、必要ない」


 自分に言い聞かせるような言葉が繰り返され、僕の視界は完全に失われた。


 眼球を潰さなかったのは、母親としての情だったのかもしれない。

 両目の間に何度も何かが擦りつけられる感触があって、突然子どものような泣き声が響いた。

 僕の前にへたり込み、僕の膝の上に顔を伏せて号泣している。


「…………!」


 泣き叫ぶ声はすぐに枯れ果てたけれど、彼女は何度も僕の名前を繰り返していた。

 我が子への悪意と絶望に抗えなかった後悔のように、消滅したはずの名前を繰り返している。


 これで最後だと、本当の別れだと、母親の本能が語ってくれているように思えた。


 泣き続ける彼女が、探しにきた近衛兵に発見されて無理やり引き離される気配がした。

 遠くなった彼女の泣き声の代わりに、報告のために状況を確認する近衛兵たちの声が聞こえる。


「おい、これ見ろ」

「咎人だし、ちょうどいいだろ。気にすんな」

「はぁ……王妃の私物だけ拾っていくか」

「うわっ、汚ねっ」

「全裸で戻すわけにもいかないだろ、これも回収するぞ」

「汚いボロ切れなんか持って帰るのかよ」

「黙ってろ」


 近衛兵の気配と一緒に彼女の気配も消える。

 きっとあまりに泣いて、気絶でもしたのだろう。

 数人の足音以外、泣く声はもうなかった。


 どうか彼女がこれ以上壊れないよう、これ以上苦しんでしまわないよう、同じ分だけの幸福の訪れを祈ることは許してほしいと、誰かに請うた。


「!」


 瞬きを見た。

 視界ではなく、感覚で見えた。


 生まれたのは心の中。

 小さな光が一粒生まれた。

 純白の輝きは過去、城で見た親族たちの煌声のようだった。


 願うことを、許してほしい

 たくさんの人に幸福を

 たくさんの不幸を祝福に

 願うことは、許してほしい


 真っ暗な心の中、その光の粒は僕の言葉を繰り返している。

 ぼんやり見ていると、全身を包むような柔らかい感触に見舞われた。

 どうせ見渡しても見えないのだからと光だけを見守る。


 誰か、お願い

 誰か、許して


 光の粒はふわりとその場で小さな円を描いた。

 すると柔らかい感触が痛めつけられた肉体に沁み込んでくるのがわかった。

 暗がりの中の純白の光が、薄く青い布で包まれるように青白い光に生まれ変わる。


 その色は、僕の彩ではない。

 直感したけれど、必要な変化だと受け入れた。

 それに、あの青は見覚えがある。


 ずっと昔、生まれて間もない祝福の日、親族の煌声で埋められたあの部屋で、小さな風に一瞬だけ天井を染めた色。

 穏やかで遠く深く、本で見る抜けるような青い空に似た清々しさは、咎人が吐き出す罪の洗浄を手伝ってくれるのだろう。


 これまでに受けた幸福を、犯した罪の重さと同じだけ繰り返そう。

 繰り返す幸福の記録が、純白を包む青の光で咎を浄化する力になる。

 そうして誰かの幸福へと変わっていくといい。


 生命の樹のように、自ら生み出した厄災を誰かの祝福へと変え続けよう。

 この青白い光はきっと、生命の樹が僕にくれた最初で最後の祝福だ。


 そうして、力尽きたい。

 力尽きれば、早く眠れる。






 来訪は母が最後だった。

 あれから誰もこなくなり、僕は完全に独りになった。

 周辺の気配は植物と鉱物で、小動物など生物の気配はない。


 静かだった。

 蓄光水晶だけが話し相手になってくれる。

 どちらも言葉なく光の点滅だけで会話をしている。


 でも、それも少しずつなくなった。

 意識があるのに夢を見ているような感覚に包まれ、僕はその中で幸せだった頃の記録を無心に繰り返していた。

 疲労することもなく、青白い光に補助されながら何度も繰り返した。

 とても長くそうしていた気もするし、一瞬のような気もする。

 ふと正気に戻ると、僕の周囲は外界と隔てられていた。


 気配と匂いだけの判断なら、生命の樹が伸ばす蔦の集合体。

 それが僕を包むように閉じ込めている。

 とうとう生命の樹も僕へ罰を与えるようになったのかと微かに思った。


 けれど咎を償い続ける身として、自分の寂しさなど取るに足らない些事にしなければ。

 身体はとうに動くことを忘れ、思考はただ責務として幸福の時を繰り返す。

 何度でも見たいあの青い瞬きを求めていたかもしれない。


 僕は知らず、歯を噛み合わせて煌声を生んでいた。

 願うことは皆の幸せではなく、己の終わり。

 生命の樹が僕を玉座や石床ともども囲んでしまっているのなら、僕は完全に誰も知らない存在になっている。

 僕を知らない、ここに咎人がいることすら知らない世代の生きる果ての世界には、ちっぽけな僕など必要ない。


 だから、もう願うだけ。

 歯を合わせて煌声とは言い難い未成熟な声を吐き出し、短くとも伝わりやすい言葉を届けるだけ。


 滅せよ

 滅せよ


 貧弱な声が外に漏れることがないとしても、懇願しかできない。


 人々の幸福は願い続ける。

 でも、早く今が壊れてしまえばいいのにとも思っている。

 諦めたけれど、仕方がないと納得したけれど、まだ壊れないから。

 壊れてしまったあの人のように、精神が砂のように崩れてしまえば楽だから。


 咎人の分際でこんなことを感じるのは許されないのかもしれない。

 でも、まだ人としての理性が残っているのだから仕方がない。


 眠るまでの長すぎる孤独は寂しいから。

 だから。




 ボ ク ヲ コ ロ シ テ






 漆黒の闇の中に輝く青白い光が、まるで雪のように降ってくる。

 ゆっくりと、静かに、冷たく。

 積もって埋もれてしまいそうだったが、不思議と不安はなかった。

 光はただ淡々と穏やかに降り続く。


 頬に触れる刺すような冷たさに、意識が揺れた。

 青白い光の雪が淡く消え、闇が夜明けのように薄くなる。


「!」


 瞼に、水滴が落ちた。

 心臓の鼓動が、その衝撃に呼応した。

 突然肺が空気を求め、伝達を受け取った脳が口を開かせる。


「は……っ、あ!」


 無意識に吸い込んだ新鮮な空気はあたたかくて、一気に全身を活性化させた。

 思うように動かない瞼を上げると、遠くまで見渡せる憂鬱な茜色が広がっている。


 不意に、また上から水滴が落ちてきた。

 ゆっくり頭を動かしてみると、知らない青年の顔がある。


「キミ、は」


 純白の長い前髪に見覚えがあった。

 果ての世界の抑止が解かれ、本来の年齢相応の肉体になったのだろう。

 変わらず細っているが成長している。


 急激な成長に耐え切れなかったようで顔の布が外れて、無残に縫い閉じられた瞼が見える。

 その隙間から涙が一筋頬を伝い顎から落ちて、サイレンスの顔に当たった。


「ウォン!」


 見回りを終わらせたらしいジャッジが吠え、胸に擦り寄ってくるのをなんとか受け止める。


「私は一体、どうしたんだ」

「……」

「キミの礎になると言った傍からこれでは……情けない」

「……」

「毎回こんな調子では心が休まらないだろう」

「……」


 自嘲の呟きに何度も頭を振り、サイレンスの顔に涙を零す青年の顔になった王子は口唇を噛み締めていた。

 震える指先がサイレンスの髪を撫でつけ、伺うように頬に触れる。




 後悔させたくない

 礎として悔やむ日々は必要ない

 咎はここに棄てればいい




「心配無用さ。後悔しないよ。キミは咎人ではないし、礎になったことで私も世界が少しは違って見えるだろう。悔やむなんて、とんでもない」


 サイレンスの言葉にまた頭を振った王子は、煌声を出していないことに気がついた。

 礎になったことで繋がった影響だろうか。


「クゥン」

「ジャッジ、起きるから少し離れて」


 離れたがらないジャッジの頭を撫で「いい子だから」と言って聞かせると、覗き込む王子に視線を投げ笑って見せる。


「キミに膝枕をしてもらっていたなんて、知る人が聞けば卒倒モノだ」


 胸の上に乗せられていた腕を動かし起き上がるために両手で大地を押すと、背中全体が何かと接着されているのかビクともしなかった。

 何度か起き上がろうと試みて自分の身体が動かないことへの説明を聞くため、サイレンスは再び王子の膝に頭を乗せ見上げる。


「動けないのは、どうしてだろうか」




 礎としての定着

 乖離は容易




 手順を聞こうとした矢先に、王子の腕がサイレンスの顎の下でクロスされる。

 まるで絞め上げるような姿勢になる王子に慌てるが、伸びた柔らかい純白の感触に一瞬気を取られた。


 直後、背中で石化魔法を受けたような硬質な破砕音が聞こえてギョッとする。

 王子を見ると、穏やかに頷いている。


 腕の拘束が解かれ、サイレンスは慎重に手を使い上半身を起こそうと力を入れる。

 今度は軽く身体が動いた。

 立ち上がり全身を動かしてみて、どこにも支障はない。


「これは?」




 礎の証

 僕の式彩

 背面全域に描かれている




「では私は正式にキミの礎になれたわけだ」


 手の甲に見た模様は、確かに幻の中や生命の樹の中で見た模様をしている。

 他の式彩よりも格段に大きかった分、証も大きいのかもしれない。


 意識をすれば魔法容量が認識許容を大きく超えている。

 通常であれば、魔力に潰され狂ってしまいそうな質量だ。

 それらが身体に巡らされた式彩によって制御され、サイレンスの魔力と融合している。


「キミは、大丈夫かい」


 立ち上がるとサイレンスよりも少しだけ背が低い。

 成長分伸びた髪が風になびき、王子は不器用にそれを集めて両手で握った。

 恐らく髪の纏めかたも知らないだろう。


「触ってもいいかな?」


 悪いことはしないよ、と付け加えるサイレンスに頷いた王子の髪を一度撫でて、風魔法で一つ括りにする。


「私も纏めかたをたくさん知っているわけではないから今はこれで我慢して。ここから一番近い最果ての街についたら、髪結い処に行ってキレイにしてもらおう」


 サイレンスの言葉の半分ほど理解できていないようで、王子は首を傾げつつも頷いた。

 そして慌てて首に引っ掛かっているボロ布で顔を隠そうとする。


「それはもう要らないよ」

「……、……」

「寝袋のポケットに確か応急道具が入っていたはず……」


 唯一の荷物になってしまった寝袋の所在を見渡すと、察したジャッジが持ってきてくれた。

 礼を言って受け取り、ポケットから未開封の包帯を取り出す。


「もうここは違う世界だから、衛生面で果ての世界と同じとは限らない。だから新しい包帯で保護しよう」

「……」

「それを捨てるのは気が引けるかい?」


 咎人として責められた証だろうと思うのに、王子は薄汚れた布を握りしめた。

 それならばと、絡まないようにたたんで寝袋のポケットにしまう。


「さて、先ずは最果ての街を目指そう。そこでキミの装備を整えて、魔法省の支部がある街へ移動するよ」

「ウォンウォン!」

「こちらの世界にきて、腹の虫が鳴き始めたかい?」

「ウォフン」

「わかったよ、最果ての街までは急ぐとしよう」 

「ウォン!」


 サイレンスの言葉に大喜びでいい返事をしたジャッジだが、乗せられたことを察して王子の足元にさっと隠れる。


「王子、手を」

「キャウン」

「ジャッジが早く行こうと言い出したんだぞ」

「クゥーン」


 サイレンスとジャッジのやり取りがわかっていない王子だったが、伸ばされたサイレンスの手に迷いなく手を乗せた。

 繋がっている。

 王子はサイレンスが見えている。

 もっとたくさんのものを、これからサイレンスを通して見てほしい。


「さあ、出発だ!」

「キャゥウーン!」

「キミもしっかり掴まっていて」


 手を引いて薄い身体を抱きしめた。

 幼かった頃と同じく、サイレンスの胸の中に納まりがいい。

 逃げようとするジャッジを風魔法で捉まえ片腕で抱えた。


 驚くほどに風が動いてくれる。

 仲間になったような同調感が全身を駆け巡っている。


「キャィン!」


 とは言え、片手で抱えられたのが恐ろしかったのか、ジャッジがあまりにも暴れてバランスが取れない。

 どう宥めようかと考えていると、抱きしめていた王子が身体を反転させてジャッジをしっかりと抱えてくれた。

 途端におとなしくなったジャッジの頭を撫で、無駄な抵抗がなくなって安定した上昇を果たし目的地へと飛行を始める。


「寒いかい?」


 しばらくすると、王子が震えていることに気がついた。

 声をかければ頭を横に振る。


「人のたくさんいる場所へ行くのは不安?」


 それには頷く。


「怖がらないで大丈夫。何度も言うが、キミに与えられた咎は無意味なんだ。だからキミは、本来であれば科してはならない罰を受けたんだよ」

「……、……」

「私が支える。もうキミの礎だ、信じて」


 自分と同じ方向を向く髪が柔らかい肌触りで顎をくすぐる。

 王子は少しの間思考していたようだが、そっと頭が上下に振られた。


「特等席だね、ジャッジ」


 王子の肩に顎を乗せ、不安そうな瞳で見つめてくるジャッジに笑った。

 風魔法でほぼ体重負荷のない王子が、あやすようにジャッジを撫でるのを感じる。


「王子、伝わるかい。この世界の光景が」


 鈍なる紅色の靄を過ぎると見えてくる、果ての世界とまったく違う輝きを放つ陽光、青く澄んだ空、流れる雲、風、大地の色と点々と色づく緑や湖。

 旅人やキャラバンが立てる砂埃と、すべてを飛び越えるサイレンスたちの小さな影。

 影に気がついた何人かが上を見上げ、手を振った。


「全部を知る必要はない。でも、見聞きしたすべては知っていてほしい」


 たくさんの歓びや楽しさ、快活さを感じてほしい。


「生命の樹が祝詞を捧げ続けている世界を見てほしい。今でも哀しいことはあらゆる世界の中で起き続けているけれど、安らかさをを得ている人々の穏やかな顔を見てほしい」

「……」


 すり、とサイレンスの頬に頭が擦れた。




 祝詞の命を持つ生命の輝きが大地に広がっている

 世界は、生きている

 謳歌している


 これからを生命の樹と共に見守り新たな祝詞を捧げるため世界を見る

 生命の樹が記録を止めた起因で生まれた厄災を残らず祝福に変える




「もちろん私も手伝うよ」




 風に愛される英雄よ

 生命の樹を司る咎の礎よ

 我が最上の祝詞を贈り感謝と祝福と果てなる加護を




「私からもキミへ、礎としての最大限の誓いと英雄としての守護を」

「クゥ~ン」


 忘れられていないかと心配なのか、ジャッジが情けない声を漏らした。


「いつまでも情けない顔をしていると、おやつを買わないぞ?」

「ウォ、ッフ」


 おやつと聞いて急にキリッとした目つきになるジャッジがおかしくて、サイレンスは大きな声で笑ってしまった。

 こうして笑える幸せも、ジャッジとの何気ない時間も、出会いも生活も何もかもを祝福してくれている存在があるから感じることができるのだ。


 その偉大なる存在へ、今度は同じ気持ちを感じてほしい。

 咎人ではなく、ひとりの人間として、世界をその目に焼きつけてほしい。

 あの美しい紫色の瞳に。


「私は案外欲張りだ。キミとしたいことが山のように浮かんできて、どれからこなしていこうかもう迷っているよ」

「……」

「心配しないで。私にとってはこれすらも楽しみという歓びなんだ!」


 王子を抱え直して、心地好く空を飛ぶ。


「いつかキミの名前も知れたらと思うよ」

「……」

「わかっている。キミが自らの咎を許した時にでいいさ。それまでの仮の名前は私が決めていいかい?」

「…………」

「ありがとう。どんな名前がいいかな、考えるのが楽しみだ」


 なんでも楽しみにするサイレンスの心が伝わっているのだろう。

 王子の肢体に僅かに残っていた緊張が解けていく。

 この王子の変化は、果ての世界で成長を続ける生命の樹の養分となり、生命の樹も相応に変わっていくだろう。


(新しく成長した生命の樹に会いに行くのも、今から楽しみだ)


 その頃には、果ての世界の住人たちも戻っていることだろう。

 賑やかで明るいあの城下町を、王子とジャッジを連れて歩きたい。


 サイレンスの高揚が風にさらなる速度を与える。

 正に風と一体となったような感覚は、サイレンスを楽しくさせた。


「キャウーン」

「あっという間だ、ジャッジ」


 これからを考えることが嬉しくて、サイレンスは悲鳴を上げるジャッジを撫でて優しい言葉をかけながらもさらに速度を上げた。






 ひとつの旅が終り、新たなる旅が始まる。

 そうやって、これからも世界は生き続ける。











終幕





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果ての世界で生まれたキミと 西島もこ @moko2ccma

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