月に蛍
灰崎千尋
月に蛍
六月、梅雨どきには珍しく晴れた夜だった。
スーツとネクタイを脱ぎ捨て、コンビニで買った缶ビールを手に狭いベランダへ出て、煙草に火をつける。
外気は多少べたついているが、換気扇の下でちまちまと吸うよりはよほど良い。シャワーを浴びる前の一服。これが無いと一日が終わった気がしない。もう、日付も変わってしまったが。
安普請のアパートは、誰かの足音や扉の揺れを漏れなく全室に伝える。しかし今夜はそれも随分静かで、遠くに救急車のサイレンが消えていったくらいだった。ジジ、と煙草の燃える音すらも響いてしまうような。
その静けさの中に、けほっと咳き込む声が聞こえた。近い。隣だろうか。
煙草はまだ半分も吸っていない。とりあえず声のする方から離れようと足を踏み出し、サンダルがざりざりと鳴った。
「あ、良いですよそのままで」
思わず足を止めた。柔らかい男の声だった。
「すみません、別に喉が弱いわけじゃないんですけど、抑えられなくって」
「……いや、こちらこそ」
返した自分の声があまりにもボソボソとくぐもっていたのが無性に恥ずかしくなる。隣の男の声が、やけに澄んでいるせいだ。
「月を肴に煙草とお酒、良いじゃないですか。大人の男って感じで」
あまりにもさらりと言うので、嫌味にも聞こえない。
月。
言われてはじめて、空を見上げる。
墨を伸ばしたような夜空には薄雲がかかり、小さな星の姿はない。その高いところへぽつりと、やけに丸い月が浮かんでいた。
「頼りないな」
俺が呟くと、隣から吹き出すような笑い声がした。
「たしかに。なんかね、一年で一番小さい満月なんですって。“ストロベリームーン”だとか言うから赤いのかなって思って見てみたのに、全然そんなことないし」
知らなかった。
“ストロベリームーン”なんてものを、それが今日だということを、今夜が満月だということを。そもそもこうして月を見るのが何ヶ月か、もしかしたら何年かぶりだった。
そのままぽかんと間抜け面で月を見ていて、煙草の灰が落ちそうになるのを慌てて灰皿で受けた。
吸わない間にだいぶ短くなってしまった煙草を未練がましく見つめてから、一口吸う。その味が、いやに濃い気がした。胸の内に澱んだものを煙が包んで、吐き出したそれは月に向けて昇り、しかし届くことなくただ夜に溶けていく。そんなものだ。
満月は小さくともきれいな円を描いて、それが少し、煙草の火にも似ていた。
「ねぇ、煙草っておいしいですか」
隣の男が、ひときわ声を潜めて言う。
「吸ったこと、無いんですか」
ぼそりと返すと、へへ、と照れたように笑うのが聞こえた。
「興味無くは無かったんですけど、気付いたらタイミングなくしちゃって。お隣さん、なんかおいしそうに吸うから」
「……見えないのに?」
「煙はこっちからも見えますよ。あとなんか、気配が」
今度は俺が吹き出した。そんなことを言われたのは初めてだった。むしろ「つまらなそうに吸う」と言われることがあるくらいだ。
「おいしいとかおいしくないとかじゃなくて、もうクセで吸ってるみたいなもんだから。依存ですよ。金もかかるし」
「そんな、その辺の大人みたいなこと言って」
「その辺の大人ですから」
拗ねた声音が幼くて、面白かった。大学生くらいなのだろうか。隣人の顔も名前も、まともに覚えていない。それで良いと思っていたのだが。
「一本、吸ってみる?」
「え、いいんですか」
気まぐれに言ってみると、すぐに食いついてきた。
「一箱買うと惰性で続けがちだから。一本試して、合うか合わないか考えたら良い。ビニール袋にでも入れて、一本ポストに入れときますよ。ウチが205だから、206?」
「逆です、204。いやでも、そんな麻薬取引みたいな……あ、ベランダ越しでいいじゃないですか。腕伸ばしたら届きますよ、ほら」
にょき、と見知らぬ腕が衝立越しに生えてきた。まるで妖怪だ。
「どうせなら今吸いたいんです」
「強引だな。火は?」
「火?」
「ライター、持ってますか?」
「ええと、チャッカマンがどこかに」
「……余ってる100円ライターあげます」
俺は手にしていた煙草の火をにじり消して家の中に入り、転がっていた安ライターを一つ取ってベランダに戻った。適当に掴んだそれは、月明かりの下でほのかに赤かった。
「先にライター渡しますからね、落とさないでくださいよ」
「了解です!」
「声響いてるから」
テンションが上がっているらしい隣人の腕は、あまり健康的でない自分のと比べても細く、色も白く見えた。精一杯に伸ばしているからか、手首の筋が浮かび上がって、その影が際立つ。指はほっそりと長く、きっと煙草が似合うだろうなと思った。その手に押し付けるように、赤いライターを手渡した。
「おお、ライターだ」
腕が引っ込んで、やけに嬉しそうな声が言う。確かに煙草でも吸わない限り、ライターも馴染みがないのかもしれない。
「煙草、ハイライトだから初心者向けじゃあないんだけど」
俺は箱をトンと叩いてハイライトを一本取り出す。その間にまた、にょき、と腕が伸びてくる。
ライターに比べると煙草はあまりにも細く、軽く、手が震えそうになる。おかしなことをしている自覚もある。きっと満月のせいだ。
煙草を白い手の中にそっと滑り込ませる。震えが伝わりそうでその手に触れないようにしていたのに、指先にふと温もりを感じて、びくりと跳ねてしまった。それで相手の手も動揺して、煙草を取り落としそうになる。そのとき思わず、俺の手は煙草ごと白い手を握り込んでしまっていた。
一瞬の間があった。自分の手のひらから大量の汗が吹き出るのを自覚して、ばっと手を引っ込めた。何を、しているのだ、俺は。
ゆるく握った形の白い手は、少しゆらゆらと彷徨うように揺れてから、ゆっくりと引っ込んだ。
「……えへへ」
その声が気まずい空気感で無いことに、まずほっとした。
とりあえず何か言おうとして、声が急に掠れてしまい咳払いをする。それだけなのに、下手に誤魔化したみたいになった。いや、実際誤魔化そうとは思ったのだが。
「吸い方、わかりますか」
改めて尋ねながら、新しい煙草を咥える。
「え、吸い方?」
きょとんとした顔が浮かびそうな声。
「煙草を咥えたら、少し吸い込みながら火を近づけるんです。じゃないとちゃんと点かないんで」
苦笑しながらそう言って、自分の煙草に火を点けた。ひと呼吸して、やっと落ち着いた気がする。自分が初めて吸ったのはいつだったか。
「最初は何回か強く吸う感じの方が点きやすいかな。火が点いたら口から煙を吸う。それを口に含んだまま、更に鼻からゆっくり息を吸う。そうすると煙が肺に落ちていくから、ちょうどいいところで吐き出す。それだけです。」
「ちょ、ちょっと待って。やってみます」
カチカチと、安っぽいライターの音。うん?と戸惑ったように唸ったあとに、あっ、と声が上がる。でもそれからすぐに、ゲホゲホと咳き込んだ。
「それちょっと重めなやつなんで、無理しないで。あ、灰皿のこと忘れてた。何かありますか、缶とか」
「えっと、ええ? 缶? あーありますあります。けほっ。ううん何これ……あ、でもちょっと、わかってきたかも。なんだろ、ぼやーっとしますね」
何がわかったんだかまるでわからないが、恐ろしく適応能力が高い人間なのだろうことは確かだ。少しすれば、自分と同じような煙が隣からも昇っていくのが見えた。
そうやってしばらく、隣同士でただ煙草を吸っていた。黙ってしまえばやはり静かで、今この辺りで起きているのは二人だけのような気すらした。そんな自分たちを覗き見するように、小さな丸い月が雲間に隠れたり姿を現したりを繰り返していた。
「僕もね、頼りないなって思ったんです」
煙の合間に、隣の男が言った。
「一人でこの月を見るのは、なんだか寂しいなって。だから、ありがとうございます」
何を返していいかわからなかった。自分もお礼を言うべきな気がした。しかし、何に。今夜の満月を教えてくれたことに? 声をかけてくれたことに? 一緒に煙草を吸ってくれたことに? どれも少しずつ、違う気がする。
「いや、こちらこそ」
絞り出せたのはそれだけで、隣の彼と比べてあまりに空虚な言葉だった。口の中が、苦い。
いつの間にか、隣の煙は消えていた。
「僕、そろそろ寝ます。煙草ありがとうございました。今度何かお返ししますね」
ガラガラと、窓を開ける音がした。
「一本くらいでそんな、良いですよ、本当に。」
「でも……」
「ああ、えっと、火の不始末だけ本当に気をつけてください。缶に水とか入れて。そっちが燃えたらウチも無事じゃ済まないんで」
「あ、それは確かに」
隣の男は少しぼんやりした声で「それじゃあ、おやすみなさい」と言って、部屋に戻っていった。
月の下には、俺一人になった。
まだ眠れる気がしなくて、また一本、煙草に火を点けた。
その夜はいつの間にか寝ていたらしい。窓は閉まっていて鍵もかかっていたが、煙草と酒のニオイが自分に染み付いていて最悪だった。今日はまだ、平日だ。
ざっとシャワーを浴びてから、脱ぎ散らかしてない方のスーツを着て、家を出る。歩いている内に髪は乾くはずだ。
足早に外廊下を抜けようとしたとき、隣の玄関が開いた。中から現れたのは、声から想像したままの爽やかな青年だった。思わず足を止めてしまい、目が合う。
色白の青年はくしゃりと照れ臭そうに笑って、言った。
「月、きれいでしたね」
月に蛍 灰崎千尋 @chat_gris
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