第8話
「言うまでもなく野球は九回まである。どんな展開であれ、最後に一点リードしていれば勝ちだ。しかし初戦に関しては、何がなんでも先に点を取りに行く」
試合前のミーティングで、監督はそう述べた。
「初回が最大のチャンスだ。相手が俺たちの力に気づく前に先制点を取るぞ。無名校に先制されたとなれば、必ず動揺が生まれるだろう。そこにつけこめば、こっちの勝率は大きく上がる」
監督の台詞は根拠のない景気づけじゃない。格下と見ていた相手に劣勢になったチームが、焦りから本来の実力を発揮できないまま敗れ去ることは、野球でなくとも珍しくない。
「もちろんそうそう順調に進むとは限らん。途中で追いつかれ逆転されるかもしれないし、そもそも先制点を取れない可能性もある。だが、まずは理想の試合展開のイメージを作れ。イメージできないものは実現もできない。まして敗北を想定する必要などない。先制しリードを保ったまま終盤を迎えられれば──勝てる」
マウンド上では背番号11が投球練習をしている。芳賀さんと相手の主将がじゃんけんを行い、勝った芳賀さんが先攻を選択した。
一般的に野球は後攻有利と言われることが多い。高校野球で攻撃順の選択権を得たチームはほとんどが後攻を選ぶ。実際にプロ野球・高校野球ともに後攻のチームの勝率が僅かに高い、とは結羽の情報。先攻は同点で九回・延長を迎えるとサヨナラ負けのリスクを背負う。対して後攻はリードされても裏の攻撃があるという心理的余裕が生まれ、落ち着いてプレーできるのは確かだ。
しかし、俺たちはじっくり構えて逆転を待つような強豪チームじゃない。後攻で初回に失点すれば、いきなりビハインドを背負ってのスタートになる。主導権を渡せば、引き戻すことは難しい。だから先攻なのだ。それに後攻の勝率が高いのは事実だが、同時に高校野球において先制したチームの勝率もまた明らかに上昇するとも結羽から聞いた。データはあくまで統計だ。チーム力も展開もその都度違うのだから、一つの統計をもって、あらゆるチームに当てはめられるものじゃない。
投球練習が終わり、トップバッターの宏樹が右打席に入った。球審の右手が上がり、試合開始を告げる。甲子園のそれに比べると、いくらか重厚感に欠けるサイレンの音が響き渡った。
ストライクを取りに来た初球のストレートを、宏樹は思い切り振り切った。鋭い当たりが三塁の横を襲うも、惜しくもファウルになった。
「オッケーいいよいいよ!」
「どんどん振ってこー!」
いきなり会心の当たりを食らって慎重になったのか、ボール球が二球続く。2ボール1ストライクと、打者有利のカウントになった。
俺はベンチで次の球を予測する。バッテリーの心理からすると、3ボールにはしたくないから当然ストライクが欲しい。しかしストレートは痛打されたばかりとなれば、変化球を選択する確率が高い。それもコントロールが難しいフォークではなく──スライダー。
打席の宏樹も考えは同じだったらしい。真ん中から内角へ曲がるスライダーを、宏樹はきっちり捉えてセンター前へヒットを放った。
「しゃ!」
「ナイバッチ!」
一塁ベース上で拳を握る宏樹にベンチから歓声が上がる。このヒットは単なるヒットじゃない。チームを勢いづける試合開始直後の出塁で、得点を引き寄せるノーアウトのランナーで、そして俺たちの野球が公式戦で通用すると証明する一本だ。
二番の
無死一塁の送りバントは長い間定石とされてきたが、野球を数値化するセイバーメトリクスという理論によると、送りバントはむしろ得点期待値を下げるという研究結果が出ている。最近は初回から送りバントをするチームは少なくなった。もちろん、これもすべてに適用されるわけじゃない。投手と打者の力関係、得点圏に走者が進むことによる投手の精神状態、ランナーの足や後続の打者の調子など様々な要素が複雑に絡み合う。ただ、送りバントとは基本的に「確実に一点を取りにいく」戦術だ。まだ初回、せっかく勢いに乗りかけているのだから、一点と言わずもっと欲張ってもいい局面だろう。
日下さんはスライダーを流し打ってレフトフライに倒れた。結果的にはランナーは進めなかったが、元よりリスクは織り込み済みだ。まだチャンスは潰えていない。
「一発かましてやれ、芳賀!」
芳賀さんが打席に立つと、ベンチのみならずスタンドからも声援が飛んだ。加地工とは比べるべくもないが、明佑側の応援席にも部員の友人や家族がちらほらと観戦に駆けつけている。特に野球同好会を立ち上げ、少人数でも練習に励んできた芳賀さんたち三年生の姿を同級生は知っているだろう。
二球目の外角ストレートを、芳賀さんは逆らわずはじき返す。打球はピッチャーのグラブをすり抜け、セカンドが飛びつくも届かない。打球がセンターへ抜けると、宏樹は迷わず二塁をまわり三塁へ。センターからの送球は正確にサードへ送られたが、宏樹のスライディングが勝った。一つでも先の塁を積極的に狙う。打線の破壊力に欠けるうちが点を取るために、監督が徹底してきた走塁意識がチャンスを拡大した。
一死一、三塁。加地工の内野はバックホームとダブルプレーの両方に対応できる中間守備をとった。初回から安打を浴びてピンチになるのは想定外だっただろう。油断は禁物と言い聞かせても、心のどこかで十人しかいないチームなど楽勝だと侮ってしまうのは避けられない。
五番の俺はベンチを出て、ネクストバッターズサークルで尾野さんの打席を見つめる。チーム一の体格と長打力を誇る尾野さんは、悠然としたフォームで構える。
相手バッテリーは三球続けて変化球を投げてきた。打者の力を測りかねているのだろう、安易にストライクを取りにいくのをためらっている。ボール、ファウル、ボールときた四球目を尾野さんがフルスイングする。打球は右中間へ高々と上がった。
「越えろ!」
思わず俺は叫んだが、あと一伸びがなく、後退したライトが追いついた。しかし三塁ランナーがタッチアップするには十分すぎる飛距離。余裕をもってホームベースを駆け抜けた宏樹が、大きくガッツポーズした。
「しゃ! 先制!」
「ナイスラン」
跳ねるように戻ってきた宏樹と勢いよくハイタッチをかわす。アウトになった尾野さんも、「手ごたえあったのになあ」と言いながらも笑顔でベンチの祝福を受けていた。
二死一塁で、俺の初打席。
「かっ飛ばせー!」
戸倉の明るい声がする。その応援が力になったかは分からないが、俺は高めのストレートを強い当たりで打ち返した。三遊間へ飛んだ打球にショートが追いついて送球するが、間一髪セーフ。
「……ふう」
一塁ベースを駆け抜けた俺は、塁審のセーフの声を聞いて安堵した。綺麗なヒットではなかったが、悪くないバッティングができた。
次の
「ナイスバッティング」
防具をつけて守備に向かう俺に、結羽がそう声をかけた。
点を取ったあとの守りほど大事なものはない。リードしてもすぐに取り返されてしまったら、チームのムードにも影響する。まして先制の直後ならなおさらだ。
加地工の一番バッターはミート主体で流し打ちが得意、走力はチーム一だという。塁に出すと厄介なタイプだ。
初球は内角のストレートを見逃してストライク、二球目もストレートで一塁スタンドへのファウル。追い込んだが遊び球は使わない。連続で投じられたストレートに、打者のバットは空を切った。三球三振。
二番打者もストレートに詰まってショートゴロ。処理を誤れば内野安打になりかねない当たりだったが、ショートの宏樹が軽快にさばき、ジャンピングスローでアウトにした。
三番を迎え、俺は外野をやや下がらせる。
三番の
まずは外角低めのストレートのサインを出す。投じられたボールはやや高めに浮いていたが、バットはボールの下をこすり、バックネットへのファウルになった。
芳賀さんのストレートは平均して一三〇キロ中盤。高校生としては速いほうだが、甲子園に出るような学校なら一四〇キロを超える投手が複数人いることもある時代だ。それに伴い、多くの高校で速球対策に余念がない。プロ注目の速球派投手すら、地区予選で打線の良いチームに打ち込まれることがざらにある。加地工だってもっと速い投手といくらでも対戦しているはず。
しかし、野球には球速以上に速いボールが存在する。回転数が普通より多く、指を離れた瞬間から打者の手元に来るまでの減速が小さい球。打者にとっては加速するように見えるストレートは、たとえ球速に劣っていても空振りを奪える。芳賀さんが投げているのもそれだ。多くの投手はストレートを投げる際、人差し指と中指の間を離して握る。しかし芳賀さんは二本の指をほとんどくっつけて隙間を作らない。これによりボールに強く綺麗な縦回転が掛かり、ノビのあるストレートが生まれる。
とはいえ過信は禁物。三番の初球はファウルにはなったが、スイングは鋭かった。目が慣れれば捉えてくるだろう。直球だけでは抑えきれない。
1―1から、右打者の内角への甘いボール。当然打者は手を出すが、ボールは手元で急に外側へ変化した。バットの先に当たってセカンドへの平凡なゴロ。
「ナイピッチ!」
軽くグラブを叩いてベンチへ帰る芳賀さんに声をかける。
「ナイスリード」
芳賀さんは賞賛を返し、俺のミットにグラブを当てた。
「最後のボール、完璧でした」
三番を打ち取ったのはカットボール。ストレートに近い軌道から手元で曲がる。変化は小さいが、その分ストレートとの球速差が少ない。芳賀さんはこれを、喜多見先生監督に教わって習得したらしい。監督曰く、「ストレートに近い感覚で投げられるので覚えやすく、芯を外すのにもってこいの球」。複数の高校を甲子園に導いたとある監督は、投手陣全員にカットボールを覚えさせるそうだ。
「今日、調子いいみたいだ。肩が軽いし球が走ってる」
「でもたまには外野にも打球をくれよな。暑い中突っ立ってると逆に疲れるんだぜ」
レフトで三年生の内山さんの軽口に、芳賀さんがポンと肩に手を置いて返す。
「よし、ここからは全部レフトに打たせるからよろしく」
「レフトに打たせるリードですね、了解です」
俺も乗っかってみた。内山さんは首を振って、
「体力がやばいから勘弁してくれ」
ベンチが笑いに包まれる。いい雰囲気だ。初回の攻防は理想通りだったといえる。先制するだけでなく、相手の攻撃を完璧に封じてみせた。加地工の心理的ダメージは大きいはずだ。だがこのまま終わるはずはない。正念場は二巡目以降だ。
俺は結羽から手渡されたスポーツドリンクを一口飲み、四番から始まる二回の守備に思考を巡らせた。
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