第7話

 県大会の組み合わせ抽選会は六月下旬に行われる。会場の文化ホールで、主将の芳賀さんが大会二日目に県営球場で行われる第二試合のくじを引いた。俺たちのような無名校から全国でも名の通った甲子園常連校まで、出場校の選手が一堂に会するのはなかなか壮観だった。

 抽選を終えた我ら明佑高校野球部一同──そう、今や「野球同好会」ではない──は、会場をあとにする。男子部員九人に結羽と顧問兼監督の喜多見先生という構成は、会場に集った参加校の中でも一際小規模だ。校名が呼ばれたとき、後ろの席から「どこ?」「聞いたことねえ」と囁き合う声が聞こえた。

初戦の相手は、同じ市内の加地かじ工業と決まった。

「加地工って、強かったっけ」

 ホールのロビーで、隣を歩く宏樹が俺に尋ねた。

「名前はたまに聞くな。甲子園に出たことはない……たぶん」

「毎年一、二回戦は勝つレベルではあるよな? 今年の春季大会はどこまで進んだ?」

「俺に聞くよりネットで調べたほうが早いだろ」

 正直、俺は県内の高校野球事情に大して詳しくない。中学時代は夏大の時期に自分の大会があるので、新聞やテレビで結果を確認するくらいだった。

 しかし宏樹がスマホを取り出して検索するより先に、俺たちの後ろから結羽の平坦な声がした。

「加地工の最高成績は十年くらい前の県大会ベスト4。去年の夏は四回戦で準優勝の須和学園に敗退。春は地区予選の三回戦で敗れてシード権こそ逃したものの試合内容は紙一重。二年時からのエースが残っている今年は、ここ数年では一番の戦力が揃っている。上位を狙う力は十分、という評判よ」

 資料もなしに淀みなく述べる結羽に、俺と宏樹のみならず周りの面々も、呆れと感心が入り混じった顔をしていた。そういえばこいつは高校野球マニアだったと、今さらのように思い出す。夏になると一度は、高校野球雑誌を片手に甲子園へ足を運ぶのが結羽の恒例行事だった。それも世間が盛り上がる準決勝や決勝ではなく、一日で四試合見られる一回戦。六年生の時は結羽の両親に誘われて、俺を含めたチームメイト数人も同行したっけ。その日はわが県代表の試合があったが、結羽は特定の学校を応援するでもなく試合観戦自体を楽しんでいた。

 先頭を歩いていた芳賀さんが、不敵な表情で振り返った。

「初戦の相手として不足なし、だな。向こうが近年一の戦力なら、こっちは間違いなく野球部史上最強チームだ」

「そりゃそうでしょ」

 即座に二年生で一塁手の尾野おのさんが突っ込み、笑いが起きる。創部一ヶ月の歴史を誇る、伝統ある明佑高校野球部である。

「頼もしい連中だろ」

「ですね」

 最後尾をのんびり歩いていた喜多見先生の問いかけを、俺は肯定する。部員数はギリギリ、まともに全ポジションを埋めてシートノックができるようになったのすら最近。さらに相手はいきなりシード校に引けを取らない上位候補。それでも、弱気になっている者は一人もいない。みんな臆することなく本気で勝とうとしている。

 ホールの外に出る。太陽の季節の訪れを拒むように、分厚い雨雲が六月の空を覆っていた。だけどそれはひとときの悪あがきに過ぎない。やがて青空が灰色の雲を彼方へ追い出し、降り注ぐ光がグラウンドを熱気に包むだろう。

 夏がはじまる。


 十時を過ぎたころには、もう汗ばむような暑さが球場を支配していた。梅雨もほとんど終わりかけたと見えて、北から太陽に向かって伸びるのは真っ白な入道雲だった。朝の天気予報によると降水確率十パーセント。風はほとんどない。

 明佑高校が一回戦を行う県営球場は、県内で最も広く環境の整ったグラウンドだ。毎年一度はプロ野球の公式戦が行われる。俺にとっては、小中学校時代に県大会を戦ったなじみ深い場所でもある。

 球場内ではまだ第一試合が行われている。俺たちは球場外の芝生に荷物を固めて置く。出発前に学校で練習はしてきたが、待っているうちに身体が強張ってしまわないよう、めいめいでストレッチを行う。

「よっ」

 駐車場がある方から、見覚えのありすぎる顔が歩いてきた。自転車を飛ばしてきたのか早くも額に汗が浮き、首元にタオルをかけている戸倉は、野球部の面々に「ちゃーす」とあいさつした。汗をぬぐいながら俺のもとに近づいてくる。

「あちい」

「妙なことを頼んで悪かったな、軽音楽部」

「気にすんなって。しかし、まさか俺まで野球部に入るとはびっくりだぜ」

 お前に頼まれたときはたまげたもんなあ、と戸倉は心底面白そうに笑った。

 県大会に先立って、各校はベンチ入りメンバー二十人を部員から選んで登録する。うちはもちろん選ぶ余地なく全員ベンチ入りだが、その中に十人目として戸倉の名前もあるのだ。

 メンバーを提出する少し前のことになる。ある日の練習に現れた宏樹は、鼻にティッシュを詰めていた。

「どうしたんだ?」

 芳賀さんの質問に、宏樹は頭をかきながら答えた。

「いやあ、階段でずっこけて鼻から着地しちまいまして」

「他に怪我はしてないか?」

「大丈夫っす」

「気をつけろよ。九人揃ったとはいえ、怪我や病気で当日出られなくなったら元も子もないんだからな」

 顔をしかめて尾野さんが注意すると、宏樹は「確かにそうっすね」と神妙な面持ちになった。他の部員たちも、「ここまできてそれは嫌すぎる」「大会終わるまで自転車乗るのやめようかな」などと言い合っている。

「あの、それに絡めて一ついいですか」

 俺は軽く挙手して口を挟んだ。

「ネットでちょっと調べたんですけど、うちみたいに九人ギリギリで大会に出るチームはたまにあるらしいです。で、試合中のアクシデントで一人が出場不可能になり、没収試合になったケースがあるみたいなんですよ」

「うわ、そりゃたまったもんじゃねえな」

 宏樹が顔をしかめる。せめて最後まで試合をした結果の敗戦ならば受け入れられようが、それすら叶わなかったのはあまりにも無念だったろう。

「勝ってた試合でそうなったら泣くに泣けねえよ」

「デッドボールとか自打球とか、防ぎようのない事故ってあるもんな」

 口々に危惧を述べる部員たちに、俺は以前から温めていたを提案した。

「うちにも同じことが起きる可能性があるわけですよね。だから、万一に備えてベンチ入りメンバーをもう一人登録しませんか」

 その案は意外なほどあっさりと容れられ、監督とも相談の上実現の運びとなった。ちなみに登録する名前に戸倉が選ばれたのに大した理由はない。どうせ試合には出ないので、明佑高校に在籍する男子生徒なら誰でも構わなかった。ただ言い出しっぺの俺が親しく、引き受けてくれそうな奴として真っ先に思い浮かんだというだけの話である。

「それにしても、やっぱりタクミは野球に戻ってきたな。どうだ、俺の言った通りだっただろ」

「……まあな」

「これを機に、お前は野球から離れられる人間じゃないってことを、肝によく銘じておくように」

 戸倉は腰に手を当てて偉そうにする。非常に癪に障るが、どうやら事実らしいので言い返せない。結局俺は、野球がどうしようもなく好きらしい。こんな簡単なことに気づくまでに、随分と遠まわりをしたものだ。

「相手は格上なのか?」

「初出場なんだからどこでも格上だろ。だが決して勝てない相手じゃない。初戦で終わるわけにはいかないんだよ、俺たちは」

「楽しそうだな」

 これから試合に臨む者に対して、適切なのかよくわからない形容を戸倉は口にした。その声はどことなく嬉しそうに感じられた。

「そうか?」

「いい顔してるぜ。ちょっと前まで、海岸に打ち上げられて三日目の魚みたいな目をしてたやつとは思えない」

「どんだけひどい有様だよ」

 好き放題言いやがる。こいつも結羽も、俺には遠慮する必要がないと認識している節がある。

「集合!」

 芳賀さんの号令がかかった。試合開始一時間前。これから直前のミーティングとオーダー発表が行われる。

「じゃあ、俺は行く」

「タクミ」

 歩き出した俺の背中に声がかかる。振り返った俺に、戸倉は短く伝えた。

「勝てよ」

「ああ」


「向こうの先発は……11番?」

 一塁ベンチの中。オーダー表を確認した尾野さんが、普段より半音高い声を上げた。三塁側のブルペンでは、その背番号11が投球練習をしている。

「マジっすか」

 いち早く宏樹が反応する。その表情には若干の不満がにじんでいた。

 先発投手を見て俺たちは驚いた、というより肩透かしを食らった気分だった。対戦相手が決まってからというもの、エースの古森ふるもりか二番手の背番号10の先発を想定して練習してきたからだ。

「彼は二年生でベンチ入り唯一の左腕。球速は一二〇キロ後半、変化球はスライダーとフォーク。チェンジアップもあるけど滅多に使わない。昨年秋の大会では登板機会はなく、春は初戦で二イニングを投げたのみ。……10番と比べても力が劣る、完全な三番手ですね」

 ベンチの奥に座った結羽が、ノートに目を落としながら話す。うちの高校から加地工はさほど遠くないので、一度結羽が練習を偵察に赴いていた。さすがと評するべきだろう、控え投手の調査も抜かりがない。

「夏の初戦にしては、暢気な采配だな」

 芳賀さんが呟くのに、ナインが同調する。

 エースが最初から投げないのは、今の高校野球では珍しいことではない。甲子園の常連校でなくても、控え投手の一人や二人用意している。むしろ二番手三番手を先発させ、エースの登板は中盤以降、という作戦は常識だ。だから三番手投手を使うこと自体は別におかしくないが、この試合は「夏の初戦」なのだ。

 甲子園大会を見ていても、優勝候補と目されたチームが初戦で敗れる、あるいは実力で勝るはずの相手に意外な苦戦をさせられることは頻繁に起きる。地方大会でも、強豪校の一回戦は意外に点差がつかないものだ。大会初戦というのは、どんなチームでも平常心で試合に入るのが難しい。だからこそ、加地工も経験豊富なエースか二番手を先発に立てて万全の構えで臨む、と予想していたのだが。

「獅子は兎をとらえるにも全力を尽くす、って言葉を知らないのかね」

 しかめ面の尾野さんが加地工のベンチを睨む。ベンチ入り上限いっぱいの二十人の選手に初老の監督、部長教師、それに記録員の女子マネージャーと、うちの倍以上の人数がいる。さらにベンチの上の観客席にはメンバーから外れた部員が少なく見積もっても三十人。それに加えてブラスバンドに学ランを着た応援団、少人数ながらチアリーダーまでいる充実ぶりだ。

「来年に向けて経験を積ませようってやつですかね」

「あるいは、他の投手が不調や故障なのかもしれないな」

 腕組みしながら俺と芳賀さんが推測を巡らせるのを、背番号30をつけた喜多見監督兼部長があっけらかんと否定した。

「考えすぎだ。そんなんじゃねえよ」

「監督には、理由が分かるんですか?」

「向こうさんにしてみれば、この試合は『夏の初戦』ですらないのさ。はなから勘定に入ってないんだよ」 

 その言葉に、ベンチのムードが変わった。試合前に緊張感があるのは当たり前だが、そこに殺気のような張りつめた空気が加わる。

「獅子は兎を捕るのも全力を尽くす。じゃあ、兎ですらなくてナメクジが獲物だったら、それでも本気で追いかけようとするか? 加地工の監督としては、三番手で遊びつつさっさとコールド勝ちして体力温存って腹積もりだろう。口に出さないが、本番は二回戦からだと思案してるはずだぜ」

「うちの認識はその程度ってことですね」

 冷静に受け止めているように見える芳賀さんだが、目は笑っていない。

「よりによって俺の一番嫌いなナメクジかよ。許せねえ」

 宏樹が燃えている。監督が口にしたのはたとえ話で、別に加地工が実際に俺たちを軟体動物呼ばわりしたわけではないのだが……せっかくアドレナリンが分泌されているようだから放っておこう。

「逆に言えば、これ以上ないチャンスですよ。相手はわたしたちをなめてるんだから」

 いつの間にか立ち上がった結羽は、凛然とした眼差しで言い放った。「そうだな」と芳賀さんが同意し、握りこぶしを作る。

「よし、俺たちがナメクジの皮を被った狼だって思い知らせてやろう」

「おう!」

 キャプテンの鼓舞に、選手全員の声が重なった。


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