第6話

 太陽が西の空に半ば沈みかける頃、練習は終わった。参加こそしなかったものの、結局最後まで見てしまった。グラウンド整備がはじまりさすがに帰ろうとしたのだが、結羽に「持ってて。中読んでいいから」とノートを渡され動けなくなってしまった。

 手持ち無沙汰になって、なんとなく押し付けられたノートを開いてみた。

 そこには、毎日の練習メニューや夏大に向けた強化ポイント、練習中に発見した各選手の課題や改善方針などが端正な字でびっしりと書き込まれていた。特に俺が目を見張ったのは細かい数字が並ぶページだ。打撃練習における各選手のゴロとフライの割合、空振り率、ボールスイング率など一般的には優先度の低い項目まで詳細に記録されている。たまに解読困難な金釘流の赤字が混じるのは、喜多見先生の追記だろうか。してみると、これは結羽と喜多見先生が作っている野球同好会のデータファイルらしい。プレーに直接関係のある事柄だけでなく、栄養バランスや筋肉の成長に配慮した食事メニューや練習中の水分補給に適した飲み物、カロリーに優れた間食まで、まるで強豪校のように詳細な方針が立てられていた。

 目標は甲子園、という結羽の言葉を疑っていたわけではない。ただ、彼らは本気なのだと、改めて実感させられた。

 後片付けと短いミーティングを終え、部員たちがグラウンドを後にする。俺の前を通り過ぎる時、片手を挙げた宏樹が歯を見せて笑いかけた。最後に鞄を肩にかけた結羽が俺のもとへ歩いてきたかと思うと、いきなり茶色い塊を投げ渡してきた。 反射的に受け取ったそれは、同好会の備品なのか、えらく年季が入ってくたびれたキャッチャーミットだった。

「キャッチボールでもしていかない?」

 結羽は少し首をかしげて提案した。その手にも赤いグローブがはめられている。日はほとんど隠れたが、暗くなるにはまだ間がある。俺はつい頷いていた。

 一塁ベンチの前、俺がホームベース側、結羽が一塁ベース側に立って十メートルほどの間隔をとる。結羽は学校指定のジャージのまま、俺は制服の上着を脱いで動きやすい格好になる。小学生以来のキャッチボールは、お互い力を入れないゆっくりとした投げ合いではじまった。

 中学時代は軟式野球部だったとはいえ、硬式ボールを触ったことくらいはあった。軟式に比べて球が重いが、その分球速が上がるし打球の飛距離も伸びる。縫い目が高いので変化球もよく曲がるらしいが、この目で確かめたことはない。

「見に来てくれてありがとう」

 ボールのやりとりをしながら、唐突に結羽が礼を述べた。近距離のスローペースとはいえ、結羽の投じる球はきっちりと胸元に構えたミットに収まる。

「見に来るも何も、お前が腕をつかんで連れてきたんだろうが。絶対かなりの人間に誤解されてるぞ」

「そう」

 俺の文句を意に介したそぶりもなく、結羽は普段通りの淡々とした表情を貫いていた。

 昼間こそ五月とは思えない気温の日が続いているが、夕暮れになるとさすがに暑さも和らぎ、爽やかな風が頬を撫でる。結羽の立ち位置は少しずつ下がっていき、それに伴って徐々に球の勢いが増す。つられて俺も腕の振りに力が入る。捕球するたび、互いのグラブが乾いた音を上げた。

「硬式ボールの扱いに慣れてきたみたいね」

「中学からやってるお前ほどじゃないがな。──結局小学生以来会わずじまいだったが、まさか今になってお前が硬式でプレーするところを見るとは思わなかった」

 練習中の結羽は、一般的なマネージャー業務であるスポーツドリンクの準備やノックの補助のみならず、打撃投手やノッカーも務めていた。ユニフォームでこそなかったが、女子マネージャーという肩書から想像される姿とはかけ離れた仕事ぶりだった。ほとんど選手さながらだ。

「わたしは、巧実の試合を見に行ったことがあるけどね」

 ボールを投じる瞬間に受けた予想外の告白に、思わずすっぽ抜けを放ってしまった。結羽はジャンプしてギリギリグラブの先にボールを引っかけた。

「いつの話だ?」

「中学三年の県大会」

 よりによってそれかよ。俺にとっては思い出したくない苦い記憶だ。

「ひどい試合だっただろ」

「完敗と形容するしかないでしょうね」

 あっさりと肯定する結羽だが、事実なのでショックもない。

「お前、スタンドにいたのかよ。まったく気づかなかった……それより、あの試合を見ていたなら分かるだろ。俺はお前が言うような大した選手じゃないんだよ」

 今度は結羽が意外な表情をする番だった。モーションに入りながら尋ねる。

「そんなことを考えていたの?」

「だってそうだろ。投げさせた球はことごとく打たれ、打撃では手も足も出なかった。あれが俺の限界なんだよ」

「見解の相違ね」

 彼我の距離は、ちょうどバッテリー間と同じくらいになっていた。結羽がテイクバックを大きくとる投手らしいフォームでボールを投げ込む。今日一速い球が、糸を引くように綺麗な軌道でミットの中央に飛び込んだ。

「リードはある程度結果論。間違った配球はあっても、必ず打ち取れるボールはない。巧実も理解してるでしょ」

「完全には割り切れないけどな」

「そもそも、登板した中にあの打線に通用するボールを持った投手は一人もいなかった。どんなリードも、投手の力が足りなければ意味はない」

 はっきり言ってくれる。漫画じゃないのだから、捕手のリード一つで覆しうる実力差ではないことくらいは俺も承知していた。ただあそこまで何もできないとはさすがに想像しなかった。

「それと相手のピッチャー。終始手を抜いて投げてたみたい」

「まあ、そうだろうな」

 薄々感づいていたが、結羽の指摘で確信に変わった。別に怒りは湧いてこない。連戦になるトーナメントで負担を軽減するため、力の劣る相手に全力投球しないのは当然の戦略といえる。手抜き投球すら打てなかった俺たちが力不足だっただけの話だ。

 結羽から俺に山なりのボール。俺はそれを内野手のようなスナップスローで素早く返す。長丁場のキャッチボールは往々にしてこういう遊びが入る。

「だけど、巧実にだけは全力で投げていた」

 その発言に、俺はボールを投げる手を止め、眉をひそめる。

「本当か?」

「初回から最後まで見た上での判断よ。巧実を唯一警戒すべき相手と認識していたんでしょうね。スローカーブを使ったのも巧実だけ。わたしがあの投手の立場でも、きっとそう考える」

 事実だとしたら、打席で見たボールがベンチからの印象とまるで違った説明がつく。しかし俺はなかなか信じられなかった。

「俺を持ち上げて、その気にさせようってんじゃないだろうな」

 ボールが右に逸れた。結羽は小さくジャンプして捕球する。

「わたしがお世辞ともずくが嫌いなの、知ってるでしょ」

「……まあな」

「主観と客観は、必ずしも一致するとは限らない。グラウンドの外からのほうがよく分かることもあるのよ」

 柔らかい夕暮れの風が、結羽の髪を揺らした。

 結羽は上下のジャージを脱ぎ、体操着姿になって言った。

「久しぶりに受けてくれる?」

「──ああ」

 俺は両膝を立ててしゃがむと、ミットをはめた左手を前に、右手を背中にまわす。年齢国籍技術レベルを超えた、キャッチャーの基本姿勢。

「いいぞ」

「まずはストレートね」

 頷いた結羽は、プレートに平行に足を置き、投げる相手に右肩を向けるセットポジションに──セットポジション?

 セットポジションのメリットは、振りかぶるワインドアップに比べて動作が少なく、コントロールをつけやすい点にある。ゆえにランナーがいなくてもセットから投げる投手は多い。しかし俺の記憶にある結羽の投球モーションは、捕手に正対しグラブを胸元で構えるノーワインドアップだったはず。ゆったりと始動するほうが投げやすいから、と、中学時代に宗旨替えしたのだろうか。

 右足を上げる姿にかつての結羽が重なる。このまま身体の軸は真っ直ぐに、左腕が後ろで大きく弧を描き、真上から振り下ろされる──はずだった。

 しかし、実際に目の前にあったのは、上半身を「く」の字の形に折り曲げる結羽だった。沈み込む身体の陰で小さくたたまれた左腕が、地面と平行に繰り出される。投じられたストレートは、横回転しながらわずかにシュート軌道で俺の構えるミットへ過たず収まった。

「サイドスロー……」

 返球を忘れ、俺はほとんど呆然として呟く。打撃練習のときはオーバースローだったから、まさかフォームを変えているとは想像もしなかった。球速より打ちにくさに特化した変則フォーム。綺麗な縦回転ではなくナチュラルに変化する横回転のストレート。小学生時代、真っ向勝負で三振の山を築いた快速左腕・宮辻結羽の面影はそこにはなかった。

「驚いたでしょ」

 投げ終えた姿勢のまま、結羽はおかしそうに微笑んでいた。俺はようやくボールを投げ返す。

「当たり前だろ……いつから、いやどうして」

 結羽は無言で再びセットポジションに入った。一球目と同じくサイドスローから、今度は右打者から見て外角低めギリギリへ投げ込む。

「判定は?」

「……ストライク」

「よし」

 満足そうに呟く結羽。返球を受け取り、

「わたしらしくない、って顔ね」

「そりゃあそうだろ」

 三年のブランクがあるとはいえ、投球スタイルが別人になっているのを冷静に受け止めるほうがどうかしている。ましてそれが人一倍ストレートにこだわっていた相手ならなおさらだ。

「中学時代の話をさせてくれる?」

 結羽の問いかけに、俺は無言でうなずいた。

「中学でわたしが入ったチームには、腕に覚えのある投手が集まっていたけど、わたしは彼らと渡り合える自信があった。県大会で各校のエースを見て、自分の実力は決して引けをとらないと感じていたから。実際、最初のうちはほとんど差がなかった。けれど時間が経つと周りの男子はみんなわたしより背が高くなり、球速もどんどん成長していったの。一方わたしは、成長が止まるに従ってスピードも頭打ちになり、チームメイトに次々に追い抜かれた」

 男女の体格差。それはあまりにも絶望的な、覆しがたい生物学上の壁だ。小学生のうちは男子と互角以上の運動能力を誇る女子も、男子に成長期が訪れるといとも簡単に逆転されてしまう。

「なんとかスピードを上げようとトレーニングしたり、ストレートを活かすためにコントロールや変化球を磨いたり、いろいろやってみたけどやっぱり敵わなかった。そのまま続けても勝ち目がないのは明らか。だったら球速じゃなくて、別の武器を身につけるしかない。だから中三になったときに、一か八かサイドスローに転向したの」

 淡々とした口ぶりだが、当時の結羽の胸中が穏やかだったはずがない。こいつがどれだけストレートで三振を奪うことにこだわっていたかは、バッテリーを組んでいた俺が一番よく知っている。少しでも球速を上げるための投球フォームを必死で研究していたことも。

「だけど、納得のいく投球ができるようになったころには、大きな大会はほとんど終わっていた。結局、わたしは公式戦で一度も投げずに終わった。──だからって、硬式を選んだことを後悔はしてない。自分ができることは全部やったつもり。公式戦の記録には残らなくても意味はあったと、今は胸を張って言えるわ」

 そう昔語りを締めくくった結羽に、俺は返すべき言葉を見つけられなかった。別に感想を求めていたわけではないらしく、結羽はピッチングを再開した。

「次、スライダー」

 一定のペースで投げ込まれるボールを捕球しつつ、俺の頭の中では結羽の話がぐるぐると渦巻いて消えなかった。

 結羽もまた、俺と同じく中学で自分の限界を思い知らされていた。しかし、俺と結羽には決定的な違いがある。打ちのめされてなお、あいつは己の信条を曲げてまで食らいつこうとした。マウンドに立つことを、決して諦めていなかった。   

 それに比べて、俺ときたらどうだ。高校野球では通用しないと判断する前に、限界を破ろうと本気で努力したことがあるのか? たった一試合の敗北で自分の実力に見切りをつけて、野球への情熱を失った。そのくせ新しい目標を見つけることもせずなんとなく毎日を過ごしている。数年後に今を振り返った時、やれるだけのことはやったと未来の自分は納得できるのか?

 ストレートを受け止めたミットが、大きく乾いた音を響かせた。

「昔、巧実のサインによく首を振ってたでしょ」

「ああ」

 長打や失点のリスクを避けるのが配球の基本。俺はスローボールやボール球を交えて組み立てたいのだが、結羽は相手が強打者であるほどストレート一本で勝負したがった。

「巧実に従うほうが、打ち取れる確率が高いのは理解してたの。意地を張ってただけ。小学生をストレートで抑えられなかったら、上のレベルでは通用しないに決まっているから」

 当時を思い出しているのか、結羽はしばし目を閉じる。その表情には、再会してから見たことがないほど柔らかな微笑みが浮かんでいた。

「わたしが首を振ると分かってて、巧実はスローボールのサインを出し続けた」

「当たり前だろ。ピッチャーの顔色をうかがって投げたい球しか要求しないやつは、キャッチャー失格だ」

 俺は即答した。キャッチャーはグラウンドの監督だ。味方の好き嫌いに忖度して作戦を立てる監督がどこにいる。

「でも、何度も拒否したうえで最終的にはわたしの要求を容れてくれることが多かった。今さらだけど、感謝してるの」

「どうしても投げたくない球を無理に投げさせても、ロクな結果にはならないだろ。それなら気持ちよくストレートを放ってもらったほうがいい。……まあ、お前の球威があったからできたことだが」

 そっぽを向いて俺は言う。急に殊勝な態度をとられると、かえって落ち着かない。どんな顔をしていいのかわからなくなるからやめてほしい。

 まだ生徒が残っているはずの学校が、やけに静かに感じられた。

「扱いにくい投手だったでしょ」

「我の強い投手は嫌いじゃねえよ。むしろ首を振るくらいの気の強さがあるほうが頼もしいってもんだ」

 本心からの言葉だった。

「組んでいて楽なピッチャーじゃなかったが、それも含めて俺はお前が──」

 勢いで口にしかけた台詞を飲み込み、誤解のないよう言葉を選ぶ。

「お前とのバッテリーが好きだった」

 結羽の瞳が、一瞬だけ揺らめいた気がした。すぐにグラウンドのほうを向いてしまったので、こちらから結羽の表情は分からない。しかし俺にとってはありがたかった。横を向いているということは、結羽にも俺の表情が見えないのだから。

 結羽は太陽が去った茜色の空をしばらく眺めていたが、やがて一つ息を吐き出すと、決然とした面持ちで俺に正対した。

「わたしは野球同好会の力になりたい。中学時代ほとんど試合に出られず、甲子園は目指す権利すらない。そんなわたしが見つけた、新しい夢なの」

 まっすぐに俺を射抜く目は、かつてマウンドで何も恐れず直球を投げ込んでいた結羽とまったく同じだった。

「だから──野球同好会に入って、巧実」

 ──そのど真ん中ストレートの要求を、拒否するわけはなかった。

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