第5話

 そんな鬼ごっこを続けているうちにいつの間にか仮入部期間は終わり、五月になっていた。

「まだやってんのかお前ら」

 呆れる戸倉を尻目に、今日も今日とて帰り支度を済ませ教室をあとにする。廊下に出た瞬間、突如横から手首を掴まれた。

「うお」

 いつからいたものか、ドアの陰に結羽が待ち構えていた。なぜか体操着姿で、制服を抱えているが鞄は持っていない。名前を憶えていないクラスメイトが、奇矯なものを見る目で俺たちの横をすり抜けていった。

「何してるんだよ」

「六限の体育を途中で抜けて保健室にいて、HRが終わるまで待ってたの」

 俺は絶句した。こいつの行動力を甘く見ていた。

「どうやって浜口の目をかいくぐったんだ? それに、怪我もないやつを保健室は受け入れてくれないだろう」

「怪我をしたのは本当だもの。わざと転んだだけだから大した傷じゃないけど、ほら」

 ひょい、と右足を上げると、確かに膝にガーゼが貼られている。妙なところで真面目というか、手段を選ばないというか……。

「そこまでして俺を引っ張り込みたいのかよ」

「他にやりたいことがあるならしつこくするつもりはなかった。だけど、入学してからずっと何をするでもなく腐ってるんでしょ?」

「誰がそんなこと」

「あなたのお友達。戸倉くんっていったっけ」

「あの野郎、好き放題言いがって」

 教室を振り返るが、すでにやつの姿は消えていた。覚えてろよ。

 結羽は右手で俺の手を握りなおし、顔を見上げた。

「一度練習を見に来てほしいの。それでもダメなら、もう入部してとは頼まない」

 その声には、今までになく切実な響きが混じっていた。

「……途中で帰ってもいいならな」

 俺は小さく溜息をついた。


「野球部が公式戦に出場するには、事前に高野連へチーム登録を行わなければならない。期限は来週で、それを逃せば、今年は夏の地区予選に参加できないの。そして登録するためにまず部活に昇格する必要がある」

「つまり期限を過ぎてから九人揃っても手遅れってわけだな」

「秋以降を見据えれば無意味ではないけど、三年生は公式戦を経験しないまま卒業することになるわね」

「なあ、最近よく部員数が足りない学校どうしが合同チームで出場してるだろ。人数が揃わなくても、他校と組んで出られないのか」

「どのみちお互いが高野連に加盟していなければいけないでしょ。部活の予算や練習スペースには限りがあるから、単独で公式戦に出られる数を確保できない同好会を部活としては認められない。学校側の見解よ」

 まずは一組に寄って結羽の鞄を回収したのち、グラウンドへ向かう。ちなみに結羽は同中ずっと俺の手を引いていたので、すれ違う生徒の視線が痛かった。

 校舎の南に位置するグラウンドは、東側をホームにしてややレフト方向が長いつくりになっている。基本的には砂地だが、内野部分には色の違う黒土が入っていた。一塁側と三塁側それぞれには簡易なダッグアウト。もともとはソフトボール用に作られたのだろう、マウンドがあるべき部分が盛り上がっておらず、その数メートル前の平坦な地面にピッチャープレートが埋め込まれている。

 結羽は俺に一塁側のベンチに座るよう促すと、ユニフォーム姿の部員たちとともに練習の準備を始めた。周りがベースの設置や白線引きのため動き回っている中一人ぽつねんと座っているのは、どうにも落ち着かない。

 準備中の部員たちが、向こうから歩いてくる人物に帽子を脱いで挨拶する。その顔を俺は二度見した。うちの担任の喜多見先生だ。日に焼けて精悍な顔つきをした三十手前の男性教師だが、野球同好会の顧問だったとは。すると結羽が口にした「ちゃんとした指導者」とは彼のことか。

 ウォーミングアップとキャッチボールを終え、本格的に練習がはじまる。顧問と結羽を入れてようやく二桁の人影が散らばる風景はいかにも弱々しいが、目の前で行われている内野ノックは、なるほどレベルが低くないと結羽が述べるだけのことはある。喜多見先生が速度、方向、バウンドを巧みに変化させて打つゴロにきっちりと対応し、スローイングに至るまで集中している。

 イレギュラーバウンドを難なくさばいたショートを俺は二度見した。あれは小学生時代チームメイトだった宏樹だ。しば宏樹。先日名前が出た際、結羽が進路に言及しなかったから、まさか同じ高校に来ているとは思わなかった。まだ硬式野球をはじめて一ヶ月程度のはずだが、動きは軽快だった。

 三塁側のブルペンでは、長身の右投手が投球練習をしていた。ゆったりしたフォームから繰り出されるストレートに、俺は目を見張る。速い。スピードだけなら、甲子園出場校の投手にも負けていないんじゃないか。公式戦出場すら危うい同好会に、どうしてこんな選手が?

 投げ込みを終えた投手は、まず汗をぬぐい水筒で喉を潤すと、俺のほうへ歩いてきた。にっこり笑って気さくに片手を上げ、

「参加したくなったら、いつでも大歓迎だから」

「……いや、俺はいいです」

「俺は三年の芳賀はが。野球同好会のキャプテン兼エースだよ」

「一年の相坂あいさかです」

 軽く礼。芳賀と名乗る先輩の第一印象は、野球部らしくない人だな、だった。柔和な笑顔は穏やかで控え目な雰囲気を漂わせ、どちらかというと白衣を着て科学実験でもする方が似合いそうだ。しかし一八〇センチはありそうな長身と厚みのある身体はやはり体育会系のそれである。

「ま、エースといったって、投手は俺一人しかいないんだけどね」

 根っから明るい性格らしく、芳賀さんは愉快そうに笑った。それから俺をまじまじと見て、

「君が、宮辻のドラフト一位指名選手か」

「……なんすか、それ」

「いや、随分入れ込んでるみたいだから。なんとしても入部してほしい、って繰り返してたよ」

「おかげで、俺はここ二週間毎日追い回されてますよ」

 話は聞いているのだろう、芳賀さんは吹きだした。

「君も大変だな。だけど俺は宮辻に感謝してるよ。部活ですらない集まりのマネージャーになってくれて、まだ仮入部もはじまらないころから練習の手伝いをしてくれて。今ノックを受けてる柴も、宮辻が働きかけてくれたんだ」

 昼休みと放課後は俺にかかりきりだったはずなのに、よく時間があったものだ。

「おかげで、あと一歩で夏大に出られるところまできた。だけどまだ足りない。人数の問題だけじゃなく、他の高校と渡り合えるだけの技術を持ったキャッチャーがどうしても必要なんだ。だから相坂、野球部に入ってくれないか」 

 芳賀さんは、後輩の俺に頭を下げた。

俺は気まずくなってグラウンドに顔を向けた。ノックは内外野のすべてのポジションに選手を入れたシートノックに移っていた。打球がどこに飛ぶかは完全にランダムで行っているらしく、守備につく面々には緊張感が漂う。

「先輩は、俺のプレーをみたことあるんですか」

「残念ながら、ないね」

「結羽からどう聞いているか知りませんが、あいつの過大評価ですよ。硬式野球の経験すらない人間に期待しすぎです」

 しかし芳賀さんは腰に手を当て、首を横に振った。

「俺が宮辻と知り合ってまだ一ヶ月くらいだけど、彼女の野球に対する知識と情熱は本物だ。その彼女が相坂の力を信じてるんだから、俺も信じる」

 彼の視線の先にいる結羽はジャージ姿で、喜多見先生の隣に控えて内野からの返球を受け取ったりボールを手渡したりしていた。女子相手でも、部員たちは当然のようにノーバウンドで勢いのあるボールを返している。結羽の捕球技術への信頼はもちろん、マネージャーというより同じ選手に近い扱われ方をされるほど溶け込んでいる証だろう。

「んじゃ、ゆっくり見学していってくれよ」

「──先輩は」

「うん?」

「どうして野球部を作ろうと思ったんですか」

 立ち上がった芳賀さんに、俺は問うた。

 予想外の質問だったのだろう、芳賀さんは照れくさそうな笑顔で返した。

「実は俺、一年の秋に転校してきたんだよ。元々はよその県の高校にいたんだ」

 芳賀さんが口にした校名は、甲子園出場経験もある強豪私立だった。

「やっぱりスカウトされて?」

「まあ、ね。中学の時にボーイズで全国大会に出たことあったから。けど監督の指導方針とか野球部の雰囲気とか、とにかくいろいろ合わなくてさ。いまどき珍しいくらいガチガチの体育会系なんだよ。監督や上級生には絶対服従、休日もほぼゼロで娯楽は禁止……みたいな。練習漬けなのは甲子園に行くために我慢できるとして、何かあるとすぐ拳が飛んでくるのは本当に嫌だったな」

「まだあるんですね、そんな学校」

「完全に『そういうもの』になってるから、学校も黙認してるし部員も誰も反抗しようとしないんだな。たまりかねて抗議したら、『夏の大会を出場停止にする気か』ってぶち切れた監督にぶん殴られた。いや駄目なことしてる自覚あったのかよ、って話だよ。で、次の日からまともに練習に参加させてもらえなくなった。一人だけ雑用ばっかりやらされて、あの時は本当に野球を嫌いになりかけたな」

 懐かしい思い出のような口ぶりだが、当時の芳賀さんの胸中は想像するに余りある。甲子園への希望を抱いて地元を離れたのに、待っていたのは理不尽な環境だったのだ。

「それで、うちに転校してきたわけですか」

「散々な目に遭って、もう野球はやらないつもりだったから、野球部がなくても構わなかったんだ。だけどちょっと経つと、やっぱりプレーしたくてたまらなくなってさ。ああ、俺には野球しかないんだなと分かったよ。んで野球が好きな同級生に声かけて、喜多見先生先生に顧問になってもらって。知ってる? あの先生、レギュラーで甲子園に出たことがあるんだよ」

 野球経験があるにせよ妙にノックが上手いと思っていたが、それほどの実力者だったとは。

「名門にいただけあって理論は確かだよ。先生がいなかったら、地区予選の一回戦で惨敗するレベルだったろうな」

 芳賀さんは苦笑いしながらも愉快そうだ。シートノックは佳境に入り、内野のバックホームが行われていた。

「でも、もし一回戦でコールド負けしたとしても、先輩は転校したことを惜しまないんでしょうね」

「もちろん! そりゃあのまま残ってたら、練習試合をするのにわざわざ相手チームから助っ人を頼まなくていいし、俺自身もっと球速も上がってただろうさ。けど、確実に今より楽しくはなかったね。最近しみじみ考えるんだけど、人生は楽しいのが一番だよ」

 力強く言い切ると、芳賀さんは右肩を二、三度回して「よし」と気合を入れた。

「打撃練習が始まるから行くよ。いつでも入部、待ってるから」

 お手本のようなウインクを残して、芳賀さんは去っていった。


 バッターボックスへ向かった芳賀さんと入れ替わるように、ノックを終えた喜多見先生がベンチに戻ってきた。

 浅黒い肌に引き締まった身体を見た人物はみな体育教師と勘違いするが、実際の彼は国語教師だ。入学式の日の自己紹介によれば、好きな作家は中島敦と山田風太郎。

「顧問やってたんですね」

「まあな」

「優秀な指導者だって、結羽や芳賀先輩から聞きましたよ」

「よせよ恥ずかしい」

 喜多見先生は落ち着かない様子で身体を揺らした。仕草といいフランクな口調といい、教師というよりは年上の従兄を連想する。日頃から生徒の友人のように気さくにふるまう姿は、いかにも教師らしくない。

「俺には指導者としての経験がまったくないんだぜ。いつも自分の教え方は正しいのか不安だらけだよ。それでも、高校野球の指導者になるのは夢だったから嬉しいけどな」

「甲子園に出たこともあるんですよね」

「いいとこだぞ甲子園は。死ぬほど暑いが」

「……でしょうね」

 何度か観客として足を運んでいるが、外野スタンドにいるだけでも水分を大量にとらないとやっていられない。プレーする選手はなおさらだろう。

「ところで相坂、『高校生活の抱負』の締め切り、一週間も過ぎてるぞ。さっさと提出しろ」

 不意に先生は教師の顔になった。痛いところを突かれて俺は黙る。「高校生活の抱負」とは入学直後に配布された課題である。文字通り、高校での目標や卒業後の将来像、その実現のために取り組むことなどの項目が自由記述式で設けられている。俺はどうにも筆が進まず、所詮成績や内申に関わるわけでなし、提出せずにやり過ごせないかとひそかに期待していたのだが。

「内容に悩んでるのか? あんなもん、適当に書いちゃえばいいんだよ」

「……教師とは思えない発言ですね」

「教師だから言えるんだよ。どんなに適当でも、誰も問題にしないって知ってるのさ。──ま、心にもない文章をでっちあげて済ませられないのがお前の性格なんだろうな」

「そんないいもんじゃないですよ。……何も浮かばないだけです」

 俺は吐き捨てるように呟き、地面に視線を落とした。

「──危ない!」

 金属音と、誰かの叫びが耳に飛び込んだ。ハッと顔を上げると、ファウルボールが俺の顔の間近に迫っていた。直撃を覚悟した刹那、喜多見先生が手にしたノックバットを差し出し、打球の進路を変えた。

「よそ見してると怪我するぞ。硬式が当たったら洒落にならんからな」

「……ありがとうございます」

 喜多見先生はベンチに飛び込んだファウルボールを拾い、グラウンドへ投げ返した。そのままノックバットで軽く素振りをしながら、

「まあ、焦る必要はないんだ。入学して一ヶ月足らずの生徒に明確な目標を持て、なんて無茶な注文だよ。じっくり決めればいいさ」

「──先生は、野球同好会に入れとは言わないんですね」

「教師が生徒の部活選択に口出しするわけにいかないだろ。どうあっても対等な立場じゃないんだから、強制になっちまう。教師の仕事は、あくまでお前ら生徒が後悔のない高校生活を送る手助けだ。最終的には、本人が決めるしかないんだよ」

 風を切って、スイングの音がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る