第4話

「諦めない」の宣言通り、結羽は三日続けて会いに来たらしい。らしい、というのは俺が教室の外で昼食を食べたため顔を合わせておらず、あとで戸倉から話を聞いたからだ。

 それからは昼休みになると、結羽の襲来をかわすべく俺は早々に教室を離れるようになった。ほっとしたのもつかの間、避けられていると気付くと今度は放課後に俺のもとへやってきたのだ。おかげで昼休みのみならず放課後も逃げるようにして教室から出る羽目になってしまった。    

 都合の良いことに、うちのクラスの喜多見きたみ教諭は、本当に教師なのか疑わしくなるレベルで担任業務が適当だ。朝夕のHRの話は、そこらの動画サイトの広告なんかより短い。どのクラスよりも早く放課後を迎えられる上結羽のクラスから距離があるため、確実に先んじて下校できるのだ。さすがの結羽も、野球同好会の練習があるので学外までは追って来ない。

「命を狙われてるわけでもあるまいし、何を逃げることがあるのかねえ」

「マムシのように執念深いんだよ、あいつは」

「女子を爬虫類に例えるかフツー。あれだけ一生懸命に誘うのを袖にするタクミのほうがよっぽど冷血動物っぽいぜ」

「ほっとけ」

 ある昼休み、戸倉と短いやり取りをしたのち教室を出る。中庭を抜けて特別棟の西側の非常階段に腰を下ろす。ここ数日様々な場所で弁当を食べているが、そのうち校内を制覇してしまいそうだ。結羽はいつまで俺を追いかけるつもりなのか。

 昼食を食べ終えると、非常階段を離れて体育館の南の駐輪場へ歩いていく。中身のない弁当箱を持って教室へ戻るより、自転車のカゴに入れてしまったほうが楽だ。まさか盗むやつもいまい。

 駐輪場を出た時、グラウンドの隅に立っている女子の姿が目に入った。遠目でも分かる。あれは結羽だ。

 まさか俺が来ることを予知して待ち伏せていたのかと戦慄したが、どうもそういうわけではないようで、まだ授業が始まってもいないプールのほうを眺めている。こちらに気がついていないのを幸いとそっと立ち去ろうとした瞬間、いきなり結羽が振り向き、目が合ってしまった。

 顔をこちらに向けたままの様子を見るに、向こうもすぐに俺と分かったらしい。俺は諦めて近づいていった。

「何してるんだ、そんなとこで」

「朝練中にプールの中に入ったボールを回収に来たの」

「俺は入学したばかりで詳しくないんだが、教師でも水泳部員でもない生徒が無断でプールに立ち入っていいものなのか?」

「わたしも入学したばかりだけど、とりあえず『プールに侵入してはならない』という校則はなかったはずね」

 あってたまるか。

 こういうときの結羽を止めようと試みるのは徒労だ、と俺は小学生時代の経験から学んでいる。だいいち俺はそこまでルールに厳格ではない。プールのほうを指さして、

「じゃあ、さっさとやっちゃえよ。急がないと、次の授業でグラウンドを使う生徒が来るかもしれない」

「そのつもりだったのだけど」

「どうしたんだよ」

「これ」

そこで結羽はプールを囲むフェンスを見上げ、手の甲で軽くノックした。なるほど、これは難しい。

 元女子高で現在も女子の比率が高いからなのか、プールの周りは金網ではなく隙間のない金属製の板塀で全面的に覆われている。つまり手や足をかけて登るための足場がない。

「案外行けるんじゃないかと思って挑戦したんだけど、やっぱり無理ね」

「大人しく放課後を待てよ。水泳部が使うはずだろ」

 結羽は首を振った。

「もし先に拾った人がいたら、捨てられてしまうかも。ボールは貴重なのよ」

「そこは共感できるな」

 中学時代にも、練習球の管理は丁寧にするよう監督や先輩から指導されてきたものだ。予算は有限である。

「せめててっぺんに手をかけられれば、なんとかなりそうなのだけど」

 フェンスは結羽より上背のある俺が手を伸ばすよりまだ高い。届かせようと思ったら二メートル以上の長身が必要だ。

 結羽は顎に指を当ててしばし考え込んでいたが、不意に顔を上げると、俺に向かってわずかに口角を吊り上げた。

 嫌な予感がした。

「巧実、肩車してくれる?」

 やっぱりそうきたか。

「勘弁してくれ」

「自分で言うのもなんだけど、わたし、そんなに重くないはずよ」

 体脂肪率も低いほうだし、と結羽は腕を広げてみせた。元より細身で起伏の少ない身体は野球で鍛えられており、余分な肉のつく余地はなさそうだ。だからって、いつ人が来るかわからない校庭で白昼堂々女子を肩車するのは、その、なんというか。

「あるいはわたしが巧実を背負ってもいいけど」

「そういう問題じゃなくてだな……分かったよ、やればいいんだろ」

 俺はしぶしぶながら、フェンスの下でしゃがみ込んだ。こうなると押し問答するより手っ取り早い。

 結羽が俺の首を跨いで軽く腰を下ろす。引き締まった結羽の両足が肩に乗る。俺は少しためらったのち、黒のソックス越しに結羽の足首を掴んで立ち上がった。本人の申告通り、その身体は重量感なくあっさり持ち上がった。

「これで共犯ね」

 明らかに面白がっている結羽。

「いいからさっさと済ませろよ」

「もう手を離していいわ」

 首尾よくフェンスの上部に届いたらしく、頭の上から声がする。俺は足首を握る手を外し、脚の間からゆっくり身体を抜いた。首に乗っていた重みがなくなった開放感で、つい顔を上げてしまう。眼前に紺色のスカートが揺れていて、慌てて目を逸らした。

 フェンスを越えて軽快に飛び降りた結羽は、ほどなくして「あった」と伝えてきた。内側から放られた硬式ボールを俺は受け止める。

「水の中に入ってなくてよかった」

「ところで、中から一人で出られるのか?」

「グラウンドより地面が高いから平気」

 言葉の通り、今度は簡単にフェンスによじ登り姿を見せる結羽だったが、まさに乗り越えたその時、体育館の方角から荒い声が響いた。

「おい、何やってるお前ら!」

 声の主は、校内きっての鬼教師で知られる浜口はまぐちだった。仮病による見学やあからさまな手抜きを許さないらしいとは戸倉がどこからか仕入れてきた評判。捕まったら二人とも春雷の直撃は避けられない。俺は強制されて、という弁解は公的な司法のもとでのみ成立する。

 怒鳴られた瞬間に結羽はスカートを翻して飛び降り、鮮やかに着地した。俺の手を引き、

「走って」

 促されるまでもない。俺たちはホームに突入する逆転のランナーのごとき勢いで無人のグラウンドを突っ切り、東側の武道場を経由して一般棟の裏まで逃げおおせた。

 俺は日陰でしゃがみ込み、結羽は校舎の壁にもたれかかって息を整える。

「……顔、バレたかな」

「声は体育館の二階からだった。あの距離で判別できるほど、まだ新入生の顔を覚えてはいないでしょう」

「だといいんだが」

 握りしめていたボールを結羽に渡す。元は真っ白だっただろうが今や面影なく、縫い目がほつれて皮がめくれかかっていた。道理で捨てられるのを心配していたわけだ。

「これ、まだ使うのか」

「もちろん。修理すれば打撃練習用には十分だもの」

 結羽は戦利品を手の中で弄びながら、ふと懐かしむように、

「そういえば、小学生の頃にもボールを拾いにプールへ入ったことがあったわね」

「ああ、五年生の時だな」

「わたしと巧実と、ショートの宏樹ひろきの三人でね」

 かつてのチームメイトの名前を久しぶりに耳にした。

「懐かしいな。宏樹とは、中学でも何度か対戦したよ」

 お調子者だが、高い身体能力を生かした守備と思い切りのいい打撃が持ち味の切り込み隊長だった。

「あの時は真夏で、プールが水で一杯だったんだよな。で、宏樹がプールに落ちた」

 あれは珍プレーだった、と俺は思わず笑い、結羽も口元を緩めた。本人のいないところで話のネタにするのは若干悪い気もするが、つい語らずにはいられない。何しろ、真っ先にフェンスを乗り越えて中に入った宏樹は、勢い余ってそのまま前方につんのめり一瞬で水中へと消えたのだ。ボールを取ろうとして落ちるならまだしも、何もしていないのに勝手にダイビングしたのはさすがに呆気にとられた。そしてどうにか自力で陸に上がり着替えに走っていった宏樹の後ろ姿に、結羽は「飛び込んだならボールも拾ってくれたら良かったのに」と呟いた。鬼か。

「結局俺たちで取ることになったけど、バットを使っても届かないから」

「ちょうどそこにあったホースの水流を使って、プールサイドに寄せることにしたのよね」

「んで、お前がいきなり思いっきり水を出すから、俺がホースを支えきれなくなって二人とも水を被るはめになった」

 最終的にボールの回収には成功したが、頭を濡らして帰ってきた俺たちはみんなから「水遊びでもしてたのか?」と不思議がられた。

「強めに水を出せって指示したのは巧実でしょ」

「蛇口を限界まで捻れとは言ってねえよ」

 非難の目を向ける俺に、結羽は小首をかしげてこともなげに、

「夏だし、涼しくて良かったんじゃない?」

「……お前、四年前もそれ言ったぞ」

「そうだっけ?」

 結羽はすっとぼけてみせると、手にした硬球を真上に高く投げ上げた。落ちてくるところを右手でつかみ、「ところで」と俺に顔を向ける。

「見た?」

「何を」

「飛び降りた時、スカートの中」

 三メートル近い高さから飛び降りたのだ。物理学的に当然の帰結として、結羽のスカートは風を受けて大きくまくれ上がった。白い太ももがあらわになったのは確実なのだが、その先となると、これは非常に繊細かつデリケートでセンシティブな問題と言わざるをえない。

 しかし真実がいかなるものであれ、平和的決着とお互いの精神の安寧を望むなら選択肢は一つ。

「──いや、見てないな」

 果たして結羽が信じたのか、持ち前のポーカーフェイスから読み取るのは不可能だった。ただし、少なくとも表面上は俺の答えを受け入れることにしたらしい。

「見られてたら、謝罪として入部するよう迫ろうと思ったのに」

「それ、脅迫って言わないか」

「冗談よ」

「冗談に聞こえないんだよ、お前が言うと」

俺の文句は涼しい顔で受け流された。結羽は左手の指全部を使ってボールを握りこみ、そのまま軽く投げる真似をする。

「チェンジアップか」

「最近高校野球でも流行ってるでしょ。特に左投手が武器にしてることが多いから、わたしが覚えればみんな練習できる」

 当たり前のように言うので、反応が遅れた。

「お前、バッティングピッチャーもやるのか」

 俺は驚きをもって尋ねた。女子マネージャーがグラウンドに入って練習を手伝うことはあるが、ノックの補助やトスバッティングの相手役がせいぜいで、本来部員が務める打撃投手まで担当するのはなかなか聞かない。

「ピッチングマシンはあるけど、やっぱり人の投げる球とは違うから、できるだけ人間相手の打撃練習も欠かさないようにしてるの。でも投手は一人しかいないから何割かはわたしが。サウスポーの練習にもなるし」

「生き生きしてるな。……楽しそうだ」

「当たり前でしょ。野球が好きだもの」

 何気ない俺の呟きに、結羽は真剣な顔で答えた。


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