第3話
部活に行かないならば、放課後の学校に積極的に残る理由はない。図書館に寄る日もあるが、今日はなんだかどっと疲れた気がしてすぐに帰宅した。
学習机に腰かけて麦茶を飲んでいると、ブックスタンドに置かれた一枚の写真が視界に入った。普段は机の一部として意識することもないのに、今日に限って目に留まったのは、間違いなく昼休みの出来事のせいだろう。
それは六年生の結羽と俺が映った写真だった。県大会で強豪チーム相手に完封勝利を挙げた記念として、県営球場の前で俺の親が撮影したものだ。ガッツポーズする俺の隣で、さすがの結羽も、喜色満面とはいかないが満足そうな笑顔でカメラに収まっている。
床に視線を落とすと、部屋の隅に中学時代に使っていたキャッチャーミットがあった。中学三年間使い続けて、明るい茶色だった表面の革はずいぶんとくすみ、ボールを捕球し続けた内側の芯はほとんど真っ黒になっていた。野球部だった頃はこまめに手入れをしていたが、今年に入ってからはほとんど触ってもいない。
ミットを手にはめてみると、久しぶりでも手に伝わる感触は何も変わっていなかった。
「──何やってんだか」
俺はすぐにミットを外し、元の場所に戻した。
翌日、昼休み。結羽は再び俺のところへやってきた。昨日より早い到来だったおかげで、俺は食べかけの昼飯を机の上に残したまま、二日続けて連絡通路へ赴く羽目になった。
昨日の今日ですぐに再訪する可能性を失念していたのは俺の失策だ。結羽の性格を考えれば、予想できてしかるべきだったのに。
四年生から三年間女房役を務めた身として、投手・結羽の性格を表現するなら「頑固」のひと言に尽きる。こうと決めたら譲らない。強打者を迎えようと失点のピンチだろうと、相手をストレートでねじ伏せることにこだわっていた。スローボールのサインに首を振ることはしょっちゅうで、リードする俺としては手を焼く投手だったといえる。
「たまには遅い球も使えよ」
「でも、ちゃんと抑えたでしょ」
「バッターはストレートしか頭にない。緩急を使ってタイミングを外せば、もっと楽に打ち取れるのに」
「わたしはストレートで抑えたいの」
小学生時代、幾度となく繰り返した会話が蘇る。何度言っても、結羽は自分のスタイルを曲げなかった。サインが合わないときに折れるのはたいてい俺のほうで、投手とは難しいものだと実感したものである。
「大会に出るだけなら、未経験者でもなんでも数合わせを頼めば試合はできる。だけど目標は出場じゃないの」
昨日と同じく連絡通路へ。時間切れとなった反省からか、一切の前置きなしに結羽はいきなり本題に入った。淡々としていながらも、その言葉には確かな熱がこもっていた。
「目標って」
結羽は即座に答えた。
「甲子園」
「──それは」
さすがに無茶だろう、と口にしかけて思いとどまった。当人たちが真摯に目指していることを、頭ごなしに否定する権利は誰にもない。しかし、そうは言っても。
確かに創部数年で甲子園出場を果たす例はいくつもある。だがほとんどの場合、チームは新生でも指揮を執る監督は強豪校で長年指導者を務めてきた名将だ。監督の評判を聞きつけて、あるいは監督自身のスカウトで有望な選手が集まる。そして学校のバックアップのもと監督が彼らを名門校のノウハウで鍛え上げ、的確な采配を振るった結果として驚異的な躍進は起きる。それに対し、明佑高校が野球同好会に対しなんらかのバックアップを行っている様子はないし、有名な指導者がいるとも聞かない。そんな状況で甲子園を目指すのは、手作りの筏で太平洋を横断しようとするようなものだ。
「わたしは……いえ、部員はみんな本気よ」
結羽はどこまでも真剣だ。その眼を見ていると、反射的に無茶だと断じかけた自分が後ろめたくなって、俺は頭をかくふりをして強く光を宿す瞳から顔を逸らした。
「……悪い。否定する気はないんだ」
結羽は不意に肩の力を抜き、空を見上げてまぶしさに目を細めた。
「──暑いわね」
「日があたる場所を選んだのはお前だろうが」
今日も今日とて春の陽気と呼ぶには太陽が元気に過ぎる。運動部だったからといって、暑さが平気なわけではないのだ。
「河岸を変えましょうか」
結羽に従って特別棟の廊下へと移動する。明かりのついていない廊下は薄暗く、人影もなくしんとしていた。俺たちは、どちらからともなく壁を背に腰を下ろした。
体育座りの結羽が、首をかしげるようにして俺のほうを向いた。
「分かってはいるの。実際のところ、野球部に昇格したとしても、今年いきなり甲子園に出られる可能性は限りなく低い」
「だろうな」
わが県は大阪府や神奈川県のような激戦区でこそないけれど、学校数は百を超える。近年は二つの強豪私立が順番のように優勝しており、二強体制と呼ばれている。共に甲子園でも勝ち進んだことがあり、老練の監督が率いる二校の牙城を崩すのはあまりにも困難な道のりに違いない。
「それでも、口にさえしない目標は絶対に叶わない。初戦突破と甲子園を目指すのとでは、練習の心構えが違うでしょ。今はまだ夢物語に過ぎないのかもしれない。だけど二年後……わたしたちが三年生になった時には、実現してもおかしくないと思ってる。そのためには、来年有力な選手を確保するのが最低条件」
腕に覚えのある中学生は、県外の強豪校にスカウトされるか、県内でも実績があり指導者や設備が揃っている高校を目指すのが当然だ。あえて中堅校へ進むことはあっても、ギリギリの人数の野球部はさすがに選択肢に入らない。それでなくても男子の絶対数が少ない学校だ。
「今年の夏の大会で勝ち進めば、必ず興味を持つ選手が現れる。毎回同じ高校が甲子園に出る現状を、面白くないと感じている中学生だっているはずでしょ」
「まあ、猫も杓子も名門に入る時代じゃないのはたしかだ」
鶏口となるも牛後となるなかれ、という格言もある。部員が百人を超えるようなチームで、三年間ベンチ外に甘んじるくらいなら、甲子園に縁がなくともそこそこの中堅校で試合に出るほうが良いと考える者も少なくないだろう。
「──で」
結羽は立てた膝を崩しこちらに身を乗り出した。漆黒の髪が揺れる。
「今のチームは決して弱くない。でも致命的な弱点がある」
「部員数以外で?」
「それは弱点ではなくて欠点」
「どう違うんだ?」
俺の疑問は無視された。
「投手と内野は形になってるのに、キャッチャー経験者が一人もいないの。それがどれだけ大きな問題なのかは、言わなくても分かるでしょ」
「ああ」
投手と捕手はいかに野球センスがある人間でも、一朝一夕には務まらないポジションだ。他の野手とは役割も動きも全く異なるから、経験がものを言う。投手の特殊性は改めて述べるまでもない。捕手にしてもボールを捕るだけで良いわけではなく、投手のリードから守備隊形の指示、盗塁阻止などその仕事は多岐にわたる。扇の要、グラウンドの監督などと称される所以だ。少年野球からプロ野球、メジャーリーグに至るまで、強いチームには常に良い捕手がいる。
「だからわたしたちには巧実が必要なの。巧実が入部してくれれば、しっかりしたセンターラインができる。それだけじゃなくて、打線にも厚みが生まれる」
俺は苦い顔になるのを隠せなかった。元来お世辞が好きでない結羽だから、偽りない言葉であるのが分かるだけに、なんだか騙しているような気分になる。
「買いかぶるにもほどがある。俺はそんなに大した選手じゃない」
結羽ではなく正面の階段を見つめながら、強い口調で俺は断じた。きっと結羽は小学生の頃しか知らないから、実態と乖離したイメージを抱いているのだ。
中学最後の中体連。俺の学校はブロック予選を勝ち抜き県大会に出場したが、初戦であっけなく敗れた。三点ビハインドで迎えた三回、突如として相手打線が爆発し、先発したエースが一アウトも取れずに五失点。投手が変わっても勢いは止まらず、その回一挙に十三点を入れられた。捕手の俺は抑えるためにあらゆる配球を試したが、何を投げさせても相手の打者に容易くはじき返された。
そして輪をかけてショックだったのが、相手校のエースに手も足も出なかったことだ。傍から見るエースの直球は確かに速かったが、ストレートに自信があった俺は打てないボールではないと感じた。しかし、実際打席に立つとそのノビと球威は想像以上だった。一打席目は当てるのが精いっぱいのセカンドゴロ、二打席目は速球しか頭になかったところをカーブでタイミングを外され空振り三振。三打席目は回って来なかった。
18―0の五回コールド負け。圧倒的な力の差の前に、何もできなかった。この時、俺は自分の野球に見切りをつけたのだ。高校で野球を続けたとしてどこまで行けるか、その限界が分かってしまった気がして、野球を続ける理由を見失った。
最後の試合で対戦した投手は、隣県の有名校からスカウトされたとのちに聞いた。一方俺には高校からの声はかからず、成績と通学距離だけを参考に明佑高校を選んだ。高校でも野球を続けるものだと思っていた両親や戸倉は残念がっていたが、強いて翻意を促そうとはしなかった。
野球を辞めた理由を、結羽に語ろうとは思わない。聞いたところであいつは勧誘を続けるだろう。だが、野球同好会が本気で甲子園を目指しているというなら、なおさら俺は入部するべきではない。野球への熱を失った人間なのだから。中途半端な気持ちで参加しても、邪魔になるだけだ。
階下で誰かが廊下を駆けていく音が響いた。それを合図に俺は立ち上がる。
「もう行く」
結羽は引き留めなかったが、歩き出す俺の背中に声をかけた。
「わたしは諦めないから」
俺は返事をしなかった。
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