第2話
廊下を早足で進む結羽に連れていかれたのは、一般棟と特別棟を繋ぐ連絡通路だった。
最上階である四階の通路には屋根がなく、雲一つない青空から太陽が照りつけている。まだ四月だというのに日差しは夏と見まごうばかりの威勢で、今年の夏は暑くなることを予感させた。
結羽は通路の端で立ち止まり、手を離すと俺のほうへ向き直った。俺はその隣で太陽を背にして、塗装がところどころ剥げている柵にもたれかかり、顔だけを結羽へ向けた。
「いきなり連れ出してどうしたんだよ。再会を懐かしんで涙する暇もありゃしない。情緒って言葉を知らないのか」
「あら。こっちこそ、そんなセンチメンタルな性格とは知らなかった」
俺の軽口に、結羽はにこりともせず答える。
「教室ではできないような話なのか?」
「そうでもないけど。なんだか注目されてて、落ち着いて話をできそうになかったもの」
それはお前がいきなり入ってくるからだ。
女子にしては高い身長に、すらりと伸びた手足。昔は男子といっても通りそうなくらい短かった黒髪は、今は肩の上まで伸びている。記憶にあるのはユニフォーム姿ばかりだから、制服を着たところを目にするのは新鮮で不思議な気分だ。昔から何かを見通すような鋭さをまとっていた目つきは、切れ長になって怜悧な印象を増していた。起伏の少ない表情と相まってどこか近寄りがたい雰囲気すらあるが、その内面は容姿から受けるイメージほど超然としているわけでもなければ、冷淡でもないことを俺は知っている。
小学生時代、地元の野球チームで俺と彼女はバッテリーを組んでいた。俺がキャッチャーで、結羽がピッチャー。人数不足から二つのスポーツ少年団が合併してできたチームで、小学校は別々だったが、会話を交わした回数はチーム内で一番多いかもしれない。おしゃべりではない結羽だが、野球の話になるといくらか饒舌になった。野球に関してはどこで仕入れてくるのかやたらと知識が深く、聞いたこともない雑学や自分にない視点を聞くのは楽しかった。とはいえ結羽の表情は普段より薄く微笑む頻度が上がった程度の変化で、はた目にはとても話が弾んでいるようには見えなかっただろう。
当時の結羽は男子顔負けのストレートを投げ込む速球派左腕として、地区では有名な好投手だった。俺たちが合併前まで遡っても史上初となる県大会ベスト8進出を果たしたのも、エースである結羽の存在が大きかった。
卒業後は別々の中学へ進み、俺は中学の野球部に、結羽は硬式のクラブチームに入った。お互い携帯電話は持っていなかったが、他県へ行くわけでもあるまいしいつでも会えるだろうと気楽に構えていた結果、中学時代は一度も顔を合わせることなく過ぎていった。それが示し合わせたわけでもないのに高校で再会するとは、人の巡りあわせは不思議なものである。
「──で、なんの用だよ」
俺の問いに、結羽がずいと一歩近づく。
「野球部に入って」
結羽は単刀直入に答えた。
「なんだって?」
予想外の単語に思わず聞き返す。結羽ははっと気がついたように目をわずかに見開き、かぶりを振った。
「先走っちゃった。部活としてはまだ認められていないから、正確には野球同好会ね。二年前に今のキャプテンが中心になって立ち上げたそう」
野球同好会なるものが存在するとは知らなかった。してみると、さっき戸倉が言いかけたのはそのことだったかと一人で納得する。
「わたし、そこのマネージャーをすることにしたの。で、巧実を勧誘に来たというわけ」
一瞬の沈黙ののち、俺は尋ねた。
「……同好会ってことは、趣味で草野球をする集まりみたいなもんか」
しかし結羽は首を振って否定すると、
「いいえ。メンバーはみんな本気で野球に打ち込んでる。今は人数不足だけど、九人揃ったら正式に野球部として申請し、夏の大会にも出場するつもり。もちろん、目標は一つでも多く勝つこと」
そう淡々と述べた。
この時の感情をいかに表現したものだろう。受験に合格して安心していたら新入生代表挨拶に指名されてしまったような、逆転ホームランを打って浮かれていたらその裏に再逆転されたような。昔の相棒との再会を喜んだのも束の間、偶然は厄介の種までも伴ってきたようだ。
内心が顔に出ていただろうか。結羽は二、三度瞬きすると、やや目を細めて俺を見た。確かこれは、彼女が疑問を抱いた際の仕草だった。
ともあれ、俺の返事は決まっている。
「あいにくだが、誘いには乗れない。野球同好会には入らない」
聞こえなかったはずはないのに、結羽の口からはすぐに言葉が出てこなかった。名も知らない男子生徒二人が大声で会話しながら通り過ぎていく。俺たちの間にしばし降りる沈黙。
「どうした?」
「――ええと」
結羽は間をとるように小さく間投詞を呟き、乱れてもいない髪をかき上げた。
「驚いた……戸惑ったという方が正確ね。断られるなんて考えてもみなかったから。二つ返事でOKしてくれるとばかり」
「そこまでやる気があったなら、野球部のない高校なんか選ばねえよ」
私立明佑高校は元女子高で、共学になってしばらく経った現在でも男女比はおよそ三:七といったところ。男子運動部はいくつかあるが、いずれも生徒の絶対数が少なく、女子に比べて活発とは言い難い。
「他に入りたい部活があるの?」
「いや」
「なら、何かやりたいことができた?」
「そういうわけではないが……」
感情の見えにくい双眸で結羽は問いを重ねた。そして俺の答えに強く頷き、
「じゃあ、
「ちょっと待て」
俺の意志はどこへ行った。平然と言い放つ結羽に呆れる。外見や話し方の雰囲気からは想像できない強引なところも変わっていないらしい。
「やりたいこともなく漫然と過ごすくらいなら、野球をしたほうがいいんじゃない」
こいつも戸倉と似たようなことを言いやがる。俺の高校生活の行く末はよほど不毛な道行に見えるのか?
「そっちこそ、マネージャーになってるのは意外だ。お前ならソフトボール部でも活躍できそうなのに」
話題を逸らす意図の質問だったが、本音でもあった。投手を務める人間はたいてい野球センスに恵まれているものだが結羽もまた例に漏れず、野手としての素質もある。高校のソフトボールでも充分通用すると思うのだが。何より、練習や試合に参加できないマネージャーはこいつの性格には似つかわしくないように感じる。
「興味がないわけではないけど」
結羽の口調は静かだった。
「今は野球同好会の力になりたい気持ちのほうが強いから。もともと高校野球は好きだし」
「ああ、そうだったな」
確か、結羽が野球をはじめたきっかけは幼少期に生で見た甲子園だったか。
「だから部員を集めるためにお願いに来たってわけ」
「国語は得意だったはずだろ。お願いって単語の意味を辞書で調べなおしたほうがいいぜ」
いきなり手を引いて連れ出し、「野球部に入って」と迫るのがお願いなら、丁寧に頭を下げる街頭募金はもはや土下座しているに等しい。
「ちなみに巧実が勧誘第一号よ」
「光栄だね」
俺は肩をすくめて嘯いてみせた。結羽から視線を外し、壁の上に立てた右手に顔を乗せると、自然と中庭を見下ろす形になる。下では、どこかのクラスの女子が無邪気にバレーボールで遊んでいた。
「悪いが他を当たってくれ。――もう、本気で野球をするつもりはないんだよ」
なおも結羽は何かを言い募ろうとしたが、ちょうどその時五時限目の予鈴が響いた。
「戻ろうぜ」
「──ええ」
廊下で各々の教室へ向かう別れ際、結羽は俺の顔をじっと見つめ、何も言わずに去っていった。
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