第9話

 次に試合が動いたのは三回表だった。ワンアウトから芳賀さんと尾野さんが連続四球で出塁。俺のセカンドゴロの間に二、三塁へ進塁すると、続く内山さんが3―1から詰まりながらもセカンド後方へのポテンヒットを放ち追加点を入れた。

 二点目を失い、加地工ベンチが動いた。先発の11番に代わり、エース古森の名が告げられる。

「早かったな。打ち込まれたわけではないが……」

「連続四球にカウントを悪くしてのタイムリー。内容が悪かったですからね」

 投球練習を見ながら、俺は日下さんに答えた。初回の失点で平常心を失ったのか、三、四番にはっきりしたボール球ばかり投げていた。加地工の監督の算段としては、三番手に実戦経験を積ませつつ主力投手は温存したかっただろうが、そうもいっていられなくなった。まだ前半とはいえ、これ以上失点を重ねればズルズルといきかねない。

「この回もう一点欲しいっすね」

 同じくマウンド上から視線を外さずに、宏樹の呟き。

「そうだな。三点あれば芳賀さんも少しは楽に投げられる。古森は好投手だが、リリーフしていきなり本来の投球ができるとは限らない。付け入る隙は充分に」

「ストーライク!」

 球審のコールが、日下さんの台詞を遮った。球威のあるストレートが外角にびしっと決まった。七番の野口のぐちさんは反応できない。さっきまでの11番とは、球速以上にキレが段違いだ。

「……本来の投球みたいだな」

「……ですね」

 ここで流れを止めようと気合が入っているのだろう。緊急登板でも揺るがないあたりは、去年からエースナンバーを背負っているだけのことはある。

「宮辻、改めてピッチャーの情報を頼む」

 腕組みしたまま監督が命じた。結羽はスコアブックの上に青色のノートを広げると、

「球速は一試合を通して一三〇キロ後半、MAXは一四三キロ。ストレートは低めに集まるものの、たまに高めに抜けるクセがあります。スライダーとツーシームは速球に近い軌道のため、投げてから見極めるよりあらかじめ狙い球を絞るほうがいいでしょう。そして決め球でもある最大の武器が──」

 速球で追い込まれてからの三球目。打って変わってスピードのない緩い球に、野口さんのバットは空を切った。

「あのチェンジアップです」

 あっさりとピンチを断ち切ったエースに、スタンドから歓声が上がる。対して俺たちのベンチには、得点の直後とは思えない険しさが漂う。

「簡単には追加点をとれそうにない。一点もやれないな」

 マウンドに向かう芳賀さんは、悠々とベンチへ帰っていく古森の後ろ姿を睨みつけていた。

 その見込み通り、古森の登板でうちの打線の勢いは完全に殺された。球威ある速球もやすやすと安打にできるものではないが、輪をかけて厄介なのがチェンジアップだ。

 プロ野球でもチェンジアップを使う投手は多い。軌道は人によって異なるが、古森のそれは直球より二十キロ以上遅いボールが沈みながら向かってくる。ストレートとの球速差が大きいほど効果を発揮する変化球で、本格派の古森との相性は抜群だ。このボールを意識しながら、一四〇キロ近いストレートを捉えるのは容易じゃない。ならばどちらかにヤマを張るとしても、スライダーとツーシームの存在がそれを許さない。特別キレがいいわけではないが、緩急のコンビネーションの間に混ざると途端に厄介な球になる。四回以降、安打すらなかなか出なくなった。

俺はバットを短く持ち、ミートだけを心掛けて挑んだ。しかし追い込まれて最後はチェンジアップにタイミングを外され、ピッチャーゴロに終わった。

「はい」

「サンキュ」

 ベンチに戻った俺に、結羽が氷水で冷やしたタオルを渡してくれた。十一時を回ってから、気温の上昇が著しい。特にグラウンドの中は太陽がまともに照りつける。芳賀さんが熱中症で倒れるとは思っていないが、体力の消耗が心配だ。

 タオルを首に巻いて涼をとりながら、俺の口からは嘆きがこぼれる。

「厄介だな」

「最後はストレート狙いだったの?」

「どっちにも対応できるようにしたつもりだったんだけどな。中体連の最後の打席を思い出す。やな相手だ」

「こら、相坂」

 ため息をついた途端、監督に叱られた。

「相手の力を認めるのはいいが、苦手意識は持つな。気持ちが後ろ向きになったら、打てるものも打てなくなるぞ」

「すみません。──次は打ちます」

「よし」

 結羽にタオルを返すと、俺は打者に声援を送るためベンチから身を乗り出した。途端に真夏の日差しが熱を叩きつけてくる。風のないグラウンドは、いっそう暑さを増したように感じられた。


 快音とともに鋭い打球がレフト前に抜ける。六回の裏、はじめて加地工にノーアウトから出塁を許した。

 マウンド上で芳賀さんが汗をぬぐう。今安打を放った一番打者からは三打席目の対戦になる。三巡目は先発投手にとって正念場だ。ただでさえ疲労が押し寄せてくるところに、球筋を見慣れた打者を相手にしなければならない。ここまでの球数はおよそ八〇球。平均的な数字ではあるが、イニングごとの球数は回を追うごとに増えている。次第に加地工打線が対応してきている証拠だろう。

 二番打者は最初から送りバントの構えをとる。流れを変えるためにまずは一点、という意図か。相手が点を欲しがっているなら、大人しく決めさせるわけにはいかない。俺は内角高めにストレートのサインを出す。身体に近く、バントの難しいコース。

 力のあるインコースに、打球は狙い通りピッチャーへの小フライとなった。ランナーは進塁できない。しかし三番は初球のカットボールを完璧に流し打ち、ライト線へのツーベースを放った。一死二、三塁。ヒットが出れば同点の局面で、四番の高見を迎える。

 当然俺の頭には敬遠がよぎった。塁を埋めたほうが守りやすいし、もっとも危険な打者を避けられる。監督からの指示はない。判断は俺に任せる、ということだろう。

 だが、俺は躊躇った。高見を歩かせれば、逆転のランナーを出すリスクがある。次の五番は前の打席で安打を放っている。抑えられる保証はないのだ。何より、敬遠によってチームから攻めの姿勢が失われるのが怖かった。

 迷った末、俺は四番と勝負することにした。ただしボール球ギリギリの際どいコースを突き、カウントが悪くなったら歩かせる。無理に危ない橋は渡らない。それが最良の選択のはずだ。

 初球は外角際どいコースへのツーシーム。わずかにベースを外れてボール。下手にストライクを取ろうとして甘くなるくらいなら、これでいい。

 二球目、同じコースへのツーシームが今度はストライクになる。三球目、四球目も外角ギリギリへ変化球を投げさせる。2―2の平行カウントとなり、俺はこの打席初となる内角ストレートを要求した。ストライクは要らない。次の球への布石に過ぎない。最後は外へストライクからボールになるスライダーの予定だ。高見が振ってくれればもうけもの、見逃して四球になっても問題はない。

 しかし、芳賀さんが投じた五球目は、ボールゾーンに構える俺のミットとは裏腹に、吸い込まれるように真ん中へと入ってきた。やばい、と思った瞬間には高見の豪快なスイングが一閃し、打球は左中間を破るツーベースとなった。

 二人の走者は悠々ホームに生還する。ここまで守ってきたリードが、あっけなく消え去った。

「くそっ」

 加地工応援団の大歓声も耳に入らない。俺は忸怩たる思いで唇を噛み締める。何が最良の選択だ。敬遠も勝負も選べず、折衷案に逃げただけじゃないか。敬遠は別に消極的な作戦じゃない。はっきりと歩かせていれば、切り替えて五番との勝負に臨めたというのに。中途半端な態度で投げさせたせいで、最悪の結果になってしまった。

「タクミ!」

 突然響いた戸倉の大声で我に返る。そうだ、呆けている場合じゃない。失点した投手のほうがショックは大きいのだ。タイムを取ってマウンドに向かう。しかしなんと声を掛けたらいいのかまとまらない。俺の責任? まだ同点?

 答えが出ないまま芳賀さんのもとへ。とりあえず謝ろうとした俺の頭に、いきなりグラブがかぶせられた。

「顔が怖いぞ。そんな顔は負けてからするもんだ」

 混乱する俺に、芳賀さんは優しく微笑みかけた。同点に追いつかれ、なおランナーを二塁に背負うピンチだというのに、この人はいつも通り振舞っている。悲壮感などみじんもない。

 ふっと身体の力が抜けるのが分かった。試合はまだ続いている。俺が今するべきは、過ぎたことへの謝罪でも後悔でもない。すみません、と喉まで出かかった言葉を飲み込み、

「五番にはさっきストレートを打たれました。この打席もたぶん狙ってくるでしょう。初球高めにストレートを外して、反応するようならあとは全部変化球でいきます」

「よし、任せる」

 打ち合わせを終えてホームに戻りながら、自分の未熟さを痛感する。常に冷静であるべき捕手が、投手に力を抜いてもらうんじゃ立場が逆である。試合が終わったら反省だ。

 後続には安打を許さず、どうにか同点で踏ん張った。

「逆転させなかったのは大きいぞ。さあ、試合はここからだ」

 監督の鼓舞を受け、俺たちは七回の攻撃へ向かう。しかしランナーを出すも無得点。古森は手も足も出ない怪物でこそないが、やすやすと連打できる相手ではない。四球は少ないし内外野の守備も堅実。地力の差か、風向きは確実に加地工へと変わり始めていた。

 八回裏、芳賀さんのコントロールが乱れはじめ、先頭打者に四球を与えてしまう。さらに鶴村の打席で盗塁を許した。鶴村はなんとか打ち取ったものの、疲労の色は隠せない。一点もやれない緊張感から体力だけでなく神経も相当消耗している。

 一塁が空いているので、今度こそ四番を歩かせて一、二塁とする。だが五番にもボールが先行し、二ボールからカットボールをレフト前に運ばれる。レフトからバックホームを受けた俺はタッチに行くが、ミットをかわしながら滑り込んだ走者の左手がホームベースに触れた。ここまで必死に粘ってきたが、ついに逆転されてしまった。

 終盤で逆転し、俄然盛り上がる加地工。次の打者もレフトへクリーンヒットを放ち、さらに俺たちを攻め立てる。

 再びマウンドへ行き、間を取るのと芳賀さんの体力回復を図る。いまや流れは完全に加地工にある。放っておいたらこのままズルズルといきかねない。

 芳賀さんがロジンバッグを手のひらで何度も握り、念入りに滑り止めを行う。

 七番への初球はスライダー。ボールにするはずの球だったが、ストライクゾーンの外まで曲がらなかった。ピッチャーへはじき返した打球がセンターへ抜けると誰もが思った刹那、

「くっ」

 芳賀さんが左足を伸ばして打球を止めていた。足元に転がったボールを倒れ込むようにホームへ送り、フォースアウト。一塁は間に合わなかったが、ツーアウトまでこぎつけた。

 しかし、その代償は大きかった。打球を受けた芳賀さんが、険しい顔でその場にうずくまっていた。

「タイム!」

 監督が叫ぶ。それを受けて審判がタイムをかけるより速く、冷却スプレーを手にした結羽がベンチを飛び出した。

 芳賀さんはいったんベンチに下がって治療を受けていた。内野手がマウンドに集まり、戻ってきた芳賀さんを心配そうに迎える。

「大丈夫ですか?」

「平気平気。さ、あとワンナウトだ」

 俺たちの懸念を吹き飛ばすように芳賀さんは歯をのぞかせたが、無理をしているのは明らかだった。硬式ボールの危険性の比喩として、高速で飛んでくる大きな石などと形容されることがある。それが直撃したのだから、骨折していてもおかしくない。そして危惧した通り、八番に対し、二球続けて大きく外れたボール。左足を痛めたことで踏ん張りがきかず、球威も先ほどまでと比べ物にならないほど落ちている。

「打たせていこうぜ。あとは守る」

「絶対捕ります!」

 内野陣が口々に投手を励ます。本来の投球とは程遠いながら、それでも芳賀さんはストライ

クを続けてカウントを立て直す。そして3―2からの六球目。渾身のストレートが外角低めに

決まった。完璧なコースに、打者は反応できない。

「ストーライク!」

「よしっ」

 マウンド上で拳を握り、芳賀さんは小さく吠えた。

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