第3話
時間は飛んで、午後十時。
カーテンの向こうはすっかり静かな夜である。
「……」
しかし、土曜日の夜――というのはなんて素敵な響きなんだろう。
夜更かしをして、せっかく買ったのに積んでしまっているゲームを消化してもいいし。こうしてとっととベッドに入ってしまって、好きな漫画を微睡みながら読むのもいい。
とにかく明日は早起きしなくていいと思うと、それだけで呑気なものだ。
「……ん?」
と、私が寛いでいると、遠慮がちなノックの音がドアの向こうから聞こえてくる。
「どうぞ」
「……」
なんだか気まずそうに目を逸らした鈴花が、ドアを開けて部屋に入ってくる。
珍しいな、と私は思った。彼女は基本夜行性で、この時間には自室に籠って作業をしているのが常なのだ。
「……おねえちゃん」
「はい」
「……あの」
「どうした?」
「今日、一緒に寝てもいい?」
「おお」
いいよ――と私は一人分のスペースを空けてやる、と鈴花はおずおずとベッドに近づいてきて、しなやかな猫みたいに身体をくねらせてそこに入り込んできた。
二人分の重さに軋むベッドのスプリングの音が聞こえてくる。
「なに、また書き終わったの?」
書き終わった、というのは小説のこと。
鈴花はこの家でそれを書いて暮らしている。
その活動の詳細については、「まだ胸を張って言えるほどのものじゃない」、とのことで詳しくは教えてくれないけど。一年ほど前、とある大きな賞の佳作に入選したときにささやかな祝杯をあげたことはある(普段は見せない彼女の照れたようなその顔を見て、その時ほど一緒にお酒を飲めたらと思ったことはない。まあその分も私が飲んだんだけど)。
だから、時々こういうことがあるのだ。
彼女
その心の機微については、創作というものにさっぱり縁のない私には正直解りかねるのだけど。こうして求められるものを拒む理由もない。
「そうじゃない」
しかし鈴花は首を振った。
「そうじゃなくて、その……謝りたいなと思って」
「謝る?」
「昼間のこと」
「なんかあったっけ?」
心当たりのない私がハテナマークを浮かべると、鈴花はもどかしそうに、
「がっかり、なんて言ってごめんなさい」
と呟いた。
「ああ、そんなこと。そんなの別に気にしてないよ」
「……でも、結局ハチだっておねえちゃんが追い払ってくれたし」
「ああ、あれは参ったよね……」
昼間の話の続き。
結局あの後、レストランから家に帰ってきた私たちが恐る恐るリビングのドアを開けると、例のスズメバチはなんとまだ家の中にいたのだ。
同じ場所に、まるで何事もなかったかのような様子で平然と。
まあそこからは阿鼻叫喚の悪戦苦闘で、スプレーを巻き散らかして逃げ惑っているうちになんとかハチは窓から出ていってくれたのだけど。
「私、おねえちゃんがいなかったらハチの一匹もどうにもできないんだな、って」
「いや、あれはしょうがないでしょ。あんなの誰だって怖いよ」
キラーでビーだもの、と私はその頭を撫でながら言う。
「……それだけじゃなくて」
しかし鈴花の声は浮かないままだった。
「それだけじゃなくてさ……いつもおねえちゃんばっかり働かせて、私、毎日何にもしてないし」
「小説を書いてるじゃない」
「……売れない小説だよ」
なんの意味もないよ、そんなの――と鈴花は吐き捨てるように呟いた。
大切なものをわざと吐き捨てるような、自分を自分で傷つけるような言い方。
彼女のそんな言葉を聞くと悲しくなってしまうけど、でも私たちもいい加減長い付き合いだ。それが彼女なりの強がりであることを私はちゃんと知っている。
「鈴花、ほら」
彼女のほうに身を寄せて、その身体に腕を回して抱きしめてみる。
「私は好きだよ。鈴花の書いたものも、鈴花のことも」
「……」
もう数えきれないくらいこうして一緒にくっついたりしているのに、その身体はいつでも新鮮に柔らかい。
目を瞑ってその感触を確かめていると、やがて彼女がぽつりと呟いた。
「おねえちゃん」
「うん」
「……おねえちゃんは、どこにもいかないよね?」
「……」
消え入りそうなその声。
私の身体を掴んでくるその身体。
どちらも少し震えている。
私のじゃない彼女の鼓動、私のじゃない妹の匂い――
私たちは大抵の場合こうして一緒にいるけど、それはいつ来るかも知れない別れの気配に、お互いが常に怯えているからだ。
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