第2話


 自宅から十分ほど歩いた駅ビルの一階にある、安価なことが売りのイタリア料理のレストラン。目の前のテーブルには、きらきら光るプラスチックのグラスに注がれた白ワインが置いてある。


 こんな風に昼間からお酒をたしなむなら、そりゃもう断然白ワインがいいと思う。まだ高い昼間の光を一番きれいに反射して、こうしてゆったり膨らんでくれるもの。他のお酒ではこうはいかない。


「……」

「……」


 まあ、こうして楽しめるのも休日だからこそなんだよね――と私が寛いでいると、向かいに座った鈴花が不満そうな目線でこちらを見てくる。


「何よ」

「やっつけてくれると思ったのに」

「はあ?」


 やっつける――って、いったい何のことだろうか。

 まさかあのキラービー、もといスズメバチのことを言ってるんだとしたら、この妹は姉というものに要らぬ幻想を抱きすぎである。

 まあ、妹がそういう生き物だ、ということは十分承知しているけれど。


「無茶言わないでよ、あんなのに刺されたら一撃だよ?」

「……前から思ってたんだけどさ」


 手元にある真っ黒のパスタをフォークでくるくる巻きながら、鈴花が言う。


「おねえちゃんって、意外と弱いよね」

「あ?」

「この前だってさあ、服のそでにてんとう虫が止まってただけなのに大騒ぎしてたじゃない」

「ばか、なに言ってんの。てんとう虫には毒があるんだよ?」


 これだから無知な妹は困る。てんとう虫をうっかり触ってしまったときに、その部分から滲み出るあの黄色い毒液のことを知らないのだから。

 あんなのに触れたら一撃である。


「まったく」

「じゃあ、おねえちゃんは何になら勝てるの?」

「勝てる、って何よ」

「何を相手にしたら、さっきみたいに怖がらないで立ち向かえるのか訊いてるの」

「……はあ」


 私はため息をついた。

 鈴花はたまにこうして子供みたいなことを言う。

 なんでも勝ち負けを基準にして考えるなんて、今年で二十五にもなろうという娘がまるで小学生みたいだ。

 私と同い年の、小学生みたいな妹――そう思うとちょっとおかしかった。


「まったく」

「なによ」


 生意気にもにらんでくるその視線を感じながら、私は白ワインを一口含んだ。安価ながらほんのり香るブドウの匂い。頭の奥がじんわりと開いていくような、ほろ酔いの気分。いいものだと思う。


 しかし、せっかくこうして大人になったというのに、鈴花はお酒を飲まない。

 その代わりご飯をたくさん食べる。まったく健康的なほど。

 私はアルコールが入ってしまうとほとんど食事が喉を通らない。見かねた鈴花から、ほらおねえちゃん、食べて――と半ば無理矢理口に押し込まれることもしばしばだ。今だってほら、頼んでもいないのに、小皿に取り分けられた真っ黒なパスタが私の目の前にあるんだもの。


 私たちは大抵の場合こうして一緒に行動している――兄妹を持つ友人から『仲がいいんだね、君たち』と呆れられてしまうぐらい――けど、その性質は他人から見えるほど一緒ではないのだ。

 それはきっと、小学生のときに突然始まって、これから死ぬまで続いていくであろうたったふたりの生活のなかで、両方がバランスを取っているということなのだろう。


 だからまあ、それはそれでべつにいいんだけれど……でも時々は一緒にお酒でも飲めたらいいのにな、と思うことはある。


「……」

「ねえ、聞いてるの?」

「何よ?」

「だから、何になら勝てるのかって聞いてるの」

「しつこいね、まったく」

「何よ、そっちが早く答えないのがいけないんでしょ」


 鈴花は不満そうに口元を膨らませている。

 しかし周りに黒いソースのついたその口でそうすると、なんだかお馬鹿っぽく見えるなあ――そう思った瞬間、とある台詞が頭のなかに降って湧いてきた。


 けど、それを思わず口にしてしまうほど私の酔いはまだ回っていなかったので、黙ってその口元を拭いてやる。

 鈴花は嫌そうな表情になったけど、なされるがままだった。


「……」

「ねえ、おねえちゃん」

「……そうだなあ。まず、昆虫全般には勝てないね」

「ええ……アリでも?」

「アリ?アリなんてだめだよ。奴等は群れたら世界最強まである生物なんだよ。縛られて身動きのとれない人間が一晩で奴らに骨にされた、っていう話もあるぐらいなんだから。ああ恐ろしい」

「大袈裟だよ……」

「大袈裟なもんか。あと基本的に足が五本以上ある生き物に私は勝てない。怖いから」

「何よ、それが本音なんじゃん」

「まあな」

「おねえちゃんの怖がり」

「まあね」

「あーあ、がっかりだなあ」

「ふん」


 怖がりだろうががっかりだろうが結構だ。

 私はグラスに残っていたワインを飲み干した。


 勝ちでも敗けでもなんでもいいから生き延びて、こうしてのんびり安酒でも楽しんでいられればそれで上等だろうと思うし。たったそれだけのことがどれだけかけがえのないことか、目の前で不満そうな表情を見せているこの妹だってちゃんと知っているはずなのだ。



★★★



 レストランから出ると、晴れた空に乾いた風が吹いていた。

 そろそろセミでも鳴きそうな初夏の気配。

 外はまだ明るくて、それだけでなんだか得をしたような感じ。


「もう」


 そんないい気分にも関わらず、鈴花はやっぱり不満そうに口を尖らしている。


「また昼間から酔っぱらって」

「いいじゃない。お休みだよ、土曜日だよ?」


 こうして精一杯に寛ぐことこそ、お休みというものに対する誠意ってやつではないのかな。


「お酒はちょっと控えるって約束だったでしょ」

「そうだったっけね」

「もう」

「……あのさ」


 ところで。


「私たちってどうして外出してたんだっけ?」

「……わすれちゃったの?」


 呆れた――と鈴花はため息をついた。

 

「スズメバチがいたんでしょ。部屋のなかに」

「ああ、そういえばそうだった。あはは」

「もう」

「……あいつ、いなくなったよな?」

「……わかんないよ」

「もし万が一、まだ部屋にいたらどうしたらいいんだろう。業者とか呼べばいいの?」

「一匹で?」

「許されないかな」

「大袈裟だと思う」

「むう」

「……殺虫スプレーとか買っておく?」

「……そうしようか。一応」




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