下
文化祭当日。市ノ瀬は最終練習などがあるので少し早めに学校に行こうと考えた。この2週間、は頑張ってくれた菊池にはら今日ぐらいは朝をゆっくり過ごしてもらうという魂胆だ。
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい、あとこれ、持っていきなさい。作りすぎたから、新太君にもあげるといいわ。」
そう言って市ノ瀬の母は、クッキーを渡した。この人が本当に落語嫌いなのか、市ノ瀬はいつも疑っている。市ノ瀬は自転車に乗って、学校へ向かう。朝の空気は新鮮だが、ちょっぴり昨日の残り香が漂う。信号待ちの交差点で、市ノ瀬はいつものように演目のセリフを口ずさむ。
「寿限無寿限無五劫の擦り切れ、、、」
市ノ瀬はセリフを思い出すのに夢中で後方からすごい速さの車になんか気づかなかった。
連絡があったのは、思いのほか早かった。電話は先輩のお母さんからだ。
「新太君、聞こえる?」
「誰かと思ったら、先輩のお母さんじゃないですか。どうしたんですか、急に。あ、あと先輩、遅刻ですよ。まだ家にいるなら、」
「そのことだけど、」
先輩のお母さんは、言い淀む。
「今、病院でね、絵美が、絵美が交通事故に、」
僕の手の力は抜けていく。
「う、梅先輩の容体は?」
動悸が止まらない。声が震える。
「それがね、「ね、お母さん。私のスマホが壊れちゃったから、新太君に連絡してって言っただけだよね。なんで、そんなに不安を煽るの!」」
スマホの向こうから、あの声が聞こえてくる。
「えぇ、先輩、いるじゃないですか。僕の心配返してください。」
電話の相手が先輩に変わる。
「ごめんってば、心配してくれてありがと。でもここで悲報です。私は交通事故にあってしまい、右手を骨折してしまいました。」
先輩の口調はだんだんと真面目になる。
「この病院から、学校まで、車を飛ばせば終わりの方には間に合うと思います。けれど、私は骨折していて、舞台には出れそうにないです。私は、覚悟を決めました。この一年、後輩くんと一緒に頑張ってきたけど、、私が、ふがいなくて、」
涙をこらえる先輩、僕も悔しくてたまらない。先輩のためにも何かできることがあればと頭を回す。
「後輩君には、来年頑張ってほしい。絶対に見に行く。車だろうが、、隕石だろうが落ちてきても、絶対。だから、本当に、ごめん。」
あることが閃く。
「先輩、僕の演目、見に来るんですよね。急げば、学校に来れるんですよね。」
「うん」
「じゃあ、先輩、急いで学校に来てください。」
「どうして?」
「いいから来てください。」
僕は詳しくは話さず、ただ学校にきてくれと頼んで電話を切った。
ここからは僕の力量だ。
菊池の連絡のあと、すぐに市ノ瀬は母親に学校に行く旨を伝える。
「最後、だもんね。わかったわ、今が十一時半、お医者さんからは二時間は安静にって言われたから、遅くても三時には学校に着くわ。ほら、涙を拭きなさい。かわいい顔が台無しよ。」
「お母さん、いつもありがとう。」
「急に何よ」
「命の危険を感じてわかったの、日ごろの気持ちはちゃんと伝えなきゃって。」
市ノ瀬の母親はため息をついて、市ノ瀬の頭を撫でる。
「私が落語が好きじゃない理由、分かる?」
撫でていた手は市ノ瀬の頬をつまんで、にこりと微笑む。
「落語家はそうやって口がうまいからよ。」
「ほっぺぇぇ」
市ノ瀬は思った。私の母親は口下手だ。
時間が過ぎ、三時二十分に市ノ瀬学校に到着した。何やら体育館が騒がしい。
「続いては、最後の有志になります。いろいろの諸事情により、まさかの大トリになってしまったこの男。たった一人の彼の噺に全校生徒が耳を傾ける。松竹亭 新の登場です。」
市ノ瀬が選んだ着物に身を包んだ、菊池が袖端からやってくる。ポツポツと拍手が広がってゆく。
「今、紹介されました。松竹亭 新です。なになに?名前にひねりがない?それもそのはず、アクシデントさえなければ、今日は松竹亭 梅の高校生最後の舞台だったんですから。アクシデントについては、置いといて。せっかくの先輩の晴れ舞台、何もないのは心ぐるしいということで急遽、僕、松竹亭 新が皆さんの前にこうやって座らせていただいています。これからする演目は、僕のオリジナルの演目でして、本当はもっと上達してから皆さんに見せたかったですけれど、仕方がありません。それでは、お楽しみいただけると幸いです。『青春』----」
そこからは、圧巻だった。聞く人すべてが菊池の噺に心奪われる。笑い、泣き、そしてまた笑う。ここまで、観客を意のままにするなんて、私にはできないと市ノ瀬は思った。時々、心当たりのある出来事が入っていた気がした市ノ瀬は気のせいだろうと思い直す。そんなのはどうだっていい。私たち観客はみな、彼の言葉、仕草、動きから目が離せない。落語はラジオとは違う。ちゃんと味わうには目からの情報だって大切だ。
「それでは、終わりとさせていただきます。観客の皆さんが優しくて、温かく見守ってくれたおかげで、僕もリラックスすることができました。本当にありがとうございました。」
後輩くんが深々と頭を下げる。私はその場で立ち上がった。自分の右手が骨折していることなんて忘れて、拍手を始める。痛みなんて彼を称賛するためなら痛くない。
次々と、生徒たちが立ち上がって拍手する。新太くん。この景色が見える?これがあなたの落語のすごさだよ。
後輩くんは頭を上げた。その時だった。彼を見つめる私と、彼の視線が合った。去年とは逆の立場で、去年とは違う感情で、私たちの目は交差する。彼の口元が動く、
’す’き’で’す’
彼ははっきりと、私に向かって言っていた。
あれから何年がたっただろう、僕、菊池新太は居酒屋でメニューを選んでいる。テレビには今年の全国落語選手権の優勝校が特集されていた。
―「全国大会優勝、おめでとうございます。今誰に一番感謝を伝えたいですか?」―
―「そうですね、家族とか、仲間たちに感謝を伝えたいのは山々、なんですけど、僕はやっぱり、伝説のOB,OGに感謝を伝えたいです。あの人達のおかげで僕は優勝できました。」―
―「伝説のOB,OGですか、その方たちはいったい――――」
「先輩、聞きました?僕らのおかげですって。あいつも口がうまくなりましたね。」
「誰の影響なのか、わかってる?間違いなく後輩君だよ」
「いやいや、そんなことは、ないでしょう。あ、ビール頼みます?」
「うん、そうだね。今日は打ち上げだしパーッといこう。パーッと。」
先輩は、何かを思いついたようだ。
「やっぱり、今日はお酒やめとこうかな。」
「え、どうしてですか。居酒屋に来たのに。」
「だってさ、この幸せが夢になっちゃいけないからね。」
先輩はにっこりと笑った。
くちあたらし 岡下 夏日 @obvious436
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