中
それからの僕には、勢いがあった。文化祭が終わった次の週の初め、市ノ瀬さんの教室に突撃しに行ったのは、やりすぎだった気がする。
「あの、市ノ瀬さんってこのクラスですよね」
教室中の二年生が目がこちらを向く。
「絵美なら、放課後だし多分2階講義室にいるよ、それかもう帰ってる。」
二年生の教室に一人で突っ込んできた後輩なんて違和感しか感じないはずなのに僕の質問に答えてくれた。
「ありがとうございます。助かりました。」
講義室のほうを指さす先輩。僕はいつかこの人にお礼をしようと思った。
コンコン
「失礼します。」
講義室についた僕の耳にかすかに届く話し声、中にはほかに誰かいるのだろうか。僕は恐る恐る扉を開けた。
「『それではお客様、今回は短めに切ってすっきりさせましょうか』
『あ、はい。もうお任せでお願いします。こういうところ来るの初めてで』
『緊張されてますよね、大丈夫です。私に任せてください 絶対かっこよくさせますから』
『ありがとうございます』
『ところでお客様、もみあげはどうなさいますか?』
『そ、そうですね。とりあえず揉んどいてください。』」
僕は聞こえてきた会話に笑わされる。
「もみ、あ、、げ、、、もんどいて、、、、」
過呼吸になりながら、笑い転げることだけはしないように努力はする。
「あなた、だれ?」
僕の笑い声に気づいてこちらを見つめる人は、紛れもない市ノ瀬絵美だった。
「突然すみません、1年の菊池新太です。落語部に興味があって。」
「おぉー!!入って!でも、あなた本当に興味あるの?」
市ノ瀬さんは、真面目な顔になって話し始める。
「私は2年の市ノ瀬絵美。今来たってことはこの前の私の演目を見てってこと?。」
「はい、先輩の落語に心奪われました。」
「おぉ、私の落語にね。えへへ。照れるじゃん。」
先輩は髪をくるくるさせる。
「でも、待って。口では、何だって言えるって私知ってるから。あなた、部活は?」
「バドミントン部です。でも、落語のためなら、いつだって辞めます。」
僕は本当に思っている。部員が多くて知り合いが増えそう、という動機で入ったバド部。確かに、知り合いは増えたが、それ以上でも、それ以下でもない。
「そ、そう。落語部は結構忙しいから兼部は遠慮してほしかったし、助かるわ」
「明日、退部届出してきます。」
僕は、もうすでに退部する真っ当な理由を考え始めていた。
「いや、その必要はないわ。」
先輩は、講義室の棚から何やらCDと本を取り出しながらそう言った。
「この部活、どうして、私1人しかいないんだと思う?落語はこんなにも素晴らしいのに。」
「みんな、興味ないんじゃないんですか?」
「違うわ、私がこの部に入ってから何人が、あなたみたいにこの扉をノックしたと思ってるの。」
僕は、回答に困る。
「わからないです」
先輩は僕の目の前に大量の本とCDを置く。
「入部試験があるからよ」
「ようするに、これを全部見てこい、と?」
「ええ、今日から1週間でね」
あまりの短さに驚く。
「驚くのも無理はないわ、いつでもやめていいわよ。私だって、苦労したんだから」
僕は目の前の一冊の本を手に取って言った。
「1週間じゃ、悩んでる暇なんてないですね。」
僕は落語の沼にどっぷり浸かった。CDの中には10を超える演目、中には「芝浜」もあった。先輩とは異なるアレンジで、同じ演目なはずなのに、また違った印象を受ける。本にはそれぞれの演目の大体の流れとオチ。睡眠不足で仕方がないが、すごく充実していた。そして、先輩に無事承認されて僕は落語部に入部することが出来た。
市ノ瀬絵美は菊池新太が部室に入ってきた時、すぐに誰なのかわかった。彼女の演目に立ち上がって拍手してくれた子だからだ。お辞儀の後、彼女は彼と目が合った際に、感謝を伝えたが、それが伝わったかどうかは彼女自身もまだ知らない。市ノ瀬が菊池と交換したLINEには入部試験の1週間、毎日、感想を述べたられていた。2時過ぎに通知が来ていたことには、市ノ瀬も驚いていた。目を擦りながら、演目に感想を語る菊池を市ノ瀬が笑うという数日が続いた。菊池が部員として数日過ごす中、市ノ瀬がどうして落語に興味を持ったのかを聞いた。その理由は実に明白で市ノ瀬絵美の母方の父、つまりはおじいちゃんは落語家の最高位「真打」なのだ。幼い頃から祖父の落語を聞いていた彼女は当然のごとく、その落語の魅力に取り憑かれた。けれど、彼女の母はその事にあまり良しとは思ってないみたいだ。今でこそ、祖父は「真打」になって生活が安定しているが、下積み時代は、祖母にも母にも迷惑をかけてしまっていた。その事が原因だ。そんな彼女が、落語部に入れたのは彼女の父が父親として、1人の落語ファンとして母を説得してくれたからだ。彼女が自分の部屋で落語の練習をしている時、スイーツを置いてくれたりする母親は、本当に落語を嫌っているのかは定かでない。
9月末に入部した僕は、それからほぼ毎日講義室に入り浸った。梅先輩からは、空気の作り方、観客の心の掴み方、滑舌、目線、喋り方、落語のイロハをビシバシ教えてもらった。梅先輩の祖父があの「真打」一遊亭 春市さんだったのは驚いた。春休みには、春市さんの生の演目を見て心が震えた。あの瞬間は梅先輩が羨ましくてたまらなかった。目まぐるしく時が過ぎていって、僕が松竹亭 梅の落語を見たあの文化祭からもうすぐ1年が経とうとしていた。
「先輩、お話があります」
僕は、先輩の練習中に声をかける。
「どうしたの?そんな真面目な顔して、それより文化祭で何の演目するか決めた?」
「そのことなんですけど、僕、今年の文化祭は先輩のアシスタントに回りたいと思ってます。」
「え、待って?どうして?」
先輩は驚いた顔を隠さない。
「この1年、先輩と一緒に落語に向き合って来てわかったんです。僕にはまだ、人前で見せるほどの技術はない。先輩の前座で、僕の演目なんか見せたら、先輩の演目だってバカにされます。観客みんなの心を掴める自信が僕にはありません。」
僕は自分の思っていることを正直に先輩に伝える。
「そっか、色々考えて、だよね?」
「はい、僕の選択です。先輩には来年、僕の全力の落語を見せたいです。」
先輩は、ニコりと笑って
「楽しみにしてるよ。あ、でも、待って。新太君にピッタリの着物、今日渡すつもりだったんだけど。これを着るのはまた来年ね」
「ほんとにごめんなさい。その代わりに、先輩のアシスタントは全力でやります。困ったことがあったらなんでも言ってください。」
それから2週間、先輩は何度も何度も練習を積み重ね、今までにないくらい素晴らしい演目に仕上がった。最後の方には、春市さんまで来て指導してくださったりしてクオリティは最高だった。
「それでは、始まりました。第55回新口高校文化祭今年もみなさん、楽しみましょう!!」
いつの日か、僕に梅先輩の居場所を教えてくれた先輩が司会進行を行っていた。全員出席のはずの開会式だが、梅先輩の姿が見えない。嫌な予感がした。
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