くちあたらし

丘袈 裟迄

高校1年の秋、学校で行われた文化祭の中、「有志」という名目で生徒たちが体育館のステージでコピーバンドやダンス、歌を歌ったりするイベントがある。その一幕でのちに僕の先輩になる市ノ瀬絵美の「芝浜」という演目を目の当たりにした。ステージ端から、中央の座布団の上にゆっくりと歩くその凛とした姿は、1つ前のコピーバンドを見終わり体育館で一休みをしていた僕らの目を奪っていった。鳴り響く出囃子の音。扇子を握りしめた右手。彼女は体育館中の視線を奪っていった。

「落語演目『芝浜』2年6組 市ノ瀬絵美か。」

体育館の右袖からアナウンスが行われる。

「続いては、わが校で唯一の落語家 笑竹亭 梅こと、市ノ瀬絵美さんの演目。ぜひお楽しみください。」

誰が始めたのか分からない拍手が起こる。

「皆様、長らくお待たせしました。笑竹亭 梅でございます。前座のバンドや弾き語り、お楽しみいただけましたでしょうか。えぇ?私も次のダンスの前座ですって?少し勘違いしておりましたかも。とはいえ私も稽古に稽古を積み重ねた集大成です。最後までお聞きくださると幸いです…」

座布団に座り、スムーズに話し始めるその所作は、有無を言わせずに”聴かせて”いた。自分のしゃべりだけでその場の観客の心を掴み、ちょっとした笑いを生み出す。



彼女の落語の演目は快活に進んでいく。

「『えぇ、お前さん、なにしてるんだい、仕事は?』

 『うるさいわい、俺が何してたって俺の勝手だろうが。酒だ酒を持ってこい!』」

そこにいたのは、夫を心配する妻と、酒に酔いつぶれる夫。完全に演じ分けられていた、いや、そうではない。そこに二人が生きていた。

「すごい」

自然と心の中に思ったことが漏れる。

「あれで、高校生かよ。信じられない」

隣からは話し声が聞こえてきた。言っていることは真っ当だ。あんな芸当、ただの高校生ができることじゃない。演目はクライマックスを迎え、聴く人の目には涙が浮かぶ。かくいう僕の頬にも涙が流れていた。



「『あんた、記念にお酒を一杯酌み交わさないかい』

 『お前さんが言うなら、そうだな。今日一日くらいいいか。』

 『分かった、今から盃持ってくるわ』

 『いや、ちょっと待った。やっぱり酒はやめにしとくよ。』

 『あれまぁ、どうしてだい』

 『この幸せが、また夢になっちゃいけねぇからな』」

彼女は扇子を床に置き、頭を下げた。


僕はその瞬間、何も考えていなかった。ただただ、彼女を称賛したかった。だからだろう、その場で立ち上がり、大きな拍手をし始めた。僕の初めてのスタンディングオベーションはこの時だった。ぽつり、ぽつりとほかの観客も立ち上がる。

拍手喝采の中、彼女がゆっくりと頭をあげる。

その瞬間、ステージ上の彼女の視線と僕の視線は交差した。これは気のせいなんかじゃなかった。だって、彼女は僕を見つめて、”ありがと”そう言っていたのだから。


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