特別編2「紐」

 ギラギラと照り付ける太陽がまるでアスファルトをフライパンのように熱している。そしてそのフライパンはそこら中の景色を歪ませて俺の視界もぼやけさせる。やれやれ、今日は蝉まで鳴き出したようだ。俺は極力、木陰を歩きながら呟いた。

「俺は夏が嫌いだ」

 なんとか校舎までたどり着いた。俺がもう少し不真面目だったり、今日がこれ以上の暑さだったりしたら迷わず来た道を引き返していただろう。クーラーのきいた部屋でぐっすり眠る、これ以上の幸福がこの時期、この世界にはあるだろうか。そんなことを思いながら教室の戸を引いた。昨日からわかっていたことだが教室には誰もいなかった。机には制服が無造作に脱ぎ散らかされてある。俺もかばんを置き、着替えて校庭に向かった。

 校庭では真っ黒に焼けたクラスメイト数人が、足に紐を括り付けて肩を組んで走っていた。

「おい、沢村。遅いぞ。体育祭まであと一か月も無いんだから、毎日朝練あるっていったろ?」

俺は二人三脚の選手として選ばれ、こいつと一緒に走ることになっていた。決まったのがついこないだということもあってか、毎日朝練をすると言い出して張り切っている。俺にとっては迷惑この上ない。

「悪いな、本田」

一応、本田に申し訳なさそうに謝る。そう言っておけばやつも機嫌を直してくれるだろう。

「じゃあ、始めるぞ」

本田はそう言って俺と自分の足に紐を巻き付ける。思っていたより足の動きが制限されるな、そう思うより早くやつは俺の肩を持って走り出した。

「お、おい! ちょっと待てよ!」

俺も必死で足を動かすが帰宅部の足が野球部の足についていけるはずがない。俺たちはコースの真ん中あたりで派手に転んでしまった。

「痛てて……。大丈夫か、沢村?」

「ああ、まあな」

まったく、こいつの前世は猪か何かだったのだろうか。こっちが何かを言う前に動いて、それで成功するか失敗するかは大体、1対9だ。少しは考えてから動くことを覚えないのだろうか。思えば昔からやつはそうだった。蜂の巣を突っついて落としたり、川で泳いで溺れかけたり……。

 俺とあいつは物心つく前からの友人で、家が隣同士だったこともあってか小学校まではたびたびこんな風に一緒に遊んだものだった。

 しかし今は、俺は帰宅部であいつは野球部。接点は全くなく、一緒に居ることも少なくなった。まあ、当然の流れだろう。あいつはクラスの中心人物で、今回もA組の団長をしている。俺みたいなやつが一緒に居ても迷惑なだけだ。

 ……また転んだ。本田は転ぶたびに、大丈夫か? と笑って紐を巻きなおす。

「今度は、速くなりすぎないように気を付けるからな」

そう言って本田はまた俺の肩を持って走り出す。しかし何回やっても上手くいかない。やがてチャイムが鳴って朝の休みは終わった。

 教室に着くともうほとんどのやつは戻ってきていた。大縄跳びの女子たちは暑そうに大きなタオルを水に濡らして首にかけている。綱引きの連中は手に跡が残っていて見るからに痛そうだ。

 午前中の授業はほとんどのやつが眠りに落ちた。もちろん俺も例外ではない。川藤先生の話が遠くから聞こえるような気がする……。

「おい、起きろ!」

「はい! すいません!」

急な大声に起こされた俺は反射的に謝った。しかし周りではクスクスと笑い声が聞こえる。

「なんだ、本田か……」

どうやらもう昼休みのようだ。4時間ぶっ通しで寝ていたというのに誰も起こしてくれないというのはどういうことだ。俺は文句を言いながら本田の話を咀嚼する。寝ぼけて聞き間違ったのでなければ確かにあいつはそう言った。昼練をする、と。

 その日から毎日、俺と本田は朝、昼練をすることになった。幸い、放課後はやつ自身の野球部の練習があるから無理だそうだ。謝っていたがラッキーとしか思えない。朝も昼も校庭で足に紐を括り付けて走っているんだ。放課後くらい、その紐を解いてくれ。

 掃除が終わり、帰る時間になった。一日の中で最も好きな瞬間だ。かばんを持って、飲み終わったジュースのペットボトルをゴミ箱に捨てようと食堂に向かう。

「よう、沢村」

俺は恐る恐る振り返る。本田のやつ、まさか放課後も練習できるようになったとか言い出すんじゃないだろうな。

 だがそこにいたのは担任の川藤先生だった。

「最近お前、毎日朝も昼も二人三脚の練習しているみたいだな。先生はうれしいぞ。去年までは練習にあんまり積極的じゃなかったのにな、本田と同じクラスになれたからか? うん?」

まったく、いい迷惑ですよ、そう思いながらも本田が強引ながらも練習を一緒にしてくれてやる気が出てきた、と言った。

「そうかそうか。ま、何にしても本田とここで過ごせるのもこの体育祭までだしな」

「えっ、どういうことですか?」

「聞いてなかったのか? あいつのことだから周りにもう言ってると思っていたんだが……。まあいい、あいつはこの夏からスポーツ推薦で一足早く高校の方の付属中学の方に行くんだよ。中学の頃からレベルを上げるって高校の方針で。だからここであいつが残す最後の思い出ってわけだ。団長のあいつをお前らもしっかりサポートして優勝するんだぞ。それから……」

話を最後まで聞いていられなかった。あいつが、いなくなる……? いや、もしかしたら俺か先生の勘違いということもあるかもしれない。やつならそんなこと、真っ先に俺に言ってくれるはずだ。俺はあいつと会って話すために野球部の使っているグランドに向かった。

 だが、そこに本田はいなかった。

「あれ、先輩の友達の?」

振り向くと小柄な野球部員が二人立っていた。

「沢村だ。本田がどこにいるか、わかるか?」

「いえ、上杉先輩はご存じですか?」

「三橋は居なかったもんな。本田先輩ならもう帰られましたよ、今度転校してしまわれるのでその準備が大変だそうです」

「そうか、ありがとう」

礼を言って俺は帰ることにした。やつがいないんじゃ、ここにいつまでもいる必要はない。

 暗くなって周りが段々涼しくなってきたが今日はうれしく思えなかった。

 次の日も朝練はある。だがなんだか行きたくなくて校庭に顔を出さなかった。すると休みが終わって練習を終えた本田が真っ先に俺のほうへ来て詰め寄った。

「なんで今日は来なかったんだ?」

「悪いな、本田」

「昼は練習するぞ」

わかった、といって俺たちは席に戻った。その日の午前中の授業は全く頭に入らなかった。

「昼だ、練習するぞ」

 とりあえず本田について練習する。だが俺の気持ちのせいか一向に歩みがそろわない。

「おい、どうした? 調子悪いのか?」

本田が心配そうに手を差し出す。

「……それで人気者気取りかよ……」

「えっ?」

「それで人気者気取りかよって言ったんだよ!」

自分でも信じられないくらいの大声がふいに口から飛び出した。

「どういうことだよ?」

「こっちは知ってるんだよ。お前、転校するんだろ? スポーツ推薦で。だから最後の体育祭で団長になって優勝して皆から褒められて人気者になってここ出ていくんだろ? 最後にいい気分になって、ああすっきりしたって。そのために俺みたいなやつまで練習させてんだろ、優勝するために! 全員で力を合わせたって言いたいがために。本気で一緒に頑張ろうなんて思ってないんだろ!」

俺は紐を地面にたたきつけた。本田は俺をにらみながら黙っている。

「俺なんか、どうせお前からしたら、友達でもなんでも……」

「うるせえ!」

俺が言い終わる前に本田が言葉を遮った。

「俺が優勝したいのも、いい気分でここを出ていきたいのも本当だ。けどな、お前が俺にとってどうでもいい存在なわけねーだろ! 俺はな、お前と一緒に勝って、お前と一緒に笑って、それから転校したいんだ!」

本田はそう言って俺の手を引っ張った。

「い、今さら何だよ! じゃあ、何で転校ってこと隠してたんだよ!」

「いつかは言おうと思ってたよ、けどお前ただでさえ体育祭嫌いだろ。そんなことまで気にさせたらもっと嫌だなって。無理やり体育祭に参加させるみたいで。けど、かえってお前に心配かけさせたみたいだな、すまん」

そう言って本田は頭を下げた。その姿を見て俺は自分がどれだけ小さい奴だったかを思い知った。俺はやつを誤解していた。

「こちらこそすまなかった、本田」

俺は頭を下げたがすぐに上げるように言われた。

「さて、早く練習するぞ」

「ああ」

俺たちは砂にまみれた紐を再び、固く足に結んだ。


――あの日からもう二か月が過ぎた。体育祭も夏休みも終わりまた二学期が始まろうとしている。皆変わらない様子で夏休みにあったことを話している。唯一、変わったことはあいつがいないことだ。結局、練習では上手くいってた二人三脚も本番で俺が転んでビリになってしまった。あの時の傷ももう癒えてきたな。本田のことも、この傷みたいに段々と薄れていくんだろうか。

「俺は夏が嫌いだ……」

きっと夏が来るたびに思い出すのだろう。来年も再来年も……。

「さあ、朝のホームルームを始めるぞ!」

川藤先生の聞き飽きたこのセリフもある意味大切なものかもしれないな。

「……本来、今年一年かかるものだと思っていたんだが、今年から地域を大切にするということで……」

何? 今度こそ俺の聞き間違いか?

「またみんな、仲良くしてやってくれ、以上!」

机の上に水滴が落ちる。今日は暑いし汗だろうか。

「やっぱり夏は嫌いだな」

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咲いたもの、結んだもの 雪野スオミ @Northern_suomi

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