第8話 虎と龍と魔女と②


 翌日、魔女は昨日の汚れを落とすため風呂に入っていた。極楽気分で朝から浸かり、その後おいしい朝食を食べる。最高の一日がスタートしようとしていた。

 しかし、それはすぐに消え去った。スマートフォンに一件の通知が入る。

 魔女は恐る恐る覗いてみると「上沢さんが熱を出したので、午後から出勤してほしい。」との所長からの連絡だった。現在は午前十時。魔女の休日は一瞬にしてなくなり、急いで出勤の準備に取り掛かった。



 魔女が午後から出勤することになり、三人組は喜んだ。ストレス発散を彼女にできるからだ。優しい魔女さんは何でもしてくれる。そう考えている三人組はいつも以上に上機嫌だった。


「昨日の書類大丈夫でしたか?不備とか色々ありましたら、魔女さんに後で言って聞かせますから。」


 ケタケタ後ろで笑う二人は、それを楽しそうに聞いていた。陰でコソコソとしているのは知っていたが、まさかこれが目的だったとは思わなかった。


 そう草壁が齋藤に言うと彼は鬼の形相で三人組を睨む。睨みをきかせた斎藤の眼は三人組を見つめ、彼女らを集めて静かに言い放つ。


「僕、確認しましたよね。『書類終わりましたか?』と。その時終わりましたと話されていたから、あなた方を信じたのに、まさか残業して魔女さんが代わりにやっている。しかも入ったばかりで、まだ仕事が分からないのに。

これは立派なパワハラです。仕事が終わっていなければ遠慮なく僕らに言ってください。僕たちもやりますから。」


 そう言うと、三人組は縮こまってしまう。静かに怒る斎藤は怖いが、まさかこの事を知っていたとは気づかなかった。

 作戦が失敗した山田はイライラしつつ、この場を治めるため静かに反省モードで対応する。

 草壁は結構来ているらしく、しょんぼりとしていた。春川は変わらずツンとしていて、話を全く聞こうとしない。

 三人の様子に溜息を吐きながらも、斎藤はしっかりと伝える。


「八つ当たりは厳禁ですからね。他でやってください。」


 そう言って三人にくぎを刺したのだった。


 魔女がデイサービスに到着し、午後の業務に入ると斎藤は魔女の存在に驚いた。なぜ今日いるのか。たしか休みなはずなのに。


「所長が来るようにと言われての。はい、これ昨日のお礼。」


 斎藤は所長から言われていたことを思い出す。上沢さんの代わりに出勤してくれる人を見つけたからと言っていたが、魔女さんの事だったのかと納得する。

 仕事を覚えるためには良いだろうが、今三人組を叱ったため、魔女に八つ当たりしないか心配だった。


「そうでしたか。ちなみにこれは?」


「上手い菓子と飲み物じゃ。嫌いなら捨ててくれて構わん。」


 そういって魔女は斎藤から離れ、利用者のもとへと向かったのだった。


「あ、俺の好きな奴だ。」


 張り詰めた空気が落ち着き、斎藤は少し安心する。昨日の今日でいやな思いをしていないかが気になったが、そんなことなく機能と同じように利用者と接していた。


 あぁ、良かった。


 心の中はそれしかない。そして斎藤は決めた。魔女さんが今日一日、三人組から攻撃されないようにしっかりと様子に気を配ろう。甘やかしすぎていると言われてもかまわない。ここを辞めないように支えようと斎藤は決めたのだった。


 そんな綺麗事は無理なわけで、魔女に対して三人組はこれ見よがしに嫌がらせを開始していた。魔女の足をわざと踏み、魔女が書いたメモ用紙を隠したり等小さい嫌がらせをたくさんしていた。


 イライラが蓄積されていくが、怒ることなく優しく接する魔女。それを見て面白くないと躍起になる三人組。それをずっと繰り返していく。ああ、本当に人間関係は面倒くさいと魔女と常々思ったが、目的のために歯を食いしばったのだった。


 魔女に対しての攻撃が止まない中、とくに上沢と仲が良い女性の牟田(むた)さんは魔女と同じ二十代で、物静かな人だ。自己主張が少ないが相手の流れに流されない確固たる意志を感じさせる。


 そんな牟田は三人組が怖いのか、魔女には近寄らない。自分が次に標的になるかもしれない。またあんな思いをするかもしれない。そう思うと手が出ないのだろう。

 魔女は自分の魔眼で過去を見てきているから、知っていた。だから、彼女らに言うのだ。


「やりたければ勝手にどうぞ。」


 三人組に向かって宣言する魔女。心が強い女性なのだと陰ながらに牟田は思った。でもそれに触発された三人組は次の日から少しずついじめるレベルを上げてきた。

 いう事を聞かない人種が本当に嫌なのだろう。新人狩りならぬ、魔女狩りが本格的に始動した瞬間だった。


 何日も何日も行われる魔女狩りは、職員たちの間で話題になり、利用者にも見てわかるぐらいにまで発展している。水面下どころではなく、もう浮上してきているのだ。


「……またやられたか。」


 溜息をつきながら魔女は制作のレクリエーションで準備してきた物を確認する。制作に必要なものがビリビリになっていて使い物にならない。どうしたものかと悩んでいると、魔女はひらめく。


「制作期間ではあるが、今回はこれで壁紙を作らせてもらうかな。」


 そういって、一週間のレクリエーション期間を難なくこなしていく。魔女狩りの効果が薄いと感じた三人組は声に出して悪口を言うようになる。


 効果は薄くても、マイナスの言葉は熱せられたバターナイフのよう。そしてバターにスッと入り熱が伝わり溶けるように、心に突き刺さる。気にするなと思っても気になってしまうというループが待っている。

 それが結構ストレスで魔女は精神をすり減らしていった。


 でもなぜか次の日には回復している。きっとフクが支えてくれているからだろうと感じる。寝る前にしてくれるよく眠れる魔術のおかげだ。そう思いながら彼女はコンビニへ向かう。フクが大好きなバニラアイスと自分が好きなビールを買い早歩きで自宅に向かうのが日課となっている。


 苦しいがフクがいてくれると思うと安心する。感謝しかない。


 そんな魔女狩りの日常が夏に入りかける手前まで続くが、魔女が証拠を集めていたことで所長・斎藤・相談員からお叱りを受けた三人組は『魔女狩り』をせず、少しずつ落ち着いていった。


 魔女が入社して初めての穏やかなワークライフがようやく訪れる……はずだった。



 夏に入る少し前、魔女はいつもの時間より一時間早く起床する。そして人が行動する音等が一切聞こえない、とても静かな時間に彼女は起きる。理由は体内時計が完全に狂っているから。


元の世界から日本へ来て約三ヶ月が経過したが、未だ時差ぼけがなおらず、かなりストレスとなって魔女を苦しめていた。


「主様が時差ボケの理由はきっと太陽では?」


フクは魔女の頭に止まり、首を傾げながら彼女の顔を覗き込むようにして見てくる。


「太陽ではあるが……。」


時差ボケは外が昼でも体感・体内時計では夜というようにずれている事で発生する。太陽が原因と言うのも分かる。でもそれだけではないだろうと魔女は思った。


「主様は太陽の光に当たっていないから生活リズムが崩れるのです。」

「当たっているぞ?少しだけ」


「少しでしょう!?」


と母親がわが子に怒るかのようにフクは魔女の頭の上で言う。


体内時計は朝日に当たることでリセットされ、朝と認識される。魔女のように朝少しだけ日差しに当たり、後は建物の中、帰宅時は暗い夜というサイクルになっていれば、当然生活リズムは崩れてしまう。


それをフクは必死に伝えていたのだが、魔女は自分のことに対して一切興味がない。

自分のことになるとまるで答えが見えない暗闇にいるかのような心持ちになるのだろう。だから答えが出てこない。発言が遅くなるのだろうとフクは思う。


「少しはご自分に興味を持ってあげて下さいな」


「う…うむ。そうだな。善処する」

タジタジで困った表情を前にフクは魔女の頭の上で嘴を器用に使う。フクは自分の嘴や自分の足でツンツンして魔女の頭に刺激を与える。目は座り、表情が固く怒りが外に出かけている状態であることは確かだと魔女は気づき発言を訂正した。


「少しずつ、自分を見てみるよ」


「見て下さい。あなたのためにも。そして私のためにも。」


魔女の表情が変わり、見上げる。私のためとは一体どういうことだろうか…?



その理由を聞く暇もなく、魔女はデイサービスに出勤し、同じタイミングで出勤していた上沢はロッカーをあける。


「嘘でしょう!?

もう、またこれ!?一体誰がこんなことするの…。マジ最悪だわ。はぁー…。」


大きなため息とともに、あまり聞きたくない言葉が女子更衣室から聞こえた。更衣室は二階にあり、あまり広いものではない。だから、小言でもしっかりと聞こえるくらいなのだが、この声量は更衣室の外にまで響いてしまった。


「上沢ちゃんどうし…うわっ!!」


と、同い年の同僚でお化粧大好き上沢の悲鳴じみた声が聞こえた。一階から更衣室に吉川と牟田が飛んできた。

上沢のロッカーをよく見てみると、洋服に何か黄色の液体が巻かれており、同時に強烈な匂いが辺りに広がる。また、上沢が匂いにやられ後ろに一歩下がり、ふいに下を見る。すると床にはたまごのカラが落ちていた。


「卵をロッカーの中にかけたのか。しかも腐った卵を。」


鼻をつまみながら、彼女らは更衣室の窓を開け空気の入れ換え、同時に職員専用の洗濯機と乾燥機をフル活用する。


「マジ二人ともありがとね。助かるわ」


「そんなことない、困った時はお互い様だよ」


と牟田は上沢に言った。牟田はいつも物静かな女子だが、いじめが大嫌いで、率先して助けに入る勇敢な女子だ。


「牟田ちゃんと吉川ちゃんがいて助かったわ。マジ、今度奢るわ」


「言ったね。」「言質取ったわ。」


上沢は軽く見られがちだが情に厚く、すごく素直な子だ。でも素直すぎるがゆえに言動が直接的だ。他にも作業が面倒だと色々と眼についてしまう。きっと素直すぎる上沢が目立ってしまったのだろう。


ただ、そこも含めて上沢である。二人はそこが好きで三人でつるんでいる。それぐらい仲が良く、周囲からは『ハッピーセット』と呼ばれるくらいだ。

利用者からも人気が高いため、あの三人組に比べてはるかに良い。


「きっとこの犯人は春川さん率いる三人組だろうなあ。マジ面倒だ。」


これは三人組から新人に対する洗礼だ。上沢の言動や行動等、気に入らない箇所がいくつもあったのだろう。彼女の全てが気に食わない。


「魔女狩りの次は『新人狩り』と来たか。」


 三人組はここでは古参の立ち位置、自分達よりも勤続年数が低く、年齢も若い場合「新人」と彼女らは考えている。

 だから、ここにいる上沢以外の二人も例外ではない。いつ攻撃されてもおかしくない、冷戦状態に突入した事になる。

 彼女たちが三人組から受けたトラウマが頭の中を横切った。表情が暗くなり俯いて身体・心が一瞬にして硬直してしまう。


――怖い、怖い、怖いッ


――仕事が失敗したら、どうしよう。


――彼女らの機嫌を損ねたらどうしよう。


――転倒等の事故が起きたら責められるのではないか。『どうして事故を防げなかったの』かと。


――『わからないです。』と伝えたら、不機嫌な顔をされるかもしれない。


――仕事場に行きたくない、行きたくない、行きたくないッ!


 負の感情に飲み込まれ、渦潮にはまる。どうやっても抜け出せず、他の事を考えようと躍起になる。『恐怖心』から逃げるために、上沢達は必死になって考える。どうすれば三人組から逃げられるか、攻撃されないように穏便に過ごせるか。焦燥感が壁になって後ろから上沢達を追いかける。

 仕事中は三人組に気を使いすぎて心が疲弊してしまう。

でもそれらが上手くいかなかった。上手にできなかった。上沢達は失敗したのだ。


「お前達は自分の事しか考えていないじゃないか。」


 ボソッと魔女は毒を吐いた。相手の言葉に翻弄され、相手の態度・反応に恐れ、自分を守ることすら許されない環境で仕事をする。

 たくさんの辛い経験と攻撃に揉まれ、誰に頼ることなく砂漠の中を歩き続けて来た結果、得た答えがこれだ。


――自分の身を守るため、相手の気分を最大限気にする。


 それしかなかった。それしか思いつかなかった。自分の身を守って何が悪い。何がいけない。

 上沢達の頭の中に恐怖、不安そして『怒り』が登場する。

 

「自分の身を守るのは結構、でも気にしすぎたら心が死ぬぞ?」


 魔女は制服に着替えながら上沢達に言い、ロッカーを閉じ、廊下に出て扉を閉めた。何が起きたのかわからない中、上沢達の手が止まる。

 魔女が言いたいことは分かる。でも頭の中を占めるのは不安だ。どうしよう、でも、だって…。

それしかない。


――ガチャッ。


 更衣室のドアが再度開く。魔女だ。忘れ物をとってきたのだろうか。


「まだ始業までだいぶ時間がある。一緒に片づけるぞ。」


――あ、この人は上沢のために戻って来たのか。


 上沢の瞳から大粒の涙が溢れ出る。簡単な事だ、自分の身を守る環境が悪いのだ。逃げてもいいのだとなぜ気づかなかったのだろう。どうして全て自分が悪いと思っていたのだろう。なぜ、相手の機嫌を第一に考えて動いていたのか。


 考えがまとまらない。今まで気づかないふりをして壁を作っていた感情がダムから流れ出るかのように勢いよく溢れ出す。


「泣いてないで、手を動かせ。時間がないぞッ!!」


 魔女は上沢達と共に卵で汚れたロッカーを綺麗に掃除していく。更衣室に職員用の洗濯機があって助かった。それに職場に貸し出し用の制服があったため、今日の分は何とかなる。

 しかもこの洗濯機、乾燥機能も付いている。節水だの言われているが、今日は大盤振る舞いだ。使ってしまえ!


「気にしないは酷な方法だ。絶対に気にする。だから自分を労り、衣食住を満たせ。そしたらいつの間にか満腹感の方が勝つ。『また始まったよ』程度の雰囲気に絶対なる。」


 まさかのガッツポーズで伝えてくる魔女にクスクスと笑ってしまうが、そんなことお構いなしに魔女は続ける。


「責めるなよ。責めた所で誰も得をしないのだから。」


 独り言を言うように魔女は上沢達に言った。ロッカーを掃除し、服を洗濯し、彼女らの心を落ち着かせる。虐められた事がある人にしか、この気持ちはわからない。汲み取れない。


――中身のない『大変だったね』。これが一番頭にくる。


「はい。」


 上沢達の感情はグチャグチャだった。どれが正解でどれが不正解なのか全く分からない。そんな中、魔女の言葉が上沢達を包み込んでくれたように思う。魔女の言葉の中には、中身があった。

 結構言葉はきついけどね。


「抱え込むな。自分を責めるな。お前らは悪くない。原因はあるかもしれないが攻撃をして来た奴らが悪い。そして自分ばかりを守るな。デイサービスの主役が誰かを忘れるな。」


 この言葉にハッと気づかされる。ずっと自分の事ばかりを守っていたが、遠くからやられている自分達を見ていた利用者の気分はどうだったろう。

 不機嫌な表情、イライラとした感情、負の感情が乗った表情や態度は利用者にどう映っていただろうか。デイサービスでどんなことを感じながら過ごしてきたのだろう。


――いつから悲劇のヒロインになっていたの?


 頭の中にそれが過る。一番の被害者はデイサービスを利用する『利用者』ではないか。

 楽しく過ごせるはずの環境で職員の悪口や陰口を聞かされ、職員がどんどん辞めていく。職員いじめを見たくないのに環境が同じというだけで見させられる。


 言わば、見たくもないテレビを見させられている感覚と同じだ。

 上沢達の表情がサーッと青白くなっていく。利用者に対して、なんてつらい環境を作り出していたのだろう。


「うむ。ようやく気付けたようだな。」


 普段あまり笑顔を見せない魔女だが、上沢達にニカッと大口を開けて笑う姿を見せた。

 優しく微笑みつつ、相手に語り掛ける姿は見かけるが、ここまで思い切り笑った姿を見た事がない。


 仕事中の魔女は冷静で、なぜか見透かされているかのような気分になる。きっと彼女は他人軸だった私達に『自分軸で物事を考える事も大事だ』と気づかせたかったのかもしれないと上沢達は感じ取る。


 自分たちが今までしていた事は、確かに正解だったかもしれない。でも周りの人達からしたら、それは悪手で、辛い環境を生む手助けになってしまっていた。


「それに気づけたのなら大丈夫だ。まずは自分を満たせ。話はそれからだ。」


 そう魔女が言うと上沢達は憑き物が取れたかのように表情が明るくなった。



 打刻時間ギリギリに彼女らは更衣室から降りて勢いよく打刻していく。遅刻せずに清々しい表情で朝礼に参加する。

 近所に住む職員の一部は制服の上に上着を羽織って出社してくるため、更衣室はあまり使わない。

 だから、朝から騒がしく打刻する彼女らを見ていた春川は怪訝そうな表情を上沢達に向けている。


「おはようございます。今日は私、相談員の久保田、リーダーの斎藤が配置に付きます。ヘルプ等呼んでください。

 また本日は利用者が最大のため、入浴介助を四名、フロアを二名体勢で行います。」


 と所長が話し出した。


 後から聞いた話だが、本当の人員配置はもっと少なく、ここから三人抜けた人数で利用者を見る予定だったらしい。

 それでは何かあった時が危険だという事で相談員の久保田が所長に掛け合って、二名増員して行う事になったらしい。

 これを斎藤に相談すると「俺も行きますよ。」と言って休日出勤してくれた。


 一部を除いて、ここは人に恵まれているなと魔女は思う。一番上の人間が、一部の人間を絞めてくれたら、どれだけ嬉しいか。


口にも表情にも出さずに心にとどめておく。


「また吉川さんは、午後から用事があるという事で十二時から交代で名古屋さんが出社されます。

 私は外回りで今日一日いません。報告は久保田さんか斎藤さんにお願いいします。」


 そう言って朝礼を閉めると春川が近づいてくる。


「今日の配置変えていただける?」


 今日の担当は上沢とフロアを担当する予定だった魔女は、なぜと頭を傾げる。


「入浴セット忘れてきたの。」


 普段はしっかりしていて抜け目のない人だと思っていたが、こういう事もあるのだなと少し安心する。

 魔女は頭を縦に振り、了承する。そして魔女は入浴に春川はフロアへと担当が変更になった。


 これがきっかけで大事件が起きるとは誰も知らなかった……。

 いつものように魔女と吉川・牟田は入浴介助を開始する。夏場の浴室は湯船の湯気と熱風でかなり熱くなる。

 しかも感染予防で常に換気、マスク・フェイスシールドの着用義務等で、余計熱く感じてしまう。

 汗をかかない人でも汗をかく。いわば熱波地獄である。


「エアコンがあまり効きませんね。」


「ここに来て、それはダメだってえええ。」


と吉川と牟田は始めたばかりなのに、すでにヘトヘトだった。サウナ状態の中、熱に当てられている以上、こればっかりは仕方がない。

 換気も相まって、涼しくなるはずの冷房はぬるくなり利用者にとってはちょうどいい環境ができている。


 高齢になると熱を感知する事が少しずつ弱くなっていくため、暑い環境でも冷房等に当たると寒くて仕方なくなる。逆にこれが酷くなると、冷房がなくても暑い夏を過ごせるほど、感覚が鈍くなってしまい熱中症になりやすい環境ができてしまう事もある。


 そのため、職員は利用者の気分や顔色をよく見る。湯あたりをしないように、のぼせないように、何より熱中症にならないように配慮するのだ。


「御着替えが終わった方から水分補給をお願いいたします。」


 髪を乾かしに行く方々と一緒に吉川は全体に声をかける。


――水分補給をお願いいたします。もし冷たい飲み物が苦手な方がいらっしゃいましたら、気兼ねなく仰ってください。温かいものをお持ちいたしますので。


 そう声をかけていく。


 ただ、特に入浴担当の人は忘れやすい事がある。『自分の水分補給』を忘れてしまう傾向がある。

 仕事に忙殺されるとこの仕事は自分のために何かをすることを忘れてしまう。気づけなくなってしまう。

 だから、職員たちは声を掛け合うのだ。


「吉川殿、牟田殿、水は飲んでいるか?」


 作業をしながら魔女は二人に聞いていく。この二人は集中すると周りが見えなくなるタイプだ。自分の事に必死になりすぎて、うまく入浴を回す事が難しくなってしまう。


 魔女は利用者の洋服の替えをバックから出して、着用していた下着などをビニール袋に包みバックに戻していく。


 そして必ず作業をするときは使い捨てゴム手袋を着用する。人と人が接する場所だ。ゴム手袋を使って、自分が感染しない、相手に感染させないように注意して行う。


 よく見ると片目だけ閉じている。魔女は右目を閉じて、過去の入浴の様子を視ていく。仕事をしながら魔眼を使っているのだ。

 ゴミが入って目が開けづらいという形にしてごまかしつつ、どう動き、指示を出しているかを見ていく。

 すると、何かを察知したのか斎藤が浴室に応援に来てくれた。


「僕、手伝い入ります。吉川さんはご利用者さん呼びに行ってください。牟田さんと魔女さんは浴室内を頼みます。」


「「わかりました。」」


 しっかりと仕事をしているが、自分の事にのめり込んでいたことに気づく吉川と牟田。ここが悪い所だ、変えていかないと。再確認をしながら巻き返しにかかる。


 一方で魔女の右眼を見た斎藤が驚き、今日の看護師(林さん五十歳女性)が駆け込んでくる。


「どうしたのッ!?」


「あぁ、ゴミが入ってしまいまして。少し開けづらいだけなので。」


 そう言って看護師の林を遠ざけようと試みるが、彼女は一向に離れない。

 どうやってやり過ごすか、と困り果てる魔女。早業で魔眼を落ち着かせ、ゆっくりと開いて見せる。


「真っ赤じゃない。それにかなり疲れているし。」


「こればっかりは。休めば治る。」


 看護師の林は他の利用者の入浴後の処置をしながら少しイライラしているのか、表情が暗かった。魔女は何か悪いことを言っただろうかと一瞬思った。


「これだから自己犠牲強めは。」


 そう言いながら魔女に温めたタオルを使ってリラックスする方法を教えていく。


「なんでそう自分を犠牲にしてまで動き回るのよ。身体を休ませ、心を躍らせる事をしなさいよ。

 あなた恋はしないの?恋は?」


「なんであんな面倒なものをしなければならないのか?」


 魔女はさらっと言ってくる。それを聞いた看護師の林は驚きつつ、利用者を呼びに戻った吉川と牟田、斎藤はこれを聞いて爆笑してしまう。


 そう、これが魔女さんなのだ。自他共に厳しいが助けるときは助ける。怒るときは怒る。

 でも感情表現が下手で、何を伝えたいのかを汲み取るまで時間がかかるのが難点だ。

 あとは凄い好奇心旺盛で、知らないことを学ぶことが趣味のような人と言っていいかもしれない。


「あぁ美人さんなのに勿体ない。でも人生これからだからね。」


 フフフッと微笑みながらも何か吹っ切れた様子の看護師の林を見て、斎藤も微笑んでしまう。


 魔女の眼を処置しつつ、無理のないように動くことと念押しする看護師の林。それを楽しそうに聞く斎藤に少し機嫌を悪くしながら、彼女たちは女性陣の入浴を済ましたのだった。


「本当怒涛過ぎる。」


 ゼハゼハ息切れしながら、牟田は地面に座り込む。そう、本当に今日は作業量が多く、普段休みの人が出勤して営業している不慣れな環境だ。

 利用者も職員も疲れ切っている。


「いつも出勤する曜日じゃないと段取りとか分かりづらくて仕事に慣れるまで時間かかるものね。」


 デイサービスでは各曜日によって利用者が違い、雰囲気や色が全く違う。例えば月曜日は和気あいあいとしているが、火曜日は反対に物静かな人が多い。


 入浴の時も薬塗布がある人が多い曜日、全くない曜日等様々ある。


『どこで』『何を』『誰に』『いつ』と利用者一人ひとりの行動を把握しないといけない。利用者の名前と顔の把握、情報把握が大切になるが結構難しい。


「そうですね。でも慣れてしまえばこっちのものです!!」


 と牟田は意気込み、ゆっくりと立ち上がる。次は男性陣だ。数分の休憩を挟み、彼女らは動き出した。


「男性の方、お待たせいたしました。順番にお呼びいたします。よろしくお願いいたします。」


 吉川、牟田が率先して動き出す一方で魔女と斎藤は入浴する方々の準備を再度整える。座りながら着替えができるようにバスタオルを椅子にひいているか、着替え等が入っているバックは籠の中にあるか等を入念にチェックし、男性陣を出迎えたのだった。



 入浴介助が男性になる頃、時間は昼の十一時。昼食までのタイムリミットは残り一時間だ。

 そんな時、職員用玄関から小柄な男性がデイサービスの中に入室する。彼は更衣室に行かずに、休憩室へと向かった。てきぱきと手際よく着替えを終え、フロアに出る。


「あッ。」


 と相談員の久保田は着替えを終えた男性職員を見て言う。大事なことを他の職員に伝え忘れていたようだ。


「春川さん、伊達さん。」


 そう言って相談員の久保田は湯呑みやテーブル拭き等をしていた彼女らを呼び止める。


「伝え忘れてしまい申し訳ないのだけど、今日伊達さん外せない用事があるみたいで、業務時間を繰り上げて今日掃除をする事になりました。十一時から最長十三時頃までになります。」


 久保田は二人に謝りながら、送迎後の残りの掃除業務が増えるからと付け足す。

用事の関係で、掃除担当の伊達さんがいつもしている掃除業務の一部ができない。そのため送迎後に今日いる職員で残りの掃除を行う事になったのだ。


 朝礼の際にそれを伝える事になっていたが、他の事でいっぱいで町田所長が全体に伝え忘れてしまったようだ。

「私も手伝いますので、よろしくお願いいたします。」


「……わかりました。」


 春川がムッとした表情を浮かべた後、大きく溜息をしてから了承する。パートの身分の癖にどこまで大きな態度で接するのかと呆れてしまう。


久保田は二人に伝えた後、入浴介助をしている牟田・吉川・魔女・斎藤に伝えにいく。彼女は行動が早く、仕事ができる人だ。子どもも大学生でバリバリ働けると嬉しそうに話していた。

 ただ彼女は自他ともに厳しい人でもあるため、言葉遣い等を注意する。口酸っぱく言う人なので、職員たちの中で好き嫌いが激しい。

 仕事中の魔女には厳しく接するが、プライベートでは魔女と仲良く交流している。

 クソ真面目で厳しいが、オンとオフがしっかりしている頼れる存在だ。


 すると掃除担当の伊達は春川と上沢に向けて頭を下げ、仕事を増やしてしまったことを謝罪する。

 また、彼は掃除道具を持って久保田と同じく浴室へと向かう。

 他の職員にも謝罪をしに行ったのだ。


 その様子を見届けた後、上沢はそそくさとテーブル拭きをしに戻る。一方で春川は浴室方面を睨み、上沢が拭いたテーブルを確認する。

 そして彼女は不機嫌そうに言った。


「ねえ、ここまだ汚れているのだけど?」


 綺麗になったテーブルを再度見て言っている。もう驚きが隠せない。どこに目が付いているのかと考えてしまうが、ここは逆らわずに行こうと決める。上沢は布巾を洗い流し再度テーブルを拭いたのだった。

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魔女、介護士になる!? くーらん @sumire9ran

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