陣貝教授の怪異解剖学

焼き加減

「うわぁ……失敗したぁ……」

朝の木漏れ日が射すキッチン、それに似つかわしくない焦げた香りが漂う。僕はトースターを覗き込み、爽やかな雰囲気を台無しにしてしまったと溜息を吐く。折角の休日なのに幸先が悪い。

「おや。弓弦くんは、ヴェリー・ウェルダンがタイプだったのかい？」

「うぅ……違います。失敗しただけです」

無惨な姿になってしまったトーストを２枚皿に乗せ、リビングのダイニングテーブルに腰かける。するとソファーに座っている陣貝教授が、新聞紙から顔を上げた。心底不思議そうに菫色の瞳を瞬かせる彼が何故、僕の家に居るのかは議論するだけ無駄である。僕は投げやりに黒焦げトーストを掴んだ。

「いけないよ。焦げた部分には発がん性物質が含まれている」

「あ、僕の朝食！」

僕の手からトーストと皿が消え、２枚のトーストは教授の口に収まった。トーストの失敗は僕の責任だが、貴重な朝のエネルギー補給を邪魔するのは如何なものかと訴える。

「こちらを食べなさい」

「……はい」

立ち上がろうとした僕に、代わりの皿が差し出される。皿の上には新鮮なサラダにベーコン、半熟卵と程よく焼き目の付いたパンが乗っている。相変わらず教授は料理上手だ。焦げたトーストと目の前の美味しそうな朝食なら、選択すべきは後者である。僕はフォークを手に取った。

「今のうちにしか、食べることが出来ないからね」

「……え？」

教授はテーブルの上に新聞を置く。そこには『焼死体発見』という記事が在り、僕のスマホの着信音が鳴り響いた。

〇

「うぅ……うへぇ……」

　警察の規制が敷かれたテープを超え、河川敷で僕はハンカチで口を覆う。朝はパンの焦げた臭いで、昼は肉の焦げる臭いに悩まされている。如何やら、今日は臭いに関係することで悩まされる日のようだ。上司から休日出勤として呼び出され、踏んだり蹴ったりの日である。

「大丈夫かい？　弓弦くん？」

「だ……大丈夫です……。えっと……被害者の身元は不明。遺体の損傷が激しく詳しい死因は不明ですが、恐らく焼死だそうです。遺体以外、地面及び草木に燃えた形跡はありません」

　気遣うように声をかけてくれるが、教授の目線は焼死体を向いている。髪と同じ色のシルバーのダブルスーツを颯爽と着こなす彼と、死体という異様な空間である。僕は刑事でありながら、死体が苦手だ。顔を逸らしたまま、スマホに送られてきた報告書を読み上げる。

現場を見れば分かるだけの情報に、眉を顰めるが何時も通りだ。『何も』分からないから、陣貝教授が捜査協力者として呼ばれたのである。僕は彼の担当刑事であり、おまけのようなものだ。

「ヴェリー・ウェルダンだね」

「食べてないでくださいね？」

ブルーシートで囲まれているからとはいえ、不謹慎な感想を口にする彼に釘を指す。彼が不謹慎や非常識な発言には慣れているが、本音か冗談かどうかは分からないからだ。

「嫌だな、私はブルー・レアが好みだよ」

「そういう問題じゃありません。目が輝いていますよ？」

　立ち上がり振り向いた教授の目は、好奇心旺盛な子どものように輝いている。嫌な予感がする。教授の気持ちが高揚している際は碌なことがないのだ。

「私は残飯に手を付ける程、食事には困っていないからね」

「……え？　ということは……犯人は教授の分野ですか？　警戒を促す必要は……」

不謹慎な言葉を重ねる教授は確信を得た顔をしている。教授の分野は危険が伴う。周辺住民の避難が必要になる可能性もある。上司に緊急連絡を出来るようにスマホを構えた。

「嗚呼、それなら大丈夫。犯人は此処に居るよ」

「え？　えぇ？　は、犯人は現場に戻るとか本当だったのですか？」

穏やかな笑みを浮かべた彼は、コルク栓のされた試験管を振る。硝子の中で黒い塊が揺れた。動く気配はなく危険性が低いと判断し、スマホをスーツの上着に仕舞う。まさか犯人が現場に戻るとは予想外だ。

「ん？　戻るというか、この場合はこの犯人がドジだったということだよ。偶にあることだよ？」

「……え？　いや……そんな……」

世間話をするかのように話す陣貝教授に、瞠目する。相変わらずの無神経さと、優秀さだ。犯人が捕まっていることに安堵しようにも、この後のことを思うと頭が痛くなる。

「『講義』は私の研究室で行おう」

「はい……」

ブルーシートから出る教授の背を追いかけた。

〇

「ようこそ我が怪異解剖学へ！」

「はぁ……設備は整っているようですが、相変わらす学生は居ないようですね」

年季の入った大講義室に、両腕を広げた教授の声が響く。桃京大学の敷地内の外れにある、煉瓦造りの特別棟。そこが陣貝教授の研究室だ。一棟全てを研究室として与えられる破格の待遇に、彼の必要性と優秀さを物語っている。

しかし何度訪れても、この建物からは人間の気配がしない。

「はは、仕方がないよ。『普通の人』に『怪異』は認識されないからね。私の学問は学ぶ人を選ぶのさ」

「はぁぁ……。それで今回の犯人である『怪異』についての『講義』をお願いします」

　特に気にした様子もなく教授は笑いながら、忙しなく講義室内を動き回りマホガニー材の教壇に資料を片付けていく。本来学生達が使用する座席には、夥しい量の本と研究道具やダンボール箱が置かれている。

木の床の上にも、本が無造作に積まれているのを避けながら歩く。そして唯一、机と椅子がある教壇の前に辿り着き腰かけた。これが彼の『講義』を聞くスタイルである。

「今回のテーマは『火』だね。一般的に知られている『蚊』と姿形は同じな『怪異』さ」

「では、その黒い塊が『火』ですか？」

　今回の事件の犯人は、やはり『怪異』であった。教授は試験管を揺らすと、コルク栓を開ける。そして中身をピンセットで取り出すと、『火』の死骸にメスを入れた。

「そうだよ。一番気になるだろう、『火』が消し炭になっていることだけど……それは特性故に、食事に失敗したからだね。ほら、『蚊』とは違って血を吸う口の横に、赤い塊があるだろう？　これが『火袋』と呼ばれて炎を生み出す器官だよ」

「なるほど……火を吐いて、被害者を捕食しようとしたが自身も燃えてしまった？」

　消し炭になった黒い塊が、綺麗に半分に切り開かれる。するとルビーのように光る小さな塊が見えた。『蚊』と同じ大きさながら、人を炭に変えてしまう火力を持つことに『怪異』が危険な生き物であることを痛感する。

「惜しいね。一般的な『蚊』と同じく、血を吸う生き物だよ。でも違うことが二点あって、焼き具合をブルーにして全身の血液を吸い上げることだね。若い『火』は時々、火力を間違えて獲物と自身を燃やしてしまうのさ、ドジだろう？」

「ブルー、限りなく生に近い状態ですね。それは軽く動きを止めている間に、毛細血管をはじめ全身の血液も吸い上げる為ですか？」

　ピンセットで摘まんだ『火』を眺め、笑いながら語る。『怪異』は色々と尺度や考えのスケールが違うということは理解しているが、ドジというのは初めてだ。

「正解！　人間の血液は体重の約13分の１だから、体重50キロの人なら約4リットル弱ぐらいだね。因みに吸血した『火』を標本にすることに成功した物があるけど、解剖してみる？　４、５リットルの血が出てくるけど？」

「いや……いいです。ご協力ありがとうございました。陣貝教授。僕はこれから、署の方に報告に行ってきます」

　教授は目を輝かせ、意気揚々とメスを握る。万が一にでも提案に頷けば、血の海を見る羽目になるだろう。血の臭いは大の苦手である。それは何とも避けたい事態だ。僕は急ぎ席から立つ、『講義』終了の合図である。

「そうかい？　お茶も出せず済まないね」

「お構いなく、では教授。失礼します」

眉を下げる教授に、軽く会釈をして部屋を後にした。日が傾き始めているが早く報告書を提出することが出来れば、夜はゆっくり休むことが出来る。そう思い、足を動かした。

〇

「やあ、お帰り。弓弦くん」

「……っ、え？　はい、ただいまです」

　報告書を提出し星が見え始める頃に帰宅すると、陣貝教授がリビングで焼肉をしていた。教授が僕の家に不法侵入するのは、何時ものことで諦めている。防犯装置や頑丈な鍵は、ただ彼の暇つぶしの道具にしかならないからだ。

僕が驚いたのは、焼肉をしていることについてである。彼には料理に関して美学があるようで、料理中を見られるのを好まないからだ。

「私なりの労い方だよ。弓弦くんは理解力もあり、良い『学生』だ」

「僕は刑事ですよ」

　ダイニングテーブルの席に着くと、肉を焼く教授の菫色の瞳に僕が映る。僕は彼が求めている『学生』ではない。線引きを明確にする。

「それでも……相手がいなければ『講義』は出来ないからね。感謝の印だよ」

「……『怪異』の肉だったりしませんよね？　解剖した残骸的な……」

　笑みを湛えた彼は、トングで焼けた肉を僕の皿に乗せていく。彼が感謝という言葉を知っている上に、それを口にするとは驚きである。しかし彼がこうも素直であると、疑わしく思えてしまうのは刑事だからだろうか。

「おや、そっちが好みだったかい？　私が捌いてもいいけど、手に入る『怪異』はランダムだからね。今度、専門店に行こう！」

「捌かないでください、それに行きません！　頂きます！」

　肉を注意深く観察していると、肉のパックが目に入る。国産ブランド牛であることが分かり、僕は箸を手にした。

「ふふっ、あのヴェリー・ウェルダンくんも、このお肉たちみたく美味しく食べて貰えたら良かったのにね」

「……うぐっ、え？　あの炭みたいなの食べる『怪異』が居るのですか？」

　流石は国産ブランド牛と舌鼓を打っていると、教授は不謹慎な発言をした。思わず咽ると水の入ったコップを差し出してくれるが、その気遣いを会話に活かして貰いたい。『怪異』というものはどこにでも湧くようだ。

「まあね、『怪異』にも味覚や趣向はそれぞれだからね。人間と『怪異』の違いといえば。発がん性物質になりうるものを摂取しても、癌にならないという点かな？」

「教授と同じで？」

「そう、君と違ってね」

　焦げてしまった肉を教授は口に含み、僕は丁度いい焼き加減の肉を口にした。