夢路を辿りて、狭間。

 「旅が始まる」と御師様おしさまは仰るものの、その後数日は何事もなく過ぎていった。

 ただ、御師様は商品を仕入れてくることをやめた。今まで仕入れたものは店の前に箱に入れて「無料。お好きにお持ちください」とだけ書いて置きっぱなしにした。

 たまに来ている日雇い先の一人娘が御師様に理由を聞いたので、御師様が「近々いなくなるからねえ」と答えた。すると一人娘がひどく衝撃を受けた顔をしていた。


 次の日、その娘の店に仕事に行くと、娘と店主にこの店で暮らさないか、と提案された。もし良ければ娘婿として、と。

「君は日雇いの形でしか働かなかったけれど、この店の仕事は全てやってくれた。この数年で儂の次にこの店に詳しくなった。娘も君を憎からず思っている」

 旅を始めたころと比べ、わたくしもすっかり背が伸びた。仕事は肉体労働も多く、生まれ故郷にいた頃よりも食料に困ることもなく、棒のように細かった体に厚みがついた。

 私の今の歳に近い者が結婚したり、子を持つことも珍しいことではない。

 この大きな店で暮らせば、生まれ故郷のように食うに困ることもない。

 それに、店の娘の事も決して嫌いではない。


 しかし、私は決めたのだ。御師様の故郷へ行くと。

 固く首を横に振った私を見て、店の娘はうつむきながら店の奥へ走っていった。

 店主に今日は帰るよう促され、帰路につくことになった。「気が変わったらいつでも教えてほしい」と帰り際に声をかけられた。


 いつもの時間よりはるかに早く家に戻った。

 御師様が裏庭でしゃがみこんで小川を覗いておられた。それは別に珍しいことではない。裏庭が御師様はたいそうお気に入りで、裏庭の雑草取りや小川のくぼみにたまった土を取り出す時以外も、よく小川の流れを見るともなく眺めていた。

「ただいま帰りました」

 そう言いながら、御師様の隣にしゃがみ、私も小川を眺める。

「ずいぶん早かったねえ。店の娘との結婚の話は断ったのかい?」

 御師様は流れを見つめ続けながら、こともなげに先ほどあったことを言い当てた。

「当たり前です」

 小川は御師様の整地のおかげか小魚が泳いできたり、沢ガニがくぼみに何かをついばみに来るようになった。

 小川の流れを注視して生き物を探しながら、私も答えた。

「もったいないねえ」

 御師様は立ち上がってぐっと伸びをした。この数年で背が伸びたとはいえ、御師様のすらりとした長身には私の背は届かないままだった。


「これまでに何度も聞いたが、本当に行くのかね」

「これまでに何度も答えましたが、本当に行きます」

 このやりとりはこの数年で何度もした。

「これが止められる最後の機会だよ」

「やっと最後ですか」

 御師様は長い長い溜息をつかれてから、仰った。

「昼寝をしてきなさい」


「それが旅立ちになる」


 違和感に気づいたのは、夢も見ない午睡から目が覚めて立ち上がった時だった。

 十年過ぎたはずの自分の姿が、御師様と会ったばかりの頃の、痩せた少年に戻っていた。

「ああ、やはり渡れてしまったか」

 御師様が憔悴した様子で私を見る。御師様の姿はほぼ変わっていないが、髪と瞳と肌の色が明るくなっていた。巨木に埋まっていた頃のお姿は確かこうだったと思い出す。このお方も十年の間に日焼けをしていたのか。


「私たちの姿だけではないよ、ほら」

 御師様が本を指さす。この十年で何度も読んだその本を開くと、私が今まで読み書きしていた文字が変わっていた。

 細かな違いがあるものの、一番の違いは各文字を構成する直線が増えていることだ。そして直線を増やすことが、同じ文字を2,3回繰り返すという意味になっている。

 例えば「いい」と書きたかったら「lい」と書けばいいのだ。そしてそういうことが直感的になぜか分かる。


「ここは夢の中。様々な条件がそろうと、今日、この時間に眠っている人が全く同じ夢を見る」

 御師様が語る。私に何かを教えてくださるのはほぼこれが初めてのことだった。

「夢の世界だから、君たちの世界と色々違う。だが君達の世界の人が見る夢だから、元の世界とかなり似ている」

 御師様に促され、外に出ると、何人かが歩いていた。あらゆるものが何となくいびつだが妙に見覚えがある。

 そうだ、御師様の仕入れていた商品だ。御師様は夢の中から売り物を仕入れていたのか。


「この人達は昼寝が終わればこの世界から出ていく。ほら、ご覧」

 御師様が語られている間にも人々がすっすっと消えていく。皆夢からさめているのだ。

「しかし、僕たちはもう戻れない。この夢の中をずっと留まる。そういう場所を選んで今まで住んできた」

 なるほど、私たちの住んでいた家が両隣の家から大分離されて建てられていた理由が分かった。おそらく昔、この夢の中から帰れなくなった人がいたのだろう。


「ここにずっと留まりながら、更に君達のいた世界から離れる場所、僕の故郷に近づける場所を探して、そこへ移動する。長く、退屈で途方もない時間をかけながら」

「僕の故郷は君たちから見たら、いわゆる『異界』になる。そしてここは異界と、君達の世界の合間のうちの一つ。世界とも呼べない、あらゆるものが、おぼろであいまいな場所。僕は『世界の狭間』と呼んでいる。世界の狭間から世界の狭間へ移動し、最後は異界に行く」

「世界の狭間を渡るたびに色々なものがどんどん変わっていくよ。住民が、環境が、自分の姿や立場が、概念が」

「この狭間に留まりたいのなら、僕は止めない。変わるものに耐えられず心を壊しても、置いていく。君達の世界が恋しくなって帰りたくなっても、置いていく。もし」


「御師様」

 珍しく言葉を重ねる御師様を止めて、今まで一番言いたかったことを口にする。

「私が現世でも幸せに暮らせるように、幾つも機会を作って下さって、ありがとうございました」

 過酷で途方もない、確かなものもない旅路だから。

 しかし身寄りもなく自分しか知った者がおらず、すがりついてきたから。

 だから御師様は、私を色々な人に出会わせ、様々な場所を歩かせ、働かせたのだ。異界の事も自分のことも忘れて、幸せになれるように。


 御師様はぐっと口を結んで、背を向けてスタスタと歩き始めた。

「もういい。ついてきなさい」

 声がにじんでいる。

「世界の狭間を渡った時、離れ離れになることもある。その時はまず僕と合流するように。家の裏の小川があっただろう。あの小川は特別なものだ。多分殆どの狭間で流れている。だからまずは小川を探しなさい。僕も小川を探すから」


 こうして僕は、御師様の隣を歩き始めたのだ。

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御師様ト異界ヲ臨ム ゲコさん。 @geko0320

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