落下橋
武燈ラテ
落下橋
宙を鉄が走る。水色に塗られ、複雑な形に組まれた鉄は、その上にある重く沈んだ空に、でたらめにひび割れを作っているかのようだ。
自転車を漕ぐ私の足は重い。坂の上まではまだ充分ある。だのにペダルは固くて、渾身の力で踏み込んでももうびくともしない。
私は諦めて自転車を降りた。私のかぶった暗い色のニット帽には、雨の水滴が落ち始めた。顔を横に向けると、私の立っている場所から数メートルほど下にある澱んだ水面は、突然の灰色の液滴に対し、さざめき、波紋をいくつも生んでは消していた。遠くの海からの風は、川面を高速道路がわりにし、ざあっと吹き抜けて行った。
広い川だ。この自転車に乗ってでもいける距離にもう海があるのだから、きっと水は塩の味が混じっているだろう。雑多な微生物やヘドロも混じり、茶色なのか緑なのかもわからない複雑な色をしている。今日はいつもよりも特に濁っていて、水面より下は全く見通せない。その水面は、風に煽られているからか、それとも繋がっている海につられているからか、まるで波のようにゆらゆらと、大きくうねっている。
私は自転車を押しながら歩き、人工の坂の天辺まできた。川の真ん中まできた。大きく左右を見渡した。誰もいなかった。
私は欄干から身を乗り出した。水をもっとよく見ようとした。
子供の頃のことだが、私はこの川に鞄を落としたことがある。革の学生鞄はゆらゆらと揺れながら、蓋が開き、徐々に中身である教科書や筆箱などを吐き出し、次第に沈んでいった。学生生活の只中に、それを構成する重要なものたちが、あっという間に台無しになり消えていった。
鞄ではなく私が落ちたらどうなるのだろうと、私はあれからよく考える。
今日はコートを着ているから、きっと水を吸ってとても重くなるのだろう。すぐに身動きもままならなくなるに違いない。あの汚く臭い水を、腹いっぱいに飲み下すことになるだろう。咳き込み、鼻水も出て、涙も流し、みっともなく苦しむのだろう。そのうち上下もわからなくなり、もがきにもがいて、悶え、永遠のような数分間を経過した後、意識を失い、そのまま沈んでいくのだろうか。
私はドキドキする。私は消えてしまいたい。何もかもここに投げ出して、捨て置いて、水の中に飛び込んでしまいたい。
この橋の上に来ると私はいつも、沈む私の妄想でいっぱいになる。浮かぶイメージは嗜癖のように繰り返し繰り返ししゃぶり尽くされたものだ。今や熟練の域にもある。それはまるで、教会の中の魅力的な一枚の絵に取り憑かれ、辛いことがあるたびにそれを見にくる、あの物語の中の子供のようだ。
今日はいつもと違った。風が強かった。いつもなら通り過ぎるだけの橋の上で、私はかぶっていたニット帽を飛ばされてしまった。
ニット帽はまるで紙のようにくるくると回転し、あっけなく川に落ちた。しばらくの間は水の上を軽快に転がり、そのうち止まった。ゆらゆらと大きく揺らされても、ウールは水を弾くからか、しぶとく水面にへばりついて抵抗していた。だが私の見守る前で徐々に沈みはじめ、陥落しはじめればまるで潔いくらいにあっさりと、水面下に消えていった。そうすれば辺りは簡単に、何事もなかったように、元どおりの光景が戻った。
私は胸を躍らせた。着ているものや、持っているもの、一つずつ投げ入れてしまいたい衝動に駆られた。ありったけのものを片っ端から水の底に沈めてしまいたくなった。最後には私自身も投げ捨てて、すっきりしてしまいたい。そんな情熱に熱狂した。
無我夢中に、興奮のるつぼに身を任せ、まずはコートに手をかけた。一枚ずつ投げ捨てるたびに川面はいくらでもそれを受け入れたし、不思議と寒さは感じなかった。私は空も飛べそうに身軽になった。
そう、空も飛べそうだ。
私は欄干から身を躍らせた。この身の内にいっぱいの自由を吸い込んだ。
落下橋 武燈ラテ @mutorate
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