迫るその時間
三鹿ショート
迫るその時間
鏡で自分の姿を目にしたとき、幻でも見ているのかと考えた。
だが、何度見ても、私の肩に骨の手が置かれていることに変わりはなかった。
最近の激務による疲労で脳が壊れてしまったのだろうか。
しかし、休もうにも会社が許してくれるわけがない。
溜息を吐きながら外へ出ると、私は目を疑った。
私以外の人間にも、骨の手が纏わり付いていたからだ。
だが、手の位置は、人によって異なっていた。
膝や腹部など様々であるものの、私のように肩に存在している人間は皆無だった。
一体、これは何を意味しているのだろうか。
その疑問が解決したのは、多忙によって精神に異常を来した同僚の女性が窓を開けた瞬間だった。
飛び降りる寸前の彼女の頭部には、骨の手が存在していた。
そして、地面に赤い花を咲かせた彼女からその手が消えていたことから、おそらくどれほど死が近付いているのかを示しているのだろう。
頭部に骨の手が到達したときには手遅れであり、その人間がこの世から去れば、手は姿を消すのだ。
だからこそ、私は恐怖を覚えた。
骨の手が肩に存在しているということは、私の死も近いのではないか。
このまま忙殺の日々を過ごせば、飛び降りた彼女の跡を追う可能性が高い。
私は会社に何も告げず、逃げ出すことにした。
逃亡生活を開始した翌日には、骨の手が膝まで移動していたことから、私の選択は正しかったといえるだろう。
***
会社から逃げ出して以来、私は骨の手の位置を気にする生活を続けていた。
もしも選んだ道が間違っていれば、骨の手は私の頭部へと近付いて行く。
ゆえに、私が歩むべき道は明確ではないものの、死が近付く道を避けることは可能だったのだ。
その影響で、私は職場を転々とし、友人や恋人も慎重に選ぶようになった。
忙殺されていた頃のように疲労に悩まされるようになったが、生命が奪われるよりは良いことである。
***
何時しか、どの道を選んだとしても、骨の手は私の首に位置するようになってしまった。
もしや何らかの病魔が潜んでいるのではないかと病院へ向かったが、私の身体は健康だった。
それならば、何故骨の手は私の首に存在し続けているのだろうか。
やがて、自身の顔を見る度に、精神を蝕まれているような感覚に陥るようになってしまった。
そこで、私は骨の手を目にしなければ良いのだと気が付いた。
何をしたところで骨の手の場所が変化しないのならば、見ることができないようにすれば、悩むこともないだろう。
私は病院の前で大声を発し、周囲の注目を集めると、手にしていた刃物を眼窩に突っ込んだ。
激痛に襲われるが、仕方の無いことである。
人々の悲鳴が聞こえたが、それがより大きいものと化したのは、私が取り出した眼球を踏み潰したためだろう。
これで私は、二度と光を感ずることが不可能となったが、死の恐怖に怯えるよりは良い。
***
しかし、問題は再び起こった。
視力を失ったことで骨の手を目にすることは無くなったと思いきや、誰のものとも分からぬ低い声が聞こえるようになったのだ。
意味の無い言葉だと思っていたが、よく聞いてみると、人間が経験する可能性のあるあらゆる死に方を延々と述べていたのである。
それは骨の手よりも、私を追い詰めた。
だからこそ、私は刃物を手にすると、己の耳を切り落とし、さらに耳の中へと薬品を流し込んだのである。
下手するとこの行為によって生命活動が終焉を迎えるところだったが、私は生きていた。
見ることも聞くことも不可能となったが、それでも構わなかった。
***
だが、それからも他の五感を刺激する出来事が起こり続けた。
常に異臭を感じ取るようになり、何も口に入れていないにも関わらず鉄の味を覚えるようになり、何者かが私に触れ続けていたのである。
ゆえに、私は五感を全て消していった。
その結果、私は自分に死がどれほど近付いているのかを知ることがなくなった。
もはや、何も恐れることはないのである。
笑おうとしたとき、私は己が笑うことができないような状況であることに気が付いた。
思考することは可能だが、それ以外に、私は何も感ずることがないのだ。
美しいものを目にすることもなく、素晴らしい歌声を耳にすることもなく、美味なる料理の匂いを嗅ぐことも味わうこともできず、柔らかな人肌に触れることも叶わない。
このような人間が、果たして生きていると言うことができるのだろうか。
言えるわけがない。
このような事態に至ることが分かっていたのならば、骨の手の位置を目にしながらも、残りの人生を目一杯に楽しむことも出来たのではないだろうか。
むしろ、その方が、人間らしい生き方ではないか。
私は、選択を誤ってしまったのである。
しかし、今となっては、己の意志で己の生命活動を終えることも出来ない。
依頼しようにも、近くに他者が存在しているかどうかも分からない。
起きているのか、倒れているのかも分からないまま、私は何時終わるか分からない人生を過ごすことになった。
これが幸福ではないことなど、愚か者でも分かることである。
迫るその時間 三鹿ショート @mijikashort
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