裏
「ああ、またこんなに散らかして」
年若き
あざやかな紅色の翼を畳みながら、
「仕方のない子ね、まったく」
ちっともそうは思っていない、弾んだ声音が響く。周囲をぐるりと見回し、女王は満足げに頷いた。
最近できたばかりの『息子』は、どうも後片付けが苦手らしい。気の向くままに暴れて、満足したらそれっきり。掃除を任せる部下からは幾度も苦言を呈されているが、今のところ対処する予定はまったくなかった。
何故って、そんなのは決まっている。こんなにも可愛い工作を、どうして咎めることができようか?
剪定された
そして、綺麗に分けられた人間の骨と皮と肉の山。
『息子』に付けていた侍従長いわく、昨夜は
最初は嫌がっていたものを、ここまで成長してくれたのは純粋に喜ばしい。大事にしまい込んでおくつもりだったが、こうなるといっそ共に前線へ出るのも一興だろうか。
すっかり上機嫌になった女王は、庭の隅へと視線を向けた。
当の本人──『息子』は、生け垣の脇にうずくまって震えている。女王の倍はあるはずの上背はどこへやら、いまや
「イジクス。
普段なら微笑んで近寄ってくるものを、今日に限って返事がない。遊び回った余韻で気持ちが昂ぶっているのだろうか。これが部下であれば即座に骨も残さず握り潰していたが、いざ我が子となると、腹立たしさより心配の方が先に立つ。まったく母親とは不思議なものだ、と他人事のように考えた。
踊るような軽い足取りで、青年のもとに歩を進める。
「どうしたの? もし怪我したなら見せなさいな、早く手当てをしないと」
栗色の髪を撫でようと伸ばした手は、しかし次の瞬間に叩き落とされた。
「私に触るなァッ!」
こちらを憎々しげに見上げる瞳は、美しい紺碧。一抹の怯えをはらんで揺れるその色彩に、おや、と女王は小首をかしげた。
────目の奥に、正気の光がある。
極北の深海をひとかけら切り取り、閉じ込めたような青色は、
我らの女王は美しいものに目がない、とは臣下一同口を揃えて言うところである。それは、かの高名な『剣太子』イジクスを捕らえたときも例外ではなかった。
まっすぐな彼の心を丁寧に磨り潰し、掻き回して、喉を枯らすほどの悲鳴を聞きながら信念も記憶もドロドロに融解させる。本来なら、その過程で血よりも深い
「だって、こんなに綺麗なんだもの。もったいないじゃない」
そう言って唇をとがらせる女王に、逆らえる者などいるはずもない。
かくて若き英雄は外見以外の総てを喪い、めでたく魔性の群れに堕ちた。人間だった頃の記憶どころか、そもそも人間という自認すら怪しいほどに壊れた青年は、放っておけば日がな一日痴愚のように呆けている。
そのくせ、ひとたび頭を撫でられると赤子のようにいとけなく笑うのだから、女王はいよいよ彼を可愛がるのだった。少なくとも彼女の記憶の中では、『息子』はそういう生き物に成り果てているはずだったが。
「どうしたの、そんな怖い顔をして」
「黙れ、それ以上口を開くな!
人間の使う蔑称が、青年の唇からこぼれ落ちる。頭に血が上ったのだろう、瞳の紺碧に赤みが差し、わずかに紫がかって見える。ほんの僅かな刺激でくるくると様相を変える、
即席の施術ゆえに綻びがあったのか、それとも自らの意志で振りきったのか。迷うところではあるが、ああ、今はそんなことどうでもいい。
若く美しい、輝ける剣の英雄よ。戦場で一目見たときから、お前が欲しくて堪らなかった。従順な家畜も嫌いではないが、手懐けるなら猛獣に限る。
────やっぱり、お前を捕まえてよかった!
怒りに燃える双眸をうっとりと眺めながら、女王は青年の両頬に手を添えた。
「こら。駄目よ、あまり乱暴な口を利いては。……でも今日は許してあげる、こんなに綺麗な飾り付けをしてくれたんだもの。母様、とっても嬉しいわ!」
人間だったものを見渡し、はしゃぎながら言い聞かせる。視線の先を追いかけた青年の顔からは、瞬く間に血の気が失せた。水気を含み、ゆらゆらと光を反射する目は、今度は透き通った浅瀬のごとくに印象を変える。
「あ、ああ、ごめ……ごめんなさい……!」
首を振って逃れようとする『息子』を、手に力を入れて押さえ込んだ。ゆるやかな拘束を引き剥がすべく、骨ばった手が女の手首を握りしめたが、白魚のような指はぴくりとも動かない。
どれほど鍛え抜こうとも、人間の身である限り、膂力は魔性の者に劣る。それがこの世界の不文律だった。
「どうして謝るの? あなたは何にも悪いことなんかしていないじゃない。悪いのは、攻めてきた奴らの方。そうでしょう、ね?」
涙をたたえた蒼玉が、その一言で決壊した。まなじりからこぼれた一条のしずくが、女王の指先を濡らす。
「ちがう、違う……私のせいで、私が……人間を、同族を……」
喉を不規則に揺らし、しゃくりあげる男。その両手も力を失い、ずるりと垂れ落ちる。女王がそれに気を取られた刹那、青年は小さな手を振りきって、顔を覆い嗚咽を漏らし始めた。
「もう、だからあなたのせいじゃないって言ってるでしょ。母様怒るわよ? いいの?」
返事の代わりに、首が横に振られた。鍛え上げられた図体に不釣り合いな、頑是ない幼児のごとき振る舞い。それはそれで可愛らしいのだが、女王はおおいに不満だった。
だって、そのままではせっかくの綺麗な目がよく見えないじゃないか。
「……仕方ないわね。それじゃあ、母様がとっておきの魔法を見せてあげる」
言うなり、黒衣の隙間から紅色の翼が飛び出した。動きを確かめるように小さく何度かはためいた後、虚空を音が出るほどに強く殴りつける。
刹那、庭園を膨大な瘴気が包み込んだ。おぞましい気配に思わず顔を上げた青年を、女王は見逃さない。
「はい、つかまえた」
ほっそりとした腕が、蛇のように首へと巻き付いた。そのまま身体を捻り、横抱きにされるような格好で青年の膝に飛び込む。ついでに頰を擦り寄せるようにして頭を抑え込めば、青年の顔は正面を向いた状態で固定されてしまった。
「母様もあなたの活躍が見たかったし、ちょうどいいわ。一緒に鑑賞会をしましょう」
骨が繋がり、肉を纏い、その上から皮が巻き付いていく。残骸と化していたはずの人々が、庭園のあちらこちらで、次々に組み上げられる。
それはまるで、時間を巻き戻すかのように。
屍肉を操り、生者のごとくに振る舞わせる冒涜の業。死体の損壊を修復し、五体満足の姿に近づければ近づけるほど、生前の言動が高精度で再現される。
人間も魔性も等しく逃れ得ない摂理、命の法則に逆らうそれを、同族ですら厭悪し畏れた。気性の荒さで知られる
────そして、生前の『彼ら』は蘇った。
隊列を組んで庭園になだれ込む、かつて人間だったものたち。花を踏み荒らさないでほしいわ、と少女は不満げに頬を膨らませる。
「へえ、来たのは歩兵隊だったの。第3……いえ、第6かしら? 紋章が似てるのよね、わかりづらいったらもう」
女王の文句に、ふと青年は身じろいだ。
第6歩兵隊。その言葉を、自分はどこかで聞いたことがなかっただろうか。昨夜、忘我の縁で彼らを殺してしまうよりも前、ずっと昔のいつかの頃に。
もはや原型も定かではない、ぐずぐずに崩れた記憶の泥を必死に
よく見れば、どの兵士にも懐かしさを感じた。正気を取り戻してより後、一時も休まらなかった心がやわらかく暖まるほどに。めいめいが身に纏う鎧も、携えた剣や盾も、己の記憶を刺激し続けている。ただ、それが何なのかが分からない。
もどかしさに、喉の奥で小さく唸りを上げた。あと少し、もう少しで彼らのことを思い出せそうなのに。
それを知ってか知らずか。不意に声を上げた女王は、翼で一点を指し示した。
「見て! ほら、あの男。とっても驚いた顔してるわ」
十数歩ばかり離れたところに、髭面の男が立っていた。青年よりもいくらか年上らしい兵士は、ひどく混乱した面持ちで生前の動きをなぞり───こちらへと駆け寄ってくる。
青年の目が、大きく見開かれた。記憶の残骸から、ひとつの思い出が浮かび上がる。
初めて出会った時から、その剣士は立派な髭をたくわえていた。
幼い頃の数年間、剣の師として教えを仰いだ男がいた。皇子であっても遠慮なく、剣術の基礎を叩き込んでくれた彼は、しかし政争に巻き込まれて野に下ってしまう。
一人前の王族として成長した後、八方手を尽くして男を探し当てた時は、抱き合って再会を喜んだ。そこから必死に頼み込み、一兵卒として扱うことを条件に、自分の隊へ入ってもらったのだ。
────そうだ、第6歩兵隊は私の隊だった。
イジクスが、ようやくそれを思い出したのと。
『殿下、どうしてこんな……目を覚ましてください、イジクス様ッ! イ』
髭面の男の首が落ちたのは、ほとんど同じだった。
ごとん、と。
ひどく間の抜けた音が、こだました。呆気に取られる青年の顎を、白い指が優しく撫でていく。
「ふふ、母様は何にもしてないわよ。ただ、あれが自分の死因を思い出しただけ」
斬られた首の断面は、おそろしく整っていた。
たとえ正気を失い、魔性に堕すとも、『剣太子』の腕は冴え渡っている。言ってしまえば、単にそれだけの話だった。
そして、それはつまり。
「あ、ァ、あ………………!」
兄とも父とも違う、特別な存在だった。青年の腕が彼を超えた後も、変わらず師として慕い続けた相手だった。
自らの罪を突きつけられ、彼はとうとう絶叫した。
残骸に取りすがろうとするも、女王の身体が拘束具となって叶わない。ひとひらの肉片が落ちた拍子に、血溜まりが跳ね、叫び続ける青年の頬に赤い化粧を残した。
眼前では、相も変わらず数時間前の光景が再演され続けている。
『ああ……剣太子様!』
『イジクス殿下』
『なんてことをなさいます!』
『殿下』
『お、お助けください……』
『殿下』
『殿下!』
駆け寄ってくる者は、ことごとく両断された。逃げ惑う者も、また同じ運命を辿った。首と胴、右半身と左半身、上半身と下半身……ただ主を慕う一心で、ここまで来ただろう兵士たちが、他ならぬ主の手で切り裂かれてゆく。
そして絶命した者から順に、その場で再び屍肉に還った。水っぽい音を立てながら、骸の山はだんだんと高さを増していく。
酸鼻きわまる光景を心底つまらなそうに眺めながら、女王は青年の頬を撫でた。
「うん、やっぱりあなたは悪くないわよ。こんな剣幕で駆け寄って来られたら、誰だってびっくりしちゃうもの」
それにしても、と物憂げに嘆息する。
「こんなにすぐやられちゃうのは味気ないわよね。もう少し粘ってもらいたかったのに……今度王様にお手紙出そうかしら。もっと歯ごたえがないとウチの息子が困ります、って」
「……
青年が掠れた声で懇願したのは、まさにその時だった。
「頼む、お願いだ……彼らを解放してくれ……もう見たくない、こんなの……許されない……!」
どうか彼らを助けてほしい、と。
この事態を引き起こした当の本人に、心の底から救いを求める。ひどい矛盾にも気づかぬまま、まっすぐに向けられる蒼眼からは、滂沱の涙が溢れていた。そのひとつをぺろりと舐め取って、少女は嫣然と笑う。
「ねえ、覚えてる? これは、『あなたは悪くない』って証明するために見せているものだって」
栗色の頭が、素直にひとつ頷く。
「だから、私は『自分が悪くない』って言ってくれるまでやめるつもりはないわ。……なら、あなたはどうすればいいと思う?」
一瞬、目が泳いだ。
明らかに逡巡している。仁愛を備えた第3皇子、とかつて呼ばれていた生き物には、たとえ嘘であっても口にしがたい台詞だろう。
だが。
「……私が、それを言えば、彼らを死なせてくれるんだな?」
唇を引き結び、こわごわとこちらを見上げる青年に、女王は慈母さながらの笑みを浮かべた。
「もちろん。王たる者、約束はきちんと守るわ」
頭を撫でるように伸ばされた小さな手。それから逃れるように首をひねり、青年は眼前の光景を見やった。
何度か口を開閉させながら、荒い息を途切れ途切れに吐く。ややあって、俯きがちに固く目を閉じた。
「……『私は、悪くない』」
あまりにも小さく、絞り出すような一言。それを確かに聞き届け、女王は約束通り
ただし、部分的に。
かつての姿に近づければ近づけるほど、生前の言動が高精度で再現される。それが女王の権能だった。
裏を返せば、生前の姿から遠ざかるほどに、彼らの意志は薄れるということになる。真に女王の操り人形として生まれ変わり、死後もなお弄ばれる。
「おまえのせいだ」
青年は、弾かれたように顔を上げた。
顔や四肢、胸、腹……あちこちが崩れかかり、腐りかけた兵士たちが、ずらりと目の前に並んでいる。人とも呼べない姿に成り果て、仲間だったものの骸を踏みしだきながら、ぼんやりとイジクスを眺めている。
誰かの口が動いたのを機に、糾弾の叫びが連鎖した。
「おまえのせいだ」
「殿下のせいだ」
「死にたくなかったのに」
「家族に会いたかった」
「子供が生まれたんだ」
「好きな人だっていたんだ」
「なのに、あなたがいたから」
「父に会いたい」
「母に会いたい」
「家に帰りたい」
「でも、もう叶わない」
「あなたのせいだ」
「殿下のせいだ」
「剣太子様、どうして」
「どうして俺たちを殺したんです」
女王は、青年の横顔をじっと眺めていた。当然のことながら、彼女は兵士たちの事情など知る由もない。適当な屍体に適当に喋らせるだけの、実にお粗末な人形劇だったが、それでもこの『剣太子』には覿面に効いているようだった。
絶望に染まり、どろりと歪む眼は、みるみるうちに翳っていく。震える唇からは声にならない声が溢れ、太い喉からはひきつけのような音が断続的に漏れていた。
「ねえ」
そして、王は最後の一手を指す。
「『私は悪くない』って言った人殺し、だあれ?」
正気は、遂に決壊した。
「あ、ァ、」
青年は、とろりと笑った。
「……ふふ、あは、ひっく、ははは……」
泣きながら、哄笑していた。
ごめんなさいごめんなさい、と狂ったように繰り返し、頭をかきむしりながら、天を仰いでまた笑う。
少女はそっと翼を畳んだ。今度こそ
青年の膝に乗ったまま、泣きわめく頭を優しくかき抱いた。乱れてしまった硬い栗色の髪を手櫛でとかしつつ、指先でくるくるとつまんで遊ぶ。
「大丈夫よイジクス、母様はあなたの味方。あなたが人殺しでも構わないわ、私たちも同じだもの」
布に水を染み込ませるように、何度も優しく言い聞かせる。慈愛に満ちたその顔は、
「だから、さあ、目を見せてちょうだい。母様が何より大好きな、あなたの綺麗な両の眼を……」
膝から降りて立ち上がる瞬間、そっと指を当てた
この世でいっとう美しいと女王が認める瞳は、はたして変わらず瑞々しい美を保っていた。ただ、透徹とした紺碧はすっかり失せてしまっている。
代わりに、深い宵闇が広がっていた。見ているだけで吸い込まれそうな濃紺は、月も星も消えた夜を思わせる。
きっと、あの
何故なら、星のない夜更けは魔性の象徴。あらゆる獣が跳梁し、迷い込んだ人を食い殺すことがが許されている時間。そして古来より、
「私の宝物にぴったりじゃない、ねえ?」
そう、教え込むように囁けば。
力なく開かれていた唇は、かあさま、と声もなく動いた。
可愛い『息子』の再誕に、年若き
竜の宝玉 舶来おむすび @Smierch
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