最終話 ハチの望み


 静まり返った母屋の廊下を、私は這うように進んだ。

 雨に濡れた体を引きずり、治平と与助の元へ向かう。あらゆる物音が、外界の雨音に掻き消されているかのようだ。己の呼吸音だけが、耳元に纏わり付いていた。

 突き当たりまで進み、私は歩を止めた。左手の戸口から、提灯の明かりが漏れ出している。二つの影が、障子に映っていた。兄弟は、晩酌の最中らしい。私はごくりと息を飲む。

 すると、呼吸を整える間もなく、襖がひとりでに開いてしまった。後ろに付いている、いたずら好きな獄卒の仕業だ。

「おや、ハチ」

 突如として現れた私に、二人は驚きを示した。

「どうやってここへ? それにしても、お前――」

 盃を手に胡坐をかいた治平が、大きな眼をさらに見開く。

「お前……まだ生きておったのか」

 丸くなった目が、瞬時に不快の色を映した。吐き捨てた声は、明らかに侮蔑を含んでいる。

「酒の肴でも漁りに来たか。つくづく卑しい奴よ」

 薄ら笑いを浮かべ、与助も兄に続いた。うんざりした心持ちで、私は彼らを睨む。

「何だ、その目は!」

 治平が拳で、膳を叩いた。私の視線が気に障ったらしい。

「ふっ」

 室内に、吹き出したような笑いが漏れた。兄弟の鋭い視線が、同時に戸口へ向く。

 異界の彼だ。障子の縁に半身をもたせ、滑稽だと言わんばかりに、クツクツと肩を揺らしている。

「何だ、お前は?」

 治平も与助も眉根を寄せた。やはり、彼は異形らしい。

「誰に許しを得て入った! 何用で私の家にいる!」

 治平が野太い声で、語気を荒げる。

「ちょいと、憐れな犬の願いを叶えに」

 治平の怒声もどこ吹く風、彼は優雅に緋色の傘をくるりと回した。

「ハチ! お前は、番犬にもならんのか!」

 怒りの鉾先が、私に向く。それでも私は、ぴくりとも動じない。

「お前、まさか……」

 何かに感付いたのだろう。束の間押し黙り、兄弟は私と、人外の彼とを交互に見比べた。

「お前、一体どういうつもりだ!」

 激昂し、与助は立ち上がった。

「おい! 聞いているのか!」

 治平が盃を投げ付け、私の胸倉を掴む。

「何とか言いやがれ! ハチ!」

 治平は私を、狂ったように揺さぶった。犬に何とか言えとは、無茶というものだ。思う間もなく、畳に激しく叩き付けられる。

「やはりお前は、殺した方が良さそうだな!」

 治平が鼻息も荒く、私の肩に手を掛ける。

「お前・・・・・・」

 私を覗き込むや、治平はピタリと動きを止めた。その声音には、僅かに困惑が混じっている。

「兄さん?」

 怪訝そうな与助の足音が、傍らに迫る。そして与助もまた、言葉を失った。私はといえば、ただ顔を隠すように体を丸め、小刻みに肩を震わせていた。

「ハチ、お前」

 治平がようやく、ぽろりと呟く。

「お前ーー何を笑っていやがる!」

「は、ははっ、あははははははははっ!」

 私はついに、声を上げて笑った。笑わずにいられなかったのだ。奴らの愚かさに。己の非力さに。

「聞いているのか! ハチ! おい・・・・・・八郎!」

 与助が堪らず、怒声を浴びせた。

「八郎。それがお前の名か」

 冷えたひそひそ声に、私は無言で頷いた。震える腕に力を込め、なんとか半身を起こす。そして壁に半身を擦り付けるようにして、私はゆっくりと立ち上がった。呼吸が苦しい。脚が、全身が震える。今にもその場に崩れ落ちてしまいそうなのを、必死に堪える。

「八郎。本郷、八郎だ」

 息を乱し、私は掠れた声で呟いた。

 私の名は、本郷八郎。齢十四の、人間である。

「身寄りがなく脚も悪いお前を、拾ってやった恩を忘れたか!」

 与助が、興奮も露わに私を睨む。

「恩、だと」

 私は鼻で笑う。暇潰し、の間違いだろう。

仕事のうっぷん、酔いに任せた悪ふざけのために、暴力を受け、散々虐げられた。七つでここに拾われ、七年。齢十四の若さだが、このような状態で生活していては弱って当然だ。しかし、何があっても泣き声を上げはしなかった。人間としての、意地があったから。

 殺すか、ただ生かすか。衰弱していく私を助けるという選択肢など、彼らには最初からなかった。私の生死すら、情けと称した暇潰しでしかなかったのだ。

「私にあるのは、恨みだけだ」

 私は憎悪を込め、治平と与助を睨み付けた。やはり、私にはできそうもない。彼らを許し、生かしておくことなど。たとえこの身を、地獄に捧げても。

「犬が! ふざけたことを!」

 彼らは目を血走らせ、猛り狂ったように私に飛び掛かってきた。

 その彼らが、一瞬にして消えた。いや、消えたように見えた。それほど素早く、突然に、彼らの身体は畳に押さえ付けられていたのだ。黒く巨大な、獣によって。

 狼、いや、犬に近いだろうか。五尺ばかりの巨大な獣が、臭気を放ち、グツグツと喉を鳴らして彼らを見降ろしている。

 漆黒の毛並。尖った牙に、緋色の眼光。鋭い爪の生えた前脚をちょいと動かすだけで、人間など豆腐同然に潰してしまうだろう。

「ひっ!」

 治平と与助は悲鳴ともつかない、短い叫びを上げた。顔面を蒼白にして、ただ口をぱくぱくさせている。それでもかろうじて身をよじり、這うように獣の下から逃れた。腰を抜かし、尻餅のまま後退る。

「お前たちは、情け容赦なく私を虐げた。だから私は、容赦ない情けをお前たちに与える。さぁ、選べ」

 腹に力を込め、私は愚かな兄弟を見据えた。

「一瞬で喰い殺されるか、少しでも生き長らえるよう、じわじわとなぶり殺されるか。お前たちにとって、どちらがより良い情けだ?」

 血の気の引いた彼らの顔が、更に青ざめていく。

「どちらにしても、行き着く場所は同じ――地獄だ」

 ひそひそ声が、とどめを刺した。それを合図とするかのように、黒犬が慟哭を上げて飛び上がる。

「い、嫌だ! 嫌だあぁぁっ!」

 奇声を上げ、兄弟は無様にも四つん這いで逃げ惑うのだった。まるで、惨めな野良犬のように。

 

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容赦ない情け 月星 光 @tsukihoshi93

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