第2話 気まぐれな獄卒


 真夜中、外は雨。

 板の間に小豆をぶち撒けたような激しい雨音が、蔵の四方を取り囲んでいた。月明かり一つなく、蔵内は真の闇と化している。

 全身が重い。ひどく寒い。力強い雨とは対象的に、私は既に虫の息だった。もはや正常な呼吸すらままならず、這いつくばるように身を横たえていた。

 私は、私という存在は、ここで終わるのだろうか。暗闇の中、私は口の端を強く噛んだ。血の臭いが、その苦味が、微かながら、しかし確かに、己の生を主張していた。

 あぁ、私は生きている――。

 縋るように何度も、何度も、舌で血の味を確かめた。生命の証と共に、計り知れない虚しさをも感じながら。

 ぎぃと、戸口の方から物音がした。外界の生温い夜風が、やんわりと蔵内に吹き込む。  

 蔵の扉が、開いたのだった。治平か与助だろう。私を殺すことに、決めたのだろうか。私は重々しく、戸口へ顔を向ける。

 しかし、目に映ったのは、毒々しいまでに鮮やかな緋色の雨傘だった。私は首を傾ける。治平も与助も、こんな傘は持っていない。怪訝に思い目線を下げると、傘の主は華奢で小柄な、これまた見たこともない少年であった。

 黒の着物にだらりと羽織った衣も、猫のような瞳も、燃えるような緋色だ。顔は透き通るように青白く、闇をぽっかりと繰り抜いたかのよう。散切り頭の滑らかな髪が、細い顎の輪郭を縁取っていた。

 奇妙なことに、闇の中にあって、彼の姿は発光でもしているかの如く、はっきりと捉えることができる。私たちは束の間、互いに無遠慮な視線を向け合っていた。

「今宵、お前の命は尽きる」

 何者かが、ようやく口を開いた。ひそひそ声に近い、空気の抜けたような声だった。

「私は地獄の獄卒。ハチ、お前を迎えに来た」

 地獄だと。私は思わず眉をひくつかせた。滲み出た動揺を察したらしい。彼はふんと、鼻を鳴らした。

「誰しも、死ぬと閻魔卒の迎えが来る。閻魔卒とは、閻魔が遣わした者。亡者はまず閻魔卒と共に死出の旅をし、その後に審判を受ける」

 彼は淡々と説明した。その声は雨音をすり抜け、すとんと耳に流れ込む。

「私は八大地獄は四番目、叫喚地獄に付随する小地獄、 熱鉄火杵処に属する獄卒。熱鉄火杵処は、動物に酒を飲ませて捕らえ、売ったり食したりした者が堕ちる地獄だ」

 彼は至って簡潔に述べたが、私は理解に苦しんだ。そのような行動を取る人間を、少なくとも私は知らない。

「その通りだ」

 彼は口を尖らせ、さも不服そうに頷いた。彼には、私の心の内などお見通しらしい。

「そのような珍奇な罪を犯す者など、滅多にいない。私は責め苦を与える相手もおらず、ほとほと退屈している」

 彼は、わざとらしく溜め息を漏らした。しかし、やはり演技だったらしい。彼は直ぐに、にたりと奇妙な笑みを浮かべた。

「ところでお前、浄玻璃の鏡を知っているか?」

 唐突に、彼は切り出した。無論、無知な私が知る由もない。

「閻魔が裁判の際、亡者の善悪を見極めるために使う鏡だ。この鏡には、生前のどのような行為も映し出される」

 私はじっと、ひそひそ声に聞き入った。

「私は退屈が過ぎ、諸用のついでに、ちょいと閻魔の間へ忍び込んでやった。そこで閻魔の帳面を盗み見たところ、近々お前が死ぬと知った。どれ、どんな奴かと、私は鏡でお前を見た」

 さすがの私も、これには呆れた。当の彼は悪びれた風もなく、傘をくるくると回している。

「お前の生き様に、私は興味を抱いた。そこで、閻魔卒より先に来てはみたが。お前、やはり面白いな」

 赤い瞳が、ぎろりと妖しい光を放った。どうも彼は、獄卒でも、閻魔卒ではないらしい。

「お前には、ある願望があるらしいな。退屈しのぎに、私が望みを叶えてやる。そのために、私は来た」

 私の、望み――。

 身に覚えのあるものが、脳裏にちらついた。弱った身体が、無意識に前のめる。

「勿論、タダではない。それなりの代償を払ってもらう」

 代償だと。ぴくりと、全身が強張った。

「魂の辿る道から外れ、地獄で過ごしてもらう。つまりお前は、輪廻も解脱もできない」

 それ即ち、永久に地獄を彷徨い続ける、ということだ。代償としては、あまりにも大きい。しかし――。

 私の躊躇いさえも見透かして、彼はさも愉快気に続けた。

「審判を受ければ、お前は極楽行きだろう。どうする? 安らかに死ぬか、望みを果たすか」

 彼の妖しく、しかし美しい瞳が、私を見つめる。私は思わず、目を背けてしまった。おそらくその時点で、勝負は決していたのだ。

「お前の望みは知っている。そのための準備も、整っている」

 ゆらりと、彼の背後に何かが現れた。私は思わず、鼻を塞ぐ。闇よりも濃いその影は、血のような、銅のような臭気と、グルグルという息遣いを伴い、蠢いている。異界の彼は片手を上げ、指先で、その何かを撫でるような仕草を見せた。

「お前の望みを言ってやろうか。お前は、治平と与助に――」

 治平と、与助。

 私は静かに目を閉じた。彼らの姿を、顔を、仕草を想う。熱いものが込み上げ、ぎゅっと胸が締め付けられた。

 目を開け、異界の彼を見遣る。彼は笑み、ゆっくりと頷いた。彼ならば、私の望みを叶えてくれる。この私が、非力な弱者が、己の望みを果たせる。

 どくり、と、全身が脈打った。己の内に押し留めていたものが、堰を切ったように溢れ出す。

 あぁ、死に行く者が、ただ弱々しく力尽きてゆくものと誰が決めただろう。むしろ死に行く者にこそ、その胸の内には激しく、狂気じみた何かが蠢いているのではなかろうか。その情念が深ければ深いほどに、強く。

 異界の彼が、ぱちんと指を鳴らした。瞬時に、首の鎖が音を立てて砕け散る。呆気ないほど、粉々に。

 私を繋ぎ止めるものは、もはや何もなかった。

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