容赦ない情け
月星 光
第1話 ハチの生死
「自然に任せ、このまま生かしておくのが情けというものだ」
「いいや兄さん、これほど辛そうなのだ。いっそ殺してしまうのが情けでは?」
とある屋敷の裏庭で、二人の若者が何やら話し合っている。彼らの足元で、私はじっとその様子を見上げていた。どうやら、私のことを話しているらしい。二人は時折ちらちらと、こちらに困ったような視線を落としてくる。
「どうしたものか。なぁ、ハチ」
と、私の頭をクシャクシャに撫でたのが兄の治平、にこりと笑みをくれたのが弟の与助だ。治平は恰幅が良く、きりりとした大きな瞳。一転して与助は、ひょろりとした痩身、切れ長の涼しい目元。全く似ていないが、どちらも朗らかで人好きのする顔だ。呉服屋という客商売には、うってつけだろう。
「ハチ、お前ならどちらを選ぶ?」
今度は与助が、私の喉元を撫でる。何のことだという風に、私は首を傾けてみせた。
しかし、私は知っている。私はもう長くない。この家に拾われ、七年になる。弱ってきても不思議はあるまい。近頃では、生まれつき悪い脚に更に力が入らない。身体も、呼吸すらも重い。
彼らの顔越しに、どんよりと曇る空を仰いだ。墨汁を薄めたような濃灰色が、梅雨時の夕刻に更なる物悲しさを添えている。
おや、これは。
ヒクリと鼻を動かす。湿気を含んだ夕風に乗り、台所から漏れた匂いが鼻先を過ぎた。飯が炊き上がったようだ。
おぉ、なんと香ばしい。匂いに釣られ、私はふらりと母屋へ歩み寄る。
「こら、ハチ。そっちは駄目だ」
与助が通せんぼで制した。私は決して、庭から出てはならないのだ。鳴き声が近所に漏れては迷惑だと、ここで密かに飼われているが、心外だ。私にも自尊心はある。そこらの野良犬のような、下品な真似はしないというのに。
しかし、逆らうことは無意味だ。私はくるりと踵を返した。庭の隅に建つ、小さな土蔵の方へ向かう。
三方を母屋に、一方を土塀に囲われた裏庭にある蔵が、私の小屋代わりだ。夜は鎖に繋がれ、出してもらえない。ガラクタと、格子のはまった窓が一つきりの寂しい所だが、居心地は悪くない。風雨は凌げるし、何より、口うるさい彼らの手を離れ、独りでゆっくりと休める。
蔵の戸口まで来て、背後を振り返る。治平と与助が、微笑を浮かべて私を見守っていた。
***
店じまい後の夕刻か、酒に酔って気分が良い時。彼らが私を訪れるのは、決まってこのどちらかだ。
「戻ったぞ、ハチ」
この日も、店を終えた治平がやって来た。私は蔵で横になっていたが、律儀にも戸口まで出迎えてやる。こうして機嫌を取っておけば、気まぐれに刺身など、上物の残飯をくれることがあるのだ。
治平はしゃがみ込み、私に目線を合わせた。笑みを浮かべ、両手で私の頭を思い切りクシャクシャにする。
ええぃ、鬱陶しい。私は彼の分厚い手から逃れるように、身をよじった。
「逃げるのか、生意気な」
冗談めかして、治平は私の脇腹を小突いた。その反動で、私はころりと地面に倒れ込む。
「おや、ハチ。腹など見せずとも、お前の従順さは承知しているぞ」
治平の巨体の後ろから、与助の声が降った。細い腕に、水を張った桶を抱えている。
「蒸し暑かろう。洗ってやる」
バシャリと、桶一杯の水を頭からかけられた。毛先からぽとぽとと水滴が零れ、地面に小さな斑点模様を付けていく。水気を飛ばそうと首を振る私を見て、二人は満足気に笑った。
これが私の常だ。嫌というほど構われ、迷惑している。
「ほら、取って来い」
首に繋いだ鎖の錠を外し、今度は治平が手近な枝切れを庭へ投げた。期待に満ちた眼が、私に注がれる。
気は進まないが、仕方がない。私は重い身体を引きずって、取りに行ってやった。
熱があるらしい。身体が怠く痛みもあるが、気取られまいと平静を装う。とりあえず喜ばせてやって、上等の餌にありつけるよう祈ろうではないか。
例によって、台所からの匂いが私を誘う。今夜の夕餉は焼き魚のようだ。頭の一部だけでもいい、私にもくれるだろうか。
思考が逸れたせいか、足がもつれた。そのはずみで、私は横倒しに転ぶ。俊敏に起き上がる余力もなく、ぐったりとその場にへたり込んだ。浅い呼吸で肩を上下させ、目だけを兄弟に向ける。目に見えて衰弱する私に、彼らは複雑な表情を浮かべていた。
殺すか、生かすか。彼らは、どちらの情けを選ぶだろうか。
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