そこに黒があった

ポリエチレン

第1話 日曜日

日曜日

 日曜の夕暮れ、帰路に就いた僕の目の前には黒があった。

 黒はゆっくりとこちらに近寄ってくる。

 僕は逃げた。足が棒になるまで走り、ふとももが張り裂けそうになるまで自転車をこいで、その黒のいる方向とは真逆にひたすら向かった。

 もう大丈夫だろう、そう思って振り向くと先ほどより近くに黒は整然と存在していた。

 逃げられないと悟った瞬間、足が動かなくなった。

 心の底から恐怖が込みあがってくる。

 僕はこれからどうなるのだろう。あの黒が僕に触れた瞬間、どうなってしまうのだろう。

 わからない。

 触れた瞬間僕も黒に飲み込まれてしまうのだろうか、飲み込まれてしまった後はどうなってしまうのだろうか、地獄にでも行ってしまうのだろうか、そういった何の根拠もない憶測ばかりが頭の中を騒ぎ立てる。

「お前は何だ!」

 不安が溢れかえって黒に叫びかけた。

 無機物に声をかけてどうなる、と、叫びながら思う。

 しかしその考えを否定するかのように黒は「黒」と返答した。

 その声からはどこか寂し気で、不安そうな印象を受ける。

「お、お前は何がしたい」

「逆に、君は何がしたいんだい?」

「質問に質問で返すなよ!」

「僕は『黒』なんだ、そこに意思とか想いみたいな情報はないんだよ」

「というか、そもそも黒って何なんだよ! 俺に何の用があって寄ってくる!」

 こうして話しているうちにも黒はこちらに少しずつ距離を詰めてきている。それはもう目と鼻の先にあって、徐々に徐々に視界を黒が覆ってゆく。

「何を言っているんだい、君が僕を求めているんだろ?」

「……は?」

「君が、僕をこうしてここに呼び出したんじゃないか」

「いや、お前、口から出まかせもいい加減にしろよ……?」

「でまかせじゃないよ、だってほら」

 その瞬間、黒が僕の視界を覆いつくが、一秒と経たないうちに黒は視界から消えた。

 そして何事もなかったかのように当たり前の景色が目に飛び込んでくる。

 いつの間にか日は完全に落ちてしまい、あたりは薄暗い。けれどそれはさっきまでの黒とはまるで違って、どこか暖かくて落ち着く。

 緊張から一気に解放された体からは力が抜けてしまい、倒れこむように近くにあったベンチに座った。

 あの黒はいったい何だったんだろう。

 夜空を見上げても、やはり黒はない。

 そうやってふけっていたら、僕のスマホが小さく揺れた。

 何の通知かと思ったら、母親から「早く帰ってこい」というお怒りのメッセージだった。

 時間を確認し忘れていたが、もうすでに時計の針は日付をまたいでおり、一介の高校生では警察の厄介になってしまうような時間になっていた。

 正直、色々な疑問が湧き上がってきて帰るとかそれどころの騒ぎじゃない。……なんて思っていたのに、結局大人しく帰路に戻った。

 結構な距離を逃げてきてしまい、家からかなり遠いところまで来てしまったことを後悔しながら自転車に跨る。

 最初から最後まで何もわからなかった。

 怖い。

 わからない。

 このふたつは違う言葉に見えて、案外同じだ。

 わからないから怖いし、わかっていたらきっと怖くない。

 怖いから理解しようとしないし、怖くないものはきっと理解している。

 例えば虫。虫は何を考えているかわからなくて、触れたりしたとき自分がどうなるかわからないから怖いのだ。逆に虫の生態を理解して、自分に害があるかないかを理解していれば恐れることはない。

 だから黒が何か理解していれば、ここまで恐れることもなかったのだろう。

 考えても考えて黒が何だったかなんてわからない。

 次第に考えることも面倒になって、大人しくペダルに体重を掛ける。

 ペダルに力を込めれば前に進む。二輪でも前に進めばジャイロ効果で倒れない。ハンドルを回せば曲がることができる。

 あたりまえのことだ。

 でも、さきほどまで自分を覆っていた当たり前じゃない事象が僕に疑念を抱かせる。

 この自転車は本当に大丈夫なのだろうか、サドルが折れたりしないだろうか、ペダルが取れたりしないだろうか、タイヤが外れたりしないだろうか、チェーンが切れたりしないだろうか、ブレーキはかかるのだろうか、突然横に倒れないだろうか。

 そういった不安は突如として心を満たし、僕は人生で初めて自転車に酔った。

 吐き気が腹の底から込み上げてきて、道端に吐瀉物をぶちまけてしまう。

 僕はどうしてしまったのだろう。

 僕に何があったんだ?

 そもそも僕というのは何だ?

 どういう定義で僕は僕なのだろうか?

 一秒前の僕は僕なのか?

 それをどうやって説明する?

 それをどうやって証明できる?

 わからない。

 記憶の中にいる自分と今の自分は本当に同一人物なのだろうか?

 あの時の僕は、本当に今の僕と同一人物なのか?

 確かめたい。

 どうやって?

 水面を覗いて自分を見る。

 そこには見慣れた顔があった。

 でも、それは本当に僕なのだろうか?

 水面を見たら自分が映る確証はどこにあるのだ。

 よくかんがえたら、この世に確証のあるものなんて何もない。

 なんせ自分が手に入れる情報を証明する方法がないのだから。

 なら僕はどうしたらいい?

 こうして自分が何者かわからないまま精神をすり減らしていけばいいのか?

 わからない、わからない、わからない。

 そして僕は家に帰った。

 僕かどうかもわからない物体は、誰の家かも証明できない家に帰り、親かどうかもわからない人にどやされて、逃げるように眠りに就いた。

 僕の不安や恐怖を他所に朝は来た。

 こないかもしれないと思っていた朝は来た。

 昇らないかもしれないと思っていた朝日は煌々と僕の部屋を明るく照した。

「おはよう」

「おはよ」

 母親は眠そうに答えた。

 なんだかんだ僕は僕で、なんだかんだ今日も学校に向けて歩き出した。

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