地獄の使い

「週が明けてからしばらくのあいだは、落ち着かない日々が続きました。町内のいろいろな場所で、頻繁に警察官を見かけました。岸辺に唐木くんの足跡が見つかってからは、用水路に落ちたという説が有力になったようでした。現場近くで私と銀乃くんを見かけたと証言した人がいて、私たちは学校に来た警察官にひとりずつ呼ばれていろいろと質問を受けました。唐木くんと会ったこと以外はそのまま正直に話そう、と予め二人で決めていたのが功を奏したのか、わずか十歳の小学生ということもあって、私たちは何ら疑われることなく、それ以降警察に呼ばれることはありませんでした。銀乃くんとは、なんだか気まずくなってしまい、お互いに相手を避けるようになっていました。クラスメイトたちは、最初、『ギンノモリは夫婦ゲンカ中らしい』などとひそひそ噂をしていたようですけど、やがて何も言わなくなりました。月が替わり、秋が深まるにつれて、道で出会う警察官の姿も減り、町内が少しずつ日常を取り戻していくのがわかりました。唐木くんは依然として行方不明のままでしたが、それ以外は何も変わることもなく毎日が過ぎていきました」

「でも、それで終わりではなかった」

 と私は言った。

 桃子は一瞬ためらったあと、話を続けた。

「唐木くんはきっとどこかで元気に生きている。何度もそんなふうに自分に言い聞かせているうちに、やがてそれが事実なんだと思うようになりました。銀乃くんと一緒に遊ぶことはなくなりましたが、私は普通に学校に行き、クラスメイトたちと会話をし、家では手芸キットでいろいろな小物を作って遊んだり、いままでと変わらない生活を送っていました。そんなある日、私がひとりで学校から帰る途中のことです。不意に、背後でチリンチリンと自転車のベルが鳴りました。どこかで聞いた気がする音でした。続いてキーッとブレーキの軋む音。その音を聞いたとき、私はそれが、あの日唐木くんが用水路に落ちたあとに聞こえてきた音と同じだと気付きました。そして、一台のスポーツサイクルが私のすぐ横に止まりました。乗っていたのは、県立高校の制服を着た男子高校生でした」

 桃子が、何かを確かめるように私と銀乃の顔を見る。いまはすっかり黙ってしまった銀乃が、視線を受けてチラリと桃子を見返した。

「『ねえ、元気?』と声をかけてきたその高校生は、髪型や服装、持ち物などを見る限り、いわゆる不良には見えませんでした。知らない人でしたので、私は黙って歩き続けました。するとその高校生は、『冷たいなあ、俺にそんな態度していいの?』と言いながら、私の横を自転車でゆっくりとついてきました。『俺は君の秘密を知ってるんだよ』と彼が言ったとき、私の足は思わずピタリと止まりました。キッと短いブレーキ音がして、彼の自転車も止まりました。いったい何のことだろう、と私が前を向いたまま固まっていると、彼は私の顔を覗き込むようにして、『俺は見ちゃったんだ、君が男子と二人で、小っちゃい男の子を用水路に落としたところを』と言ってニコッと笑ったんです。そして、『君たちのせいで、俺も警察に事情聴取されたんだせ。でも、君たちのことは、黙っといてあげたよ』と言いました。私があまりの恐ろしさに何も言えずに固まったままでいると、彼は、『今度一緒に遊ぼうよ。俺の女友だちが、君を迎えにいくからさ』と言って名前を名乗りました。そうして自転車を急発進させ、行ってしまいました」

「その高校生が、菱谷錠だった」

 と私は言った。

 桃子は、ゆっくりとうなずいた。

「何日か経って、やっぱり学校からの帰り道、菱谷に話しかけられたのと同じ場所で、ひとりの女子高校生が私を待っていました。菱谷と同じ県立高校の制服を着ていました。あとからわかったことですけど、その高校は偏差値が高いことで有名な進学校だったんです。そんな学校に通っていた菱谷が、最後にどうしてあんなヤクザみたいな風貌と言葉使いになったのか、私にはわかりません。彼女は私のそばに来ると、『私の家に行こう、菱谷くんが待ってるから』と言いました。私は怖くてしかたがなかったんですけど、例の秘密を菱谷に握られているということを考えると、逆らうことはできませんでした。もし逆らえば秘密をバラされ、銀乃くんも大変なことになる、と思ったからでした」

 しばらく黙っていた銀乃が、それを聞いてピクリと反応したが、そのまま何も言わず話の続きを待った。

「その女子高校生の家は、唐木くんが用水路に落ちた場所のすぐ近くにありました。彼女に連れられて家のなかに入ると、菱谷がリビングのソファに座って待っていました。彼女の家族は出かけているのか、ほかには誰もいないようでした。私を菱谷に引き合わせると、彼女は二階に上がっていってしまいました。自分の部屋に戻ったんだな、と私は思いました。そのあと私はソファに寝かされ、菱谷にいたずらをされました。菱谷のいたずらはとても他愛のないもので、高学年なりになんとなく知識を持っていた私は、ちょっと拍子抜けするくらいでした。いらずらに飽きると、菱谷は二階の女友達に声をかけ、彼女が私を最初に待っていた場所まで送ってくれました。男子高校生が女子小学生を連れ回すのは不審がられると考えて、菱谷はその女友達をうまく利用したんだと思いました。いたずらは、翌年の春、私の両親が離婚して、それを契機に母が私を連れて東京に引っ越すまで続きました」

「知らなかった。そんなことがあったなんて……」

 銀乃は両手で頭を抱えると、そのまま前かがみになり、両肘をテーブルについた。

「東京に引っ越すことが決まったとき、私は母に、菱谷から性暴力を受けていることを告白しました。原因となったあの出来事については、やっぱり話す勇気はなくて、黙ったままでいました。そして母に、転校先では別な名前を名乗って、いままでのことをすっかり忘れて生まれ変わりたい、と頼みました。母と私は、二人とも母の旧姓に戻すことが決まっていましたから、名前を変えれば私は姓名ともに変わって、別人になることができると思ったんです。当時テレビで見たドラマか何かで、罪を犯した主人公が別人に生まれ変わって警察から逃れ、成功するストーリーが印象に残っていたからかもしれません」

「そのストーリーは僕も覚えがあります。映画だった気もするな」

 と私が言うと、桃子は目で軽く同意を示してから、

「母は私の訴えを聞き入れてくれ、法律事務所に改名の手続きを相談しに行きました。相談に乗ってくれた司法書士は、これまでの判例から、主観的な精神的苦痛だけでは申立てを通すのは難しい、まずは通称、いわゆる通り名を使って使用実績を作ってみては、とアドバイスしてくれました。未成年の場合、三年から五年程度の使用実績があれば、申立てが通る可能性が高いとのことでした。幸い転校先の小学校は私立で、通り名を使うことに理解を示してくれました。私は、森不二緒ではなく、民矢桃子として小学校六年生になりました。名前を桃子にしたのは、私が三月生まれだったからという、ありふれた理由です。そうして中学高校含めて七年間を通り名で過ごし、大学に入学する春に、家庭裁判所に改名の申立てをして受理されました。目の周りをちょっと整形もしたりして、私は名実ともに民矢桃子として新しいスタートを切りました」

 そこまで話すと桃子は、遠い昔に想いを馳せるような表情をした。普通の少女とは違う十代を過ごした彼女とはいえ、だからといって楽しい記憶がないというわけでもないのだろう。

「大学時代から、起業して今日に至るまでの経緯については、取り立ててお話することはありません。あの日の記憶は、ときどき何かの拍子に甦ってきて私を責め苛みましたが、その回数は徐々に減っていきました。そうして時は流れ、偶然にも銀乃くんが東京で同業を起業していたことを知りました。アイマヤが大きく成長したことで、いやでもその情報が耳に入ってきたからです。銀乃くんが元気に活躍していることは、私にとってはとても喜ばしいことでした。それでも、いつのまにかアイマヤのことは無意識に避けるようになっていました。周りの社員たちには、それがかえって、ライバル社の動向に一喜一憂しない頼もしい社長に見えたのかもしれません。週刊誌の取材を受けたのは、会社の業績も安定してきた、今年四月のことでした」

「運命が、また動き出した。雑誌が店頭に並んだのは、五月の連休明けぐらいでしょうか」

 と私は聞いた。

 桃子はうなずくと、熱を測るときのように左の掌を額に当てて、

「刷り上がった見本誌が届いて、自分が載っているページを開き、対向ページに唐木くんの遺骨発見の記事があるのを見たときの衝撃は、いまでも忘れることができません。やっぱり唐木くんはあのときに死んでしまったんだ。その原因は私が銀乃くんをそそのかしたからなんだ。わざとではないけれど、私は人を殺してしまったんだ。私のなかに、森不二緒が戻ってきました。晴れ舞台であるはずの私のポートレイトと、いまわしい私の十八年前の過ちが、見開きのセットで大勢の人の目にさらされている。こんな残酷な罰が、ほかにあると思いますか」

 たまりかねたように、桃子が少し乱暴に麦茶のグラスを取る。私は、桃子の分のコースターを用意するのを忘れたことに気付いた。グラスを置く音が、想像以上にオフィスの空気を揺らした。

「それからしばらくは、頭のなかがぼうっとして仕事も手につきませんでした。そんな地獄のなかで、ひとつだけホッとしたことは、唐木くんの死亡届はすでに受理されていて、警察は再捜査はしない、という事実でした。つまり、今後この件で警察が私や銀乃くんのところにやってくる可能性はないというわけです。いま私が手掛けている仕事、社員の生活、そして銀乃くんのことを考えれば、それは非常にありがたいことでした。私ひとりが苦しんで済むのなら、それに越したことはありません。そのときの私は、自分が抱えているもうひとつの脅威のことをすっかり忘れていたんです」

「また菱谷錠が現れたんですね」

 と私は言った。

「そのとおりです。私がひとりで会社から駅に向かう途中、菱谷は後ろから声をかけてきて私の横に並びました。ちょうど十八年前のあの日、自転車で後ろから私の横に並んだときと同じでした。彼は、丸めて手に持った例の週刊誌を私の前にかざして、おまえは、本当は森不二緒だろう、この二つの記事が並んで載っているのを見たとき、自分はそれを確信したんだ、と言いました。なんて恐ろしいことでしょう。銀乃くんがこの見開きを見て、私が森不二緒じゃないかと気付いたように、あの地獄の使いのような菱谷も、同じようにそのことに気付いたんです。私は再び目の前が真っ暗になりました」

「あの週刊誌は、歯医者の待合室で見たんだ。記事を見つけたときは、本当にびっくりした」

 銀乃は、頭を抱えて下を向いたまま、KO寸前で何とか立ち上がったボクサーのような声で言った。

「菱谷は、まず最初にお金を要求してきました。当座の生活費が欲しいと言って、金額を提示されました。いまの私にとっては微々たる金額だったので、言われた通りの金額を彼に渡しました。払わなければ私の秘密をインターネットで公開する、と脅してきたからです。もちろん、この一回で終わるとは思いませんでした。しばらくは菱谷に生活費を渡すことになるんだろう、なんて漠然と考えたりしていました。けれども、次に菱谷が要求してきたのは、お金ではありませんでした。彼は、私自身を求めてきたんです。あのときと違い、いまの彼はれっきとした大人の男です。今度許せば、他愛のないいたずらというわけにはいかないことは明らかでした。この絶体絶命のピンチをどう切り抜けようかと思案に暮れていたとき、由名時さんが公園で私に声をかけてきたんです」

「あなたのベージュのハイヒールが、ブランコの周りで泥んこになった日ですね」

「あの日、由名時さんに会うまでは、私は真剣に菱谷を殺そうと考えていました」

 頭を抱えて下を向いていた銀乃が、思わず顔を上げてサングラス越しに桃子を見つめる。

「でも、実行しなかった」

 と私は言った。

「はい。私は菱谷を殺しませんでした」

「なぜでしょう」

「由名時さんが、私に興味を持ってくれたから」

 少し照れたように微笑んで、私から瞳をそらすと、

「何かが変わるかもしれないと思ったんです」

 私は、上着のポケットからライオンのブローチを取り出すと、桃子の前のテーブルに置いた。

「落とし物を返すのを忘れていました。これはあなたのでしょう?」

 桃子はびっくりしたようにブローチを手にとると、

「間違いありません。でもこれをどこで?」

「高円寺の公園に落ちていたのを見つけたので、拾っておきました」

 初めて買ったブローチを大切にする中学生のように、そっとバッグにしまいながら、桃子は私に礼を言った。

「あとひとつだけ教えてください」

 と私は言った。

「十八年前、菱谷と一緒にいた女友達の名前を憶えていますか」

「はい。ちょっと印象的な名前だったので憶えています。何度も連れていかれた彼女の家の真新しい表札に、『絵鳥』と書いてありました。絵を描くの絵に、動物の鳥です」

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