真犯人
翌日の昼過ぎ、私は絵鳥に電話をかけた。
「はあい、絵鳥です」
前回同様に、妙に明るい声で絵鳥が応答する。
「由名時です」
「ああ、探偵か。今日は何?」
退屈そうな声が、受話器の向こうから聞こえてくる。
「調査結果が出たので、知らせておこうと思ってね」
「それで、どうだったの?」
気のない声が応える。絵鳥の置かれているフェーズが変わったのか。
「君の仮説通りだったよ」
一瞬、間が空いてから、
「仮説なんか、あんたに話したっけ?」
「僕は、君が銀乃充と民矢桃子との関係にある仮説を立て、それを確かめるために僕を使ったと思っている」
「ほほう、それで?」
気持ち、テンションが上がってきたようだ。
「調査結果は、君の仮説通りだった。銀乃充と民矢桃子の関係、二人の過去。ついでに、民矢桃子と菱谷錠、そして君とのつながりもわかった。君が菱谷を知らないと言ったのは、嘘だった。もともと君と菱谷はグルだったんだ」
ガサガサと、電話を受ける体勢を変えるような気配がして、
「そこまで調べたんなら、しかたないなあ。あんたは見かけより優秀だったってことか。確かに菱谷のことは知ってるよ、高校んときからね。このあいだ嘘をついたのは、あんたの実力を試そうと思ったからなんだ。ヒントをあげたら、バイアスかかっちゃうじゃない?」
絵鳥は、いつものように、あーっははは、と笑った。
私は、絵鳥が笑い終わるのを待ってから、
「菱谷は、民矢桃子の取材記事と十八年前にQ市で起きた行方不明事故の話が、見開きで載った週刊誌を目にして、民矢桃子が森不二緒だと見抜いた。動物的な勘が働いたのかもしれない。それから上京して君と連絡を取り、桃子を脅迫した。十八年前と同じようにね。同じ時期に、銀乃充も民矢桃子のことを秘かに調べ始めた。彼も同じ週刊誌を見て気付いたんだ。それを知った君は、あのとき現場で桃子と一緒にいた男子というのは銀乃だったんじゃないか、と仮説を立てた。自社の社長の出身地ぐらいは、知る機会はいくらでもあったわけだし、事故のあらましは、現場を目撃した菱谷から聞いて知っていたはずだからね。君と銀乃は、過去に間接的な接点があったにもかかわらず、お互いに知らずにいたんだ。そして菱谷も、銀乃のことは知らなかった。昔から桃子にばかり熱心で、男子のほうは名前さえ知らないほどノーマークだったからだろう。そんなとき、都合よく僕が君の前に現れた。君は渡りに船とばかりに、僕に調査を依頼した。もし仮説が正しければ、次は銀乃充を追い込むつもりだったんだ」
「うん、よく練られたシナリオだ。高価買い取りしたいくらいに」
感心したような口調で、わざとらしく絵鳥が言った。
「もうひとつ、君に教えたいことがある」
と私は言った。ゆっくり呼吸を整えてから、
「菱谷を殺した犯人がわかったんだ」
電話が切れたのではないか、と思うほどの沈黙が数秒続いたが、実際には電話は切れていなかった。
「話を聞こうじゃない」
と絵鳥は言った。
「まずは現場のおさらいをしよう。僕が菱谷から助けを求められて中野のウィークリーマンションを訪れたとき、菱谷はすでに死んでいた。背中を自分の持ち物のアウトドアナイフで刺され、ベッドにうつ伏せに倒れていた。ベッドの下には、民矢桃子のものと思われるライオンのブローチが落ちていた」
低くうなるような声が受話器からもれる。
「この状況から考えられることは二つ。ひとつは民矢桃子が犯人だということ。もうひとつは、誰かが民矢桃子を犯人に仕立て上げようとしたということだ。ところが僕は、民矢桃子が犯人ではないことを知っている」
「つまり真犯人がいて、民矢桃子に罪を着せようとしたってことだね」
見逃したドラマのあらすじを友人から教わるときのように、絵鳥がまとめる。
「ブローチは海外製の希少品だそうだから、そこから足がつくと踏んだんだ。でも残念ながら、その目論見は外れたよ。ブローチは僕が回収して、民矢桃子に返却済みだ。だから警察が桃子に目をつけることはないだろう。もともと彼女は現場に行ってないんだからね」
「深まる謎。果たして真犯人は誰か」
台本を読むように、絵鳥が言う。
「第一に、犯人は、民矢桃子のブローチを盗むことができた、あるいは誰かを使って盗ませることができた。加えて、民矢桃子が菱谷を殺す動機があることを知っていた。動機がなければ、容疑者としての信憑性に欠けるからね。次に、菱谷は背中から刺されていた。あの狭いワンルームに招き入れられて、しかも後ろから近づいても警戒されない人間、つまり犯人は、ある程度親しい人間だったことになる。僕が菱谷の電話を受けたとき、彼は、頼めるのは僕しかいない、と言っていた。それはすなわち、犯人以外に東京に親しい知人はいない、ということを意味している」
「と、いうことを意味している」
絵鳥は私の最後のセリフを復唱した。私は続けた。
「以上すべての条件に当てはまる人間を、いまのところ僕はひとりしか知らない。それは絵鳥廻、君だよ」
再び沈黙が訪れる。受話器の向こうの沈黙が、対面での沈黙より時間の流れが遅くなるという法則は、いったい誰が発見したのか。
「ブローチについては、高須木剣児をそそのかして、井東優里に盗ませたんだろう。社長秘書も兼務している優里なら、桃子の上着に触れる機会はいくらでも作れたはずだ。桃子が菱谷を殺す動機について君が知っていることは言わずもがなだし、もともと菱谷とグルであれば、彼の部屋に入ることも、後ろから近づくことも容易だっただろう。つまり、菱谷の、東京で唯一の親しい知人は、君だったんだ」
三度目の沈黙は、これまでと違っていた。荒い息遣いが、受話器を通して伝わってくる。その状態がしばらく続いたあと、唐突に絵鳥が、
「その、菱谷を殺したという絵鳥廻は、本当にいまあんたと話をしている絵鳥廻なのかな?」
お家芸の多世界解釈の登場だ。
「普通の人間にわかるように話してくれないか」
私は、いささかうんざりしながら言った。
「菱谷を殺した〈私〉は、この世界の私じゃないかもしれない。平行世界の〈私〉と私は、違う存在。だから、向こうの〈私〉がやったことに、私には責任がない。そこは検証したのかな」
冗談とも本気ともつかない、何か異様な響きのする声だった。
私が黙ったままでいると、
「仮説が提示された以上、それを検証しなきゃ。仮説に沿ったデータを集めて、真偽を確かめる必要があることぐらい、わかるよね」
絵鳥の異様な声の響きは、私を苛立たせた。
「単なる言葉遊びになるけど、答えてやろうか。もし、菱谷を殺したのが、いま僕が電話で話している君ではなく、君が主張するところの平行世界の絵鳥廻だとしたら、絵鳥廻が菱谷を殺したことを知っている僕は、菱谷を殺していない君がいるこの世界に存在することはできない。それぞれの世界は、永遠に交わることのないパラレルな関係だからね。つまり、絵鳥廻が菱谷を殺したことを知っている僕がいる世界の君は、菱谷を殺した絵鳥廻なんだ」
話しながら、自分の頭が混乱してくるのがわかる。私は、自分の精神を正常に保てるよう、努力する必要があった。私は受話器を持ったまま、応接テーブルの上の、キューブ型パズルの三段目を眺めて、頭の中でシミュレーションしようと試みた。かえって頭が混乱してきた。私は視線を反対側に向けて、冷蔵庫の上で酒瓶に埋もれている木彫りのクマを見た。それでようやく気持ちが落ち着いてきた。
なんとか自分を立て直すのに成功したとき、
「面白いね。つまり、チェックメイトってわけだ」
と言う絵鳥の声が、受話器の奥の、はるか遠くから聞こえてきた。異様な響きはもう消えていたが、声のトーンが一オクターブ下がっていた。
「君が認めるのであれば」
と私は言った。まるで聞いたことのない他人みたいな声が出た。
「いくつか、補足が必要だわな」
観念したのか、直前のやりとりを忘れたかのように絵鳥が話し始めた。
「菱谷と初めて会ったのは、高校一年の二学期だったかな。父の転勤で、二学期からP県Q市にある会社の借り上げ住宅に東京から引っ越すことになって、私は県立P高等学校に転校したわけ。昔から私ってこんな感じだったんで、クラス全員に嫌われてさ、そんななかで仲良くしてくれたのが隣のクラスの菱谷だったってこと。だからあいつに何か頼まれたら、全力でやったし、あいつのことを好きになった時期もあった。私だって人並みにJKだったんだよ。Q市には二年間だけ住んで、高三の途中でまた家族で東京に戻ってきたから、菱谷とはそれ以来疎遠だった。だから、五月の連休明けに菱谷が東京に出てきたときにはびっくりしたよ。まあ昔から素行は悪かったけど、あの優等生だったあいつが、どうみてもチンピラにしか見えない風情で十数年ぶりに私の前に現れたんだからさ。もともとあいつの親はまともじゃなくて、いつもお金に困ってたから、そのせいで大学に進学できなかったとかで、それであんなになってしまったのかもしれないね。そんなわけだから、私が次のターゲットの銀乃をあんたに調べさせてるっていったら結構キレてさ、そのあとあんたを脅かしにいったって話。おおかた自分の分け前が減るとでも思ったんだろうね。向いてないんだよ、結局」
そこで絵鳥はひと息つくと、
「どう? あんたの考えた通りだった?」
私の返事を待たずに、
「なぜ菱谷を殺したかってことについては、実は私自身、まだはっきりしないところがあってね。最初は、あいつがまたバカをやるんじゃないか、あんたをいきなり脅したのと同じように、また意味のないことをやって、私の壮大な計画をオジャンにしちゃうんじゃないか、だから、それを阻止するためにあいつを殺すんだ、って自分でも本気で思ってたんだ。高須木剣児は中身のないボンクラだから、昇給昇格をちらつかせて、民矢桃子の例のブローチを、息のかかった向こうの社員に盗ませるようそそのかしたら、すぐに乗ってきた。そうして準備を整えて、あいつのウィークリーマンションを訪ねたら、あいつはちょうど、民矢桃子を電話で脅かしている最中だった。なんか私のことなんか眼中にないって感じで、夢中で電話に食らいついてる丸まった背中を眺めているうちにね、だんだんと再現ドラマのように私の頭のなかに映像が流れはじめたんだ。十八年前に私の家で、好きだった菱谷が、リビングであの女にいたずらしているあいだ、二階の自分の部屋でじっと待っていた十五歳の私のリアルなビジュアルがさ。あのときの、悔しいのか、切ないのか、哀しいのか、それとも怒りなのか、はっきりとしない、もやもやとした感情が一気に膨れ上がってきて、気がついたときにはもう、あいつを刺してたってわけ。ブスリとね。なんだかテレビの二時間サスペンスみたいなベタな展開になっちゃったけど、しょうがないよ、それが実際に起こったことなんだから。なもんで、菱谷を殺した理由については、自分でも、ちょっと確信が持てないんだ」
そこまで話した絵鳥は、
「ごめん、ちょっとのど乾いた」
ゴクゴクとペットボトルのミネラルウォーターでも飲むような音がして、
「こんなんでいいのかな? 二時間サスペンスの告白シーンとしては、やっぱ崖の上とか、きれいな海岸とかのほうがよかったかな、せめて鎌倉あたりまで出かけるとか?」
「君が話したことが真実なら、場所なんかどこだって構わない」
「んで、私を警察に突き出すわけ?」
私は、この案件における自分の役割が終わったことを認識した。
「そうだな。君の依頼は非正規のオーダーで、見積書も契約書も作っていない。だから調査費用も請求できない。それでも君は僕の依頼人には変わりがない。僕は、自分の依頼人を警察に売ったりはしないよ」
何か言おうとする絵鳥に構わずに、私は静かに固定電話の受話器を置いた。
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