明かされる過去

「あれは私と銀乃くんが、小学五年生だった年の九月下旬のことでした。当時私たちが住んでいたのは、P県Q市の**町というところです。Q市のことは、もうご存じですよね」

 と桃子は話を始めた。

 一度上がりかけていた雨が、いつのまにか梅雨末期ような大雨になっていた。隙間なく敷き詰めたような土砂降りの雨の音が、オフィスのなかを息苦しくしている。もしかしたら今年の梅雨明けは意外に早いのかもしれない。

「その日は土曜日で、夕方から隣町の神社で秋祭りの前夜祭がある日でした。そのお祭りは、地域で人気の行事になっていて、地元の青年団の警備のおかげで治安もとても良かったので、私たちの町内からも、毎年たくさんの子供たちが屋台目当てにでかけていきました。私と銀乃くんも、一緒にお祭りに行く約束をして、ずいぶん前から楽しみにしていたんです」

「ところが、何年かに一度という大きな台風が、ちょうどお祭りの時期に日本を直撃してしまった。お祭りが中止になるんじゃないかと、ぎりぎりまでハラハラしたっけ」

 横に並んで座った銀乃が、桃子のほうを見ながら言った。

「でも、運よく前日の夜のうちに台風はP県を通過して、その日は台風一過の秋晴れになりました。待ち合わせ場所で銀乃くんを待っているあいだに見上げた空は、まるで宇宙まで突き抜けてしまいそうな底の見えない真っ青な空で、そこに白い雲がポツンとひとつ浮かんでいました。名前も知らない秋の草が柔らかい風にふわふわと揺れて、私はなんともいえない幸せな気分に包まれたのを憶えています」

「そうだった、本当によく晴れた一日だった」

 と銀乃が相槌を打つ。

「銀乃くんと待ち合わせたのは午後二時ごろで、場所は、当時は着工前だった幹線道路の予定地として確保された空き地でした。まだ道路用地から半分ぐらいしか立ち退いてなかったため、家屋や畑のあいだに、あちこちにそうした空き地ができていて、子供たちの格好の遊び場になっていたんです。学校からは禁止されてましたけど、ジグザグに空き地をぬって近道として通学に使う子もいました」

「その道路はもう完成していて、あのあたりでは『新道』と呼ばれているようです。道の両側には飲食店が立ち並び、結構にぎわっていました。当時とはずいぶん風景が変わったんじゃないでしょうか」

 と私は言った。

「わざわざQ市まで行ってみたんですね。私はあれ以来Q市とは縁がないので、いまの様子はわかりません」

 と桃子は言った。続けて、

「お祭りの屋台はいつも夕方四時過ぎには開店するんですけど、私たちは待ちきれなくて、早く出かけて近くで遊んで待っていよう、ということになっていました。私と銀乃くんとはとても気が合って、お互い同性の友だちと遊ぶよりも二人でいるほうが気楽だったんです。だからクラスメイトやウワサ好きの上級生たちから、私たちが男女として〈付き合っている〉と事あるごとにはやしたてられ、二人の苗字をつなげて『ギンノモリ』なんて呼ばれてましたけど、実際は仲のいい友だち以上ではありませんでした」

 桃子が同意を得るように銀乃の顔を見る。銀乃のほうもそこに異論はなさそうだった。

「銀乃くんと会えたあと、私たちはトンボを捕ったり、若いススキの穂を引き抜いて遊んだりしながら、いくつかの空き地を行ったり来たりして時間をつぶしました。ところどころに昨夜の台風でできた水たまりがあり、そこを避けるためにぴょんぴょんと飛び跳ねて歩かなければなりませんでした。そのせいか、私たちのほかには、遊んでいる子供たちはいませんでした」

「大きな水たまりを越えようとして、失敗して白い靴下に泥がはねたよね」

 と銀乃が懐かしげに言った。

「**町を東西に横切る用水路と隣り合わせた空き地に入ったとき、台風で増水した水面を一心に見つめている唐木くんを見つけました。唐木くんは私たちと同じ町内で、二人とも彼のことを知っていました。唐木くんは、私たちから数メートルぐらい離れたところで、こちらに背を向けて用水路の岸辺ぎりぎりに立っていました。そのあたりはちょうど、岸辺を隠すように高く茂った雑草が途切れていて、地面すれすれまで迫った濁流が音を立てて流れている様子が、離れたところからでもはっきりと確認できました。いったい何をそんなに一生懸命に見つめているのか、私たちが近くに来たことに気付きもしない唐木君を、私は少しからかってみたくなりました」

「流れの表面にできる幾何学模様にでも夢中になってたのかな」

 銀乃がぼそりとつぶやく。

「『ねえ、ちょっと驚かしてみない?』と私は銀乃くんに言いました。そのときの自分の心の動きを、いまとなっては正確には思い出せないんですけど、少なくとも、私自身が唐木くんを驚かす行為をするという選択肢は、自分の中になかったような気がします。私は最初から、銀乃くんがやるんだろうと思っていたんです」

 意外だったのか、銀乃が不意に桃子の顔に視線を向ける。

「銀乃くんはすぐに賛成して、唐木くんは犬が苦手だから犬のまねをしようと言いました。そして、唐木くんの方にそっと何歩か近づくと、『わんっ!』と思い切り大声を出しました。唐木くんは本当にびっくりしたらしく、二、三度、ピクンビクンと体を震わせながら、こちらを振り返ろうとしました。そのとき、水を吸ってぬかるんだ土を踏んでいた足がズルリと滑って、唐木くんの体が斜めになりました。唐木くんが体制を立て直そうと必死の面持ちで両腕をぐるぐると回したとき、私も銀乃くんも、何かのコントを見ているような気がして思わず二人で笑ってしまったんです」

 そこで桃子は両手で自分の顔をピッタリと覆った。銀乃も黙って下を向いたまま顔を上げない。

 桃子はそのまま、しばらく言葉を詰まらせたが、やがて自分を取り戻した。

「唐木くんは、バランスを崩したまま、濁流のなかにドブンと落ちたかと思うと、次の瞬間にはもう、流されて見えなくなってしまいました。本当に、あっという間でした。私たちは何が起こったのか理解できないまま、しばらく無言でその場に立ち尽くしていました。抜けるような青空の下、聞こえてくるのは激しく流れる水音だけ。そんなとき、どこか遠くでチリンチリンと自転車のベルの音がして、続いてキーッとブレーキの軋む音がしました。私たちは、ハッと我に返りました。私たち二人が最初に考えたのは、これが大人たちにバレたら、ひどく怒られるだけでなく、楽しみにしていた今夜のお祭りにも行けなくなってしまう、ということでした。高学年にもなって、なんとも幼稚な発想ですけど、あのときは二人とも真剣にそう考えていました。あの用水路は、普段は幼稚園ぐらいの子供たちが裸足で入ってタニシやザリガニを採ったりしているくらいだから、唐木くんもきっと自力で用水路からあがるだろう、万が一にも死んだりはしないだろう、と自分たちに都合よく結論付けて、用水路の岸辺まで近寄って確かめることさえせずに、私たちはそっとその空き地から離れました」

「岸辺にあった足跡が唐木くんのものだけだったのは、そのためですね」

 私は、カフェレストラン『リバーサイド』の気のいい女主人から聞いた情報を思い出した。

 銀乃が私のほうを見ながら、

「私たちがいたあたりは岸辺から離れていたし、いろんな雑草が芝生のように地面を覆っていて、足跡が残らなかったんです」

 と補足する。

「どうしてあのとき、岸辺に駆け寄って唐木くんを助けようとしなかったのか。それがダメでも、どうして大人たちを呼んで助けを求めなかったのか。いま思い出しても後悔で心がふるえます」

 桃子は、テーブルの上に何かを探すようなしぐさをした。

 私は、桃子のグラスが仮眠スペースに置いたままになっていることに気付き、グラスを取ってきて麦茶のお代わりをそそぎ、自分と銀乃のためにハイボールのお代わりを作った。

 テーブルに戻り、各々にグラスを戻して無言のまま勧める。

 桃子は軽く頭を下げて麦茶を一口飲むと、

「それから私たちは、さっきの出来事は誰にも言わない、唐木くんとは会わなかったことにしよう、と約束しました。そのあとのことは、はっきりと憶えているような、何も憶えていないような、なんだか不思議な時間を過ごしたような気がします。私たちは、計画通り屋台が開く時間まで待ってから、お祭りに出かけました。神社の鳥居をくぐるとき、いつもは何でもないのに、そのときはすごく怖く感じました」

「そう、怖かった。鳥居がいつもの何倍も大きく見えた」

 目を閉じたまま、ひとりごとのように銀乃が言った。

「お祭りでは、二人とも、ことさら明るく振舞い、大声ではしゃぎまわりました。やたら食欲がわいて、次から次へと屋台の食べ物を買って食べました。あんず飴、チョコバナナ、たこ焼きにおでん、最後に焼きそばまで食べたんです。銀乃くんは金魚すくいに夢中になって、すくった金魚は、自分の家では飼えないからと傍で見ていた子供たちにあげていました。祭りばやしの太鼓がドン、ドンと響き渡ると、それに呼応して、ドクン、ドクンと私の心臓の鼓動が重なるようでした。異様な興奮のうちに時間はどんどん過ぎて、あっという間に終わりの時間がやってきました。さすがに暗い夜道は危ないというので、町内の小さい子の親たちが音頭を取って、遠征してきた子供たちみんなで揃ってぞろぞろと家路につきました。もちろん、唐木君の姿はそのなかにはありませんでした。途中、祭りのはっぴを着たいつもの青年団の人たちだけでなく、制服の警察官も何人か見回りをしているのに出会いました。遠くに小さく、パトカーの赤い回転灯を見つけたとき、経験したことがない感じで胸がザワザワしたのを忘れません。私の家のほうが神社に近かったので、私の家の前で銀乃くんと別れました。私が、『さよなら』と言うと、銀乃くんも、『さよなら』と言いました。玄関のドアを閉めたあと、涙がぼろぼろとこぼれて止まりませんでした」

 桃子は再び麦茶のグラスを手に取ると、ゴクゴクと何口か飲んだ。

 私と銀乃も、ハイボールをゴクゴクとのどに流し込んだ。

 土砂降りの雨が地面や空気を冷やしてくれたおかげで、いつもよりエアコンの利きはいいはずだった。それでものどが渇くとしたら、その原因は、おそらく違うところにあるのだろう。

「これがあの日に起こった出来事のすべてです」

 と桃子は言った。

 表情を読まれたくないのか、いつの間にか銀乃のサングラスが復活している。

「そのあとのことも聞かせてください」

 と私は言った。

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