七月の太陽

 翌朝、カーテンから漏れる強い日差しで目が覚めると、私は見知らぬ部屋のベッドに服のまま横になっていた。

 ベッドの上で上半身を起こして記憶をたどると、ここは由比ガ浜の銀乃のマンションで、昨夜バルコニーで銀乃と二人でかなりの量を飲んだあと、このゲストルームに案内されたことを思い出した。シャワーも勧められたが、一刻も早く横になりたかった私は、それを断って部屋に入るなりベッドに倒れこんだのだった。

 ゲストルームといっても、普通のマンションの居室にベッドと寝具、テーブルと椅子が一組置いてあるだけだったが、立ち上がってカーテンを開けると、梅雨明けしたかのような晴天で、無数の波頭のひとつひとつに朝日を反射させた相模湾が視界いっぱいに広がっているのには圧倒された。

 銀乃はゲストを呼んでパーティをやったことがないと言っていた。そうであれば、この部屋はいったい誰のために用意されていたのだろうか。

 リビングダイニングに出てみると、誰もいなかった。掃き出し窓は閉められてレースのカーテンが引かれ、無人の空間でエアコンだけが低くうなっている。昨夜料理が並んでいたダイニングテーブルもひととおり片付けられていて、そこに一枚のメモ書きが置かれていた。

 メモは銀乃が残したもので、急な用事で先に東京に戻ることになったので、申し訳ないが、あとは二人で適当に楽しんでくれ、といった内容が書かれていた。

 真朝の姿が見当たらなかったが、朝が弱いと言っていたので、おそらくまだ寝ているのだろう。

 仕方がないので私はひとりで外を散歩してみることにした。

 洗面室に行ってみると、私のために用意したのであろう未使用のタオルと、ホテルから持ち帰ったらしい使い捨て歯ブラシのセットが置いてあったのでそれを借りて顔を洗い、歯を磨いた。

 真朝を起こさないよう玄関のドアをそっと閉じて共用廊下に出る。昨夜とは逆に廊下を歩き、エレベーターで一階に降り、オートロックを抜けてエントランスを開くと、屋外の気温はすでにかなりの高さまで上昇していた。

 国道に出ると、歩道は朝一番のサーフィンを終えて陸に引き揚げてきたサーファー達で混雑していた。そのなかには、既にカラフルな水着に着替えた気の早い海水浴目当ての家族連れも何組か混じっていた。歩道から一段低くなった砂浜で開店準備をしている海の家を足元に眺めながら、海岸沿いにしばらくぶらぶらしてからマンションのほうに戻る。

 エントランスのドアを開いて風除室に入ったとき、自分がオートロックを解除する手段を持っていないことに初めて気が付いた。思考する時間は充分にあったはずだが、真朝に翻弄されてどこか余裕を失っているのだろうか。

 オートロックを開けるには、操作パネルに暗証番号を入力するか、鍵を差し込むか、あるいは住人に開錠してもらうかのいずれかが必要になる。もちろん、インターホンで真朝を呼び出せば解決する話だが、まだ寝ているかもしれない彼女を呼び出す気にはなれなかった。

 こうした場合に何とかする方策はいくつか持ち合わせてはいたが、朝早くに高級リゾートマンションで通用するような手だとはとても思えない。

 どうしたものかと左手にあるフロントに目をやると、出るときには下りていたカーテンが開いていて、中年の管理人がカウンターのガラス越しにこちらをじっと睨んでいた。ここの住人でない人間が早朝にオートロックのドアの前で思案しているからには、不審者に違いないと結論付けたのだろう。

「四〇七の銀乃ですが、ドアを開けてもらえますか。鍵を上に置いてきたもので」

 ダメもとで私が頼んでみると、ガラガラとカウンターのガラス窓が開いて、

「あんた、銀乃さんじゃないだろうが」

 口ヒゲをはやし、髪をバックになでつけた赤黒い日焼けの顔で管理人の男が応えた。制服の名札に『山岸』と書いてある。

「銀乃さんの部屋に招待されている者です」

 山岸は意地悪そうな目つきで、

「自己申告かい。それでロックを開けたら、俺がここにいる意味ねえわな」

「不審者をなかに通さない役目があります」

「俺の目の前にいるのが、その不審者なんだよ」

 カウンターの向こうから顎を私のほうに突き出す。

「なぜ決めつけるんですか」

「見ればわかる。俺は前に要人の身辺警護をやってたことがある。だからまともな人間か、そうでないかは相手を見た瞬間にわかるのさ。もし見逃せば、警護対象の命にかかわるからな」

「その経験を生かして、ステップアップしたんですね」

「言葉に気を付けろよ」

 山岸の腰が椅子から浮いて、日焼けしていてもはっきりとわかるほど、顔が真っ赤になった。

 私は自分のここでの立場を思い出して、少し言い過ぎたことに気付いた。

「すみません。なぜ要人警護を辞めたのかちょっと気になったんです」

 そのあたりも訓練されてきたのか、山岸はすぐに冷静さを取り戻した。

「ナイフだよ。当時俺は、そこそこ大きな会社の社長の警護を請け負っていて、その社長は強引な経営で良くない評判が立っていた。あるとき、警護中にサバイバルナイフを構えてその社長に襲いかかってきたヤツがいた。警護対象が危機に見舞われる経験は初めてだった。ステンレスのナイフがきらりと光るのを見たとき、ずいぶん切れ味がよさそうだなと思ったんだ。その瞬間、俺は恐怖で何もできなくなり立ちすくんでしまった。結局、一緒に組んでいた後輩が俺の前に出てナイフを警戒棒で打ち払い、そいつを地面に組み伏せて事なきを得た。何百回と訓練していても、俺は現実のナイフを前に手も足も出なかった。だから辞めたのさ。笑いたければ笑ったっていいんだぜ、不審者くん。でもあんただってあの場にいたらそうなったさ」

「そうかもしれません」

 山岸はニヤリと笑って、

「どうであれ、あんたをここから先へは行かせない」

 そのとき、オートロックのドアが左右に開いた。ドアの内側には真朝が立っていた。昨日とは違う無地の白いTシャツが、午前中の光にまぶしかった。

「周防さん、どこに行ってたんですか。部屋にいないので心配しました」

「ちょっと海岸を散歩してまして、いま戻るところでした」

「では戻りましょう」

 真朝は、山岸のほうをチラリと見て軽く頭を下げ、エレベーターのほうへと歩き出す。

 山岸はカウンターから身を乗り出すようにして真朝のほうに顔を向け、恐縮したように頭をペコリと下げた。

 再びドアが閉じないよう急いで真朝のあとを追いながらフロントを振り返ると、そこにはいかにも悔しそうな山岸のふたつの目があった。私がなかに入れたことだけでなく、不審者ごときにうっかり自分の過去をしゃべってしまったことも大いに後悔してのことだろう。

「銀乃は仕事のトラブルで、朝早くに東京に戻ってしまいました」

 エレベーターのなかで真朝が言った。

「そのようですね。大変な仕事です」

「昨夜は遅かったんですか」

「はい。何時に寝たのか覚えていません」

「こう言うのも変ですが、ありがとうございます。銀乃も楽しんだと思います」

 部屋に到着し、真朝は玄関を開けてスリッパに履き替えながら、

「周防さん、朝食はどうしますか?」

「お構いなく。まだアルコールが抜けていないので」

「それじゃあ、お茶を入れますね。暑いのでアイスティーでいいですか」

「お願いします」

 真朝がキッチンのカウンターでアイスティーを作っているあいだ、私はカウンターに背を向けたかたちでダイニングテーブルの椅子に座って待っていた。

 テーブルに置きっぱなしの真朝のスマートフォンが、ときおりブッとバイブ音を鳴らしてロック画面を点灯させる。さりげなくのぞいてみると、SNSのダイレクトメッセージの着信通知がずらりと並んでいた。

 ほとんど全部が、『返信お待ちしています』というような簡潔で短いメッセージだったが、差出人はすべてKKとなっていた。いくら事務的な連絡を装っても、こんな高頻度でメッセージを送信する業者はいない。KKというのは、季田完太のイニシャルに間違いないだろう。

 私は、イライラしながらメッセージを送信し続ける神経質な季田の姿を思い浮かべた。

 このあいだ私が銀乃邸を訪れた日、つまり季田が銀乃邸に吸い込まれた日以降に、真朝は髪をバッサリと切った。そしていま、季田からのメッセージを真朝は無視し続けている。もう季田とは縁を切ることにしたのかもしれない。

「お待たせしました」

 真朝がトールグラスに作ったアイスティーを二つ持ってきて、私と向かい合わせにダイニングテーブルに座った。

 しばらくの沈黙。

「周防さんは、私のことを動物的な人間だと思っているんでしょ」

 真朝がグラスについた水滴を指でなぞりながら言った。

「昨日のラジオですか。そうですね、そう思うときもあります」

「私は動物的な人間かもしれませんが、動物的な勘に優れてもいるんです。ラジオの女の人は、自分は動物的な勘に優れているけど動物的な人間じゃない、って言ってましたけど、逆に動物的な人間なら、動物的な勘に優れているのは当たり前です」

「今回については、その勘は外れるかもしれませんよ」

「当たったか外れたか決めるのは私ですから」

 最初に会ったときのように黒い瞳が深く大きく広がり、私は再び吸い込まれそうになる。目を伏せて真朝の手元のあたりに視線をやると、白い腕に処理を免れた産毛が銀色に輝いているのが見えた。それなりの相手とシチュエーションが揃えばオーケー、とラジオの女が頭のなかでささやく。昨夜の真朝の右膝の感触が生々しく甦り、自分の気持ちが昂ってくるのがわかる。

 私は目を閉じて深呼吸をした。密閉された窓の向こうから、聞こえるはずのない由比ガ浜の波の音が耳にこだました。

「もうやめましょう、奥さん」

 と私は言った。

「銀乃社長はあなたを愛しています。おそらく彼は過去に大きな問題を抱えていて、そのせいで、ときどきあなたから心が離れてしまう。そんなときあなたは、寂しさに耐え切れず過ちを犯してしまうんでしょう。でもあなたも銀乃社長を愛している。だから、僕が言うのもなんですが、もう少しだけ踏みとどまってみませんか。そのための手助けが僕にできるなら、それを僕にやらせてほしい」

 真朝はちょっと驚いたようなそぶりを見せたあと、

「周防さんが、私たちを助けてくれるんですか」

「僕に仕事を依頼してください」

「周防さん、いったいあなたは……」

「隠していてすみません。僕は由名時多朗。私立探偵です」


 東京に戻る準備をしたあと、銀乃がストックしていた乾燥パスタとレトルトのソースで、真朝が早めの昼食を作ってくれた。

 玄関を出て、真朝がドアに鍵を差し込んで回したとき、カチャン、と乾いた大きな音が廊下に響いた。

 オートロックを抜けて風除室に出ると、カウンターのガラス越しに、山岸が表情のない顔でこちらに視線を向けた。私を認めても、その表情に変化はなかった。もう私には興味がなくなったようだ。

 エントランスに近づいたとき、L字型で陰になっている宅配ボックスエリアから、突然男が飛び出してきた。

 無言のまま腰のあたりに両手で何かを構え、私の前を歩いていた真朝めがけて突進してきた男は、私の元依頼人で真朝のおそらく元不倫相手の季田完太。構えているのは、いまとなってはお馴染みのアウトドアナイフだった。勇気を振り絞って、外資系のネット通販で注文したものに違いない。

 私は真朝を前に突き飛ばして、前傾姿勢で季田を正面から迎えた。

 軌道修正できずに私のほうに全力で向かってくる季田の両腕の肘の内側を、私のいっぱいに伸ばした両手で受け止める。季田の前腕とナイフの長さではリーチが足りず、私の身体には届かない。そのまま季田を真朝のいる反対側に押しやり、真朝を庇うかたちで季田の前に立った。

 体勢を立て直した季田が再びこちらに向けてナイフを構える。私が前に立ちはだかっているために、そのまま襲っても真朝を刺せないと理解したのか、次の動きになかなか移らなかった。暑さのためか、興奮しているのか、いつまでも肩でハアハアと息をしている。

 季田の動きを注視しながら、チラリと管理人室の山岸のほうに目をやる。カウンターの向こうの山岸は、目が飛び出しそうなほど驚いた表情をしていたが、椅子に座ったまま何も行動を起こそうとはしなかった。

「そこまでにするんだ、季田」

 季田に視線を戻して私は言った。

「なんで探偵なんかが真朝と一緒にいるんだ?」

 ハアハアしながら季田が苛立った声を出す。

「この人は僕の依頼人だ。依頼人が危険な目に遭うのを僕は望まない」

 季田はナイフを握る両手に力を込めたようで、

「そこをどいていただきたい」

 精一杯に凄んでくる。

「いやだ。君のメンタルとナイフのスキルじゃ、僕をどかしてこの人は刺せない。君が活躍する場はここじゃない」

 季田の断食した飼い犬のような目が急に宙を泳ぎ、ナイフの刃先が少し下にさがった。

「君の身元は割れている。このままあがいて警察に突き出されるか、いますぐそのドアから出ていって二度とこの人の前に現れないか、どっちかを選ぶんだ」

 私は、エントランスのドアを指さした。

 季田は口をパクパクさせて何か言おうとしたが、結局言葉を発しないまま真朝を一瞥すると、ドアを押し開けてフラフラと屋外へ歩き去った。

 カウンターのガラス窓が開いて、表情の戻った山岸が興奮気味に首を突き出す。

「すげえな、あんた。本物のナイフに素手で立ち向かうヤツを俺は人生で初めて見た。俺の後輩だって、警戒棒が必要だったんだ。どうやらあんたも本物みたいだな」

「この人を守ろうとしただけです」

 真朝のほうを見ながら私は言った。

「どうする? 警察を呼んだほうがいいのかな」

 明らかにうわべだけとわかる口調で山岸が聞いてくる。

「あの男はもうここには来ません。あなたがたも警察沙汰になんかしたくないはずです」

「わかった。警察は呼ばないことにする」

 山岸は、ホッとしたように言うと、緊張をほぐすためか両方の肩をぐるぐると回した。

 エントランスを出ると、七月の太陽が私と真朝を照らした。

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