応接間の若妻
週明けの昼近くになってから、アイマヤに電話を掛けた。
月曜朝のドタバタの時間を避けて電話を掛けるのは、基本的なビジネスマナーだ。
「はい、アイマヤでございます」
ベンチャーらしい、はきはきした若い男子社員が電話口に出た。
「次世代ビジネス推進協議会の者です。銀乃社長をお願いできますか」
デタラメの業界団体を名乗って銀乃を呼び出してみる。
「少々お待ちください」
保留音がしばらく続いたあとで、
「アイマヤミヤマと申します」
と、少し鼻にかかったような声の若い女が代わった。ミヤマという名前らしいが、社長秘書に近い立場の人間だろうか。
「次世代ビジネス推進協議会ですが、銀乃社長をお願いします」
セオリーに従い、再度ていねいに伝えると、
「あいにく、銀乃は本日は出社しておりません」
アニメの声優でもできそうな甘い鼻声で女が応えた。元気のいい声だったが、マニュアル通りの棒読みだった。
「それは困ったな。来期の理事の選出の件で、銀乃社長から連絡をもらうはずだったんだけど、なにかお身体の具合でも?」
口からの出まかせをすっかり信じたらしいアニメ女子が、
「いえ、今日、明日と大阪に出張で、水曜日は終日自宅で事務処理をする予定だそうです」
これでミッションはクリアできた。あとはオマケの寸劇を演じればいい。
「そうでしたか。それほど急ぎではないので、木曜日以降にまた改めてご連絡します」
「お手数をおかけします。よろしくお願いいたします」
アニメ声が応える。
「ところで、アイマヤミヤマ、早口言葉のようですね」
「最初はうまく言えませんでしたけど、いまはもう慣れました。他にご用件は?」
「アイマヤミヤマ。何かやさしい、いい感じの響きです」
「他にご用件は?」
カラフルなアニメ声が不意に冷たいモノトーンに変わり、受話器の向こう側に強力な結界が張られる。
「いや、お手数をおかけしました」
私は、深追いするのはやめて、礼を言って電話を切った。
水曜日の午前中、あらかじめ調べてあった銀乃の自宅に向かうことにした。想定より二日遅れてのコンタクトとなる。
菱谷錠と名乗った男のことが多少気がかりだったが、慌てて大阪まで銀乃を追いかけたところで、大局に変わりはないだろうと結論した。
銀乃充の現住所は世田谷区にあり、井東優里が住んでいる小田急線T駅のひとつ新宿寄りのK駅にある。それが単なる偶然なのか、何か意味があるのか、いまはまだ判断がつかなかった。
K駅は優等列車が停車する大き目の駅だった。グーグルマップで場所を確認すると、銀乃の家は、駅北口のロータリーから商店街を抜けて、曲がりくねった住宅街の隘路を数百メートルほど北西に歩いたところにあった。
車を使うことに決めていたが、駅前の道路が狭く混雑しているため、私は銀乃の家より北側にあるバス通りから逆に駅のほうに向かう形で、目的地の近くまで行くことにした。
ちょうど銀乃の家から駅のほうに少し戻ったところにコインパーキングがあったので、そこに止めることにする。
コインパーキングはできたばかりらしく、黒光りしたアスファルトに黄色のペンキの境界線が生々しかった。このあたりは道が狭くて様々な制約があるにもかかわらず地価がかなりの高額になるため、相続人が処分について考えあぐねて、一時的に駐車場にでもしてみたのかもしれない。
銀乃邸は、きれいに刈り込まれた生垣に囲まれた古い大きな木造の平屋だった。
土地の広さは、最近建てられた三階建ての狭小住宅に換算すれば、十軒は建てられるだろうと思える広さで、門の脇には太い松の木がどっしりと構えていた。
生垣越しに見える庭先には、樹齢百年を超えていると思われるケヤキの大木が、目いっぱい葉を茂らせている。大きく張り出したいくつもの枝が、庭の広い範囲を薄暗い木陰に変えていた。
平屋建ての家屋は、瓦葺きの在来工法で、築七十年ぐらいは経っているだろう。
もちろん、住宅としての機能を維持するためのリフォームは都度行ってきたと思われるが、風雨に晒されて煤けた栗色に褪色した木壁と、白いしっくい壁のコントラストは、近代的な住宅に囲まれたなかにあって、逆に何か新鮮な感じを受けた。
家屋と同様に古い木造の、庇のついた引き戸の門扉の前に立ち、インターホンのボタンを押す。インターホンの上に掲げられた表札には『銀乃』と書かれてあったが、最近新しく付け替えたもののように見えた。
「はい……」
若い女の声が、抑揚のない暗いトーンで応える。
「ライターの周防と申します。銀乃社長に取材の約束をいただいてます」
もちろんデタラメだったが、家族は同居する人間の仕事内容について、たいてい詳しく知らないか無関心であるため、会社より自宅に押しかけたほうがウソが通用しやすい。それになにより、アイマヤのオフィスに銀乃を訪問して、その一挙一動を絵鳥に把握されてニヤニヤされるのが嫌だった。
「いま行きますので、ちょっとお待ちください」
門前払いではないようだった。銀乃が本当に取材の約束をしたのか、半信半疑というよりは、実際にわからないのだろう。
門の奥で、ガラガラと玄関の引き戸を開ける音がして、ほどなく門が開けられた。
出てきたのは、銀乃充ではなかった。
「銀乃の妻です」
上目遣いにちょこんと頭を下げ、少しのあいだ口の端で微笑んだ。
どうみても二十代前半、胸までのロングストレートの黒髪が少々重たく感じられたが、思わず吸い込まれそうな瞳の大きさがそれを帳消しにしている。
黒のタンクトップのインナーが透けて見えるぴったりとした白いレースの七分袖のシャツを羽織り、下はデニムのスリムパンツ、ほっそりとした印象だが、ファッションモデルのように痩せているわけではなかった。
自宅の玄関先だから当たり前だが素足にサンダル履きで、甲バンドから覗いている白い足指は、つい目を向けずにはいられない何かがあった。
「あいにく銀乃は、今日は鎌倉のマンションのほうで作業してまして。もしかして、あの、銀乃は取材をすっぽかしたんでしょうか」
本当に申し訳ないといった風に、少し泣きそうな顔を私に向ける。
「まあ、そいういうわけでもないんですが、僕が勝手に押しかけたことも事実です」
私は銀乃の妻の色白の顔とつま先とを交互に見やりながら、曖昧な返事をした。
「銀乃も気まぐれなので。ごめんなさい、お忙しいのに。取材は彼の仕事に関することでしたでしょうか」
「実はいまのところまだ、自分でもはっきりしないんです。銀乃社長の何を追いかけたらいいのか。そもそも銀乃社長とはどんな人物なのか」
銀乃の妻はちょっと拍子抜けしたようで、フフッと口に手を当てて笑いながら、
「おかしな人ですね。もしよろしければ、私が代わりにお答えしましょうか?」
「大変ありがたいことです」
「構いませんよ。それでは、ちょっと家にお上がりください」
いきなりの提案に私は少し戸惑って、
「いいんですか、知らない男を家に入れて」
「だってきちんとした取材のライターさんなんですよね」
と真面目な表情を作って、
「自分で言うのもなんですけど、こんな昔風情のお屋敷ですから、一応それなりの応接間があるんです。両親が生きていたころは、毎日のようにいろんなお客さんが家に上がってました」
「では、少しお邪魔させてもらいます。自分に自信はありませんがね」
「どういうことですか?」
不思議そうに私の顔を見つめる。
「あなたの足先ばかり気になってしまいそうです」
銀乃の妻は警戒するように、すっと足を引いて、
「すみません、だらしなくて」
「ありのままの自然を否定することは誰にもできません」
「フフ、そういうキャラなんですか」
と、おかしそうに笑う。
「そういうキャラです」
私は、銀乃の妻のあとについて玄関をくぐり、彼女が出してくれたスリッパを履いて廊下に上がった。彼女も同じスリッパを履いたが、スリッパは前かぶりでつま先が隠れるタイプだった。
応接間は、黒光りする廊下を数歩もいかない左手にあり、彼女は真鍮のノブを回してドアを引き開けると、「どうぞ」と、私を先になかへ通した。
そこは、日本家屋のなかにつくられた洋間をベースとした、いわゆる典型的な和洋折衷の応接間だった。そうした応接間のほとんどがそうであるように、薄暗く、湿った空気に包まれていて、少し黴臭かった。
「ソファにおかけになっててください。冷たい飲み物をお持ちしますね」
何やらお中元を届けに来た親戚のような気分になりながら、言われるままに三人掛けのソファの真ん中に腰を下ろし、部屋の外へでていく彼女の後姿を目で追いかけた。
彼女が消えたあと、改めて部屋のなかを見回してみる。いかにも昭和の時代にあつらえられた応接セット一式といった感じで、モノはいいのだろうが、全体的に色あせてくたびれた印象を受けた。
ガラス戸の先に広がる庭のほうに目をやると、左手にさっき外から見たケヤキがあり、その右側には、ケヤキに負けないような大イチョウが二本、堂々とした幹でその存在を誇示していた。他に名前のわからない柑橘類の低木がいくつか植えられ、手前のほうには花の季節を終えたツツジが数株、ポッコリと緑の小山をつくっている。
ツツジと家屋を隔てる通路には飛び石がアレンジされていたが、石と石の間のあちこちから、色々な種類の雑草が元気よく顔を出していた。庭の手入れにはあまり関心がないのだろう。
銀乃の妻が冷たい麦茶を二つ盆にのせて戻ってきたので、例によってライターの名刺を渡した。
「ライターの周防です」
「銀乃充の妻です。まあさ、といいます」
「マーサですか。ご両親のどちらかが外国の方?」
「フフフ、まさか。この顔は日本人じゃないですか。漢字で書くんです。真実の真に、朝昼晩の朝です」
真朝は少し照れたように目を伏せて答える。
「いい名前です。顔だけでなく名前まで美人なわけだ」
「だといいですけど」
ふてたような仕草をしてみせるが、目は笑っている。
「失礼ですが、ずいぶん若い奥さんだ」
「フフ、実はまだ二十二なんです。銀乃とは六つ違いです。私は二年前の春、専門学校でデザインを学んで、銀乃の会社に入社しました。これといった将来の目標があったわけでもなく、ただ何となく面接を受けたら受かってしまった、という感じで、私なんかでいいのかな、という気持ちはずっとありました。格式ばらないベンチャーですから、当時は銀乃もガンガン現場に出てきて仕事を仕切っていて、私も新人ながらよく声をかけてもらってました。そのうちにお互いに好意を持つようになり、主に私のほうからアプローチしたんですけど、半年後には結婚式を挙げていました」
「つまり、スピード婚ですね」
ちゃんと話を聞いていることをアピールする。
「ええ。結婚を機に私は就職したばかりの会社を辞め、当初は夫婦で豊洲のマンションに住んでいたんですが、父が昨年亡くなって、母は私が小さいときにすでに亡くなっていたので、ひとり娘の私がこの家を継ぐことになったんです。こんな家ですが、売ってしまうには多少愛着もありますし、人に貸すのもどうか、ということになり、豊洲のマンションを引き払ってここに夫婦で引っ越してきたというわけです。今日、彼が行っているのが、豊洲のマンションから買い替えた、鎌倉の由比ガ浜にあるマンションで、主に彼の別邸として、仕事や休暇に使用しています」
「彼は、ここでは仕事をしづらいのですか?」
なぜそう聞いたのかはわからない。ただ思ったことを口にしただけだった。
「そういうこともあるかもしれません。彼は、疲れたり調子が悪いときなどは特に、ひとりになりたくなるときがあるようで、そんなとき私は何の役にも立たないんです」
私は、自分の何気ない質問に対する意外な反応に戸惑いながら、
「男にはそういうときがありますよ」
「はい、男の人のことは少しは分かっているつもりなんですけど、そういうのとは違う気がするんです。何かのタイミングで突然、彼の周りにバリアができるというか……、そうなると私は、どうしようもなくひとりぼっちになってしまって……」
真朝は、何かを訴えるような目で私をじっと見ながら続ける。
「それで、その原因というのが……。ちょっと待ってくださいね、見せたいものが」
彼女はそそくさと立ち上がり、部屋を出て行った。
私はひとり応接間で待ちながら、夫婦のプライベートな話を打ち明ける真朝に対して、初対面の人間にずいぶん無防備なんだなと思う一方、そんな話をする彼女に不審の念はわかず、むしろその素直さを好ましく感じた。
ただし、その警戒心のなさが悪いほうに転べば、さまざまな局面で相手を誤解させることになるわけだが。
やがて真朝が、手に写真を一枚ひらひらさせながら戻ってきた。
どこかいそいそした感じで、三人掛けのソファの私の真横に座ってくる。距離の判断を誤ったのか、デニムの太ももが私のズボンにピッタリとくっつくかたちで着地したが、彼女は気に留めていないようだった。
「ちょっと、この写真を見てもらえますか」
私は真朝が渡してきた写真を受け取って、そこに写っているものを見た。
L版のプリント写真に写っているのは、小学生と思われる二人の男女だった。
どちらかの家の前なのか、戸建ての玄関口に立つ二人の上半身アップは、何かの行事の日だったらしく、体操服姿だった。
撮影者が笑わせ過ぎたのだろう、男の子は顔をのけぞらせて、女の子はうつむいて手の甲を口に当て、二人とも大笑いしている。被写体が動いてしまったためか、顔のあたりはかなりブレていたが、二人の胸のゼッケンは、はっきりと読み取ることができた。
そこには、それぞれ『5‐2 銀乃充』、『5‐2 森不二緒』と太い黒のマジックで書かれていた。
「銀乃社長が小学生のときの写真ですね。五年生のようだ」
とゼッケンに書かれた数字を指さす。
「生まれてから高校まで、P県のQ市というところに住んでいたみたいです」
「あなたはさっき、何か思い当たることがあるといってこの写真を取りにいきました」
真朝は、ぐっと私のほうに顔を近づけて写真をのぞき込む。レースのシャツの腕が密着し、どこかで嗅いだことのある香水のかすかな匂いが鼻腔に届いた。
「ええ、この森という女の子、この子が原因なんじゃないかと思うことがあるんです」
私は、うつむいて笑う女の子をあらためて眺めながら、
「名前はフジオと読むんでしょうか」
「そうだと思います。他に読めませんから」
「彼はいまでも、この人に会っているんですか」
彼女が私のほうに顔を向けると、異様なほど近くに彼女の二つの瞳があった。その黒く大きく、何か底なしの深さを感じさせる瞳は、私をひどく動揺させた。
「この写真は、私が、以前銀乃と二人で本棚の整理をしていたときに、彼の本のあいだに挟まっていたのを見つけたものです。そのときに冗談で、『彼女だったの?』と聞いたら、そういうのではないし、この子は五年生の終わりにどこかへ転校してしまって、それ以来会ったことはない、といっていました。そのときは、何しろ小学生のときのことですし、彼の言葉をそのまま信じてしまったんですけど……」
真朝の瞳がなにか妖しげな光を宿しはじめ、もし私がこのまま彼女の顔を手で引き寄せて唇をふさいでも、きっと抵抗しないだろうと確信できた。それどころか、むしろ彼女が、そうされることを期待しているようにさえ思えてくる。
私は、自分の行動に自制が効かなくなることをおそれ、すっと彼女から身を引いて、
「いまでも彼の心は森不二緒にある、というわけだ」
真朝は、自分の胸のあたりを守るようにしながら、私が離れたのと同じ距離だけ自分も離れた。
「いやです。それ以上は言わないでください」
身体が離れた分だけ、気持ちも離れたようだった。
「わかりました。今日はこれくらいにしましょう」
私はソファから立ち上がり、
「差し支えなければ、鎌倉のマンションの住所を教えていただけませんか。どうやら、彼から聞きたいことが、また増えてしまったようだ」
真朝もそそくさと立ち上がる。
「はい。どうせ調べればすぐわかることですから」
「午後から出かけてみるつもりです」
私は教えられた住所をメモすると、麦茶の礼を言って玄関を出た。薄暗い屋敷のなかから外に出たとき、なぜかホッとした気持ちになった。
来たときには気付かなかった玄関脇のヤツデの仲間の、濡れたような緑が目にしみた。
駐車場まで戻り、料金を精算してから車に乗り込む。
どのルートで鎌倉まで行こうか考えながらシートベルトを締め、エンジンをかけようとしたところで、前の道路を銀乃の家のほうに早足で向かう男の姿が目に留まった。
戸建てに挟まれた小さな駐車場なので、男はすぐに家屋の影に入って視界から消えたが、私はその男に見覚えがあった。
モジャモジャ頭に長めの顎ヒゲ、ずんぐりした体型で生真面目に歩く姿は、私の依頼人である季田完太に間違いなかった。
再び車から降りて、塀の影から季田の様子をうかがう。今日は会社を休んだのか季田は手ぶらで、ポロシャツにチノパンという軽装だった。
季田はまっすぐに銀乃の家の前まで歩いていくと、門の前に立ってそそくさと左右を見回したあと、インターホンのボタンを押した。私には気付いていないようだった。
しばらくすると例の門扉が開いて、季田は門の内側にいる人間と、ごにょごにょと話を始めた。小声で何か言い争っているようにも見える。
突然、門のなかからレースの七分袖の腕が伸びてきて、季田の左腕をぐいと掴むと、そのままなかへ引き込んでしまった。
ガラガラと門の引き戸が閉じられ、あとには静寂が残った。
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