地球人の遊具

 夕方まで、期限の迫っていた別の案件の報告書を仕上げてプリントアウトし、郵送する準備をした。

 その案件は、やっていて気持ちのいい仕事ではなく、どちらかと言えばひどく気が滅入る仕事だったが、暮らしていくためには受けなければならない仕事だった。これで、もうこの案件の依頼人と会わなくて済むかと思うと、正直なところ心が軽くなった。

 探偵の仕事の特徴のひとつは、いくら質の高い仕事をしたところで、依頼人から、「じゃあ、次もお願いしますね」とはならないところだ。

 依頼人はいつもギリギリの切羽づまった心理状態で私のところにやってきて、ドタバタのなかで時間が過ぎていき、納得できる成果が得られたと見るや、さっと引き上げてもう二度とここへやってくることはない。「万一街中で出会っても、お互い完全な他人ですからね」と、わざわざ念を押されたことさえあった。こちらとしてもそれは重々心得ているわけだが、それでもあまり気分のいい体験ではなかった。

 つまり、マーケティングで言うところのリピーターというものが存在しない。依頼人は、長い人生のなかでたった一度だけ、真夏の夜のはかない夢のように探偵と関わる。

 ただし結末は悲劇に終わることも少なくない。

 しかしながらこの特徴は、私にとっては都合のいいことでもあった。依頼人との一度きりの関係に全力を尽くし、その後ダラダラと付き合わずに済むというのは、私の性格に合っているようだった。

 たとえどんなに礼儀正しく、物わかりの良い依頼人だったとしても。

 午後五時を回ったあたりで、私は車を出して再び高円寺へ向かうことにした。アイマヤ社長の銀乃充なる人物が興味を持って部下に調べさせている、ファンアローの社長・民矢桃子にアプローチするためだった。

 昼過ぎまで降っていた雨はほぼ上がっていて、フロントガラスをきしむような音を立ててこする間欠ワイパーの動きが煩わしく感じられる。私はワイパーを止め、時折ポツポツと落ちてくる水滴を放置して自然に乾くのに任せた。

 高円寺に着き、ついこのあいだ、井東優里を尾行したときに止めたのと同じコインパーキングに車を止め、同じようにファンアロー社の前まで歩き、通りを挟んだ向かい側で女が出てくるのを待つ。

 我ながら、いったい自分は何をしているのだろうと思う。性に合っているとはいえ、なんともおかしな職業があるものだ。今週に入って二度も、蒸し暑いさなかに、同じ場所で同じ時間に若い女を待ち伏せしている。

 しかも誰にもばれないように気を配りながら。

 おまけに今回は、暮らしていくために必要な仕事であるかというと、それも極めて怪しかった。


 精神衛生上よいとは思えないことを頭に浮かぶにまかせながら一時間と少し待って、民矢桃子が井東優里と二人でビルから出てきたのは、午後七時を過ぎたところだった。

 二人連れだって駅へ向かったが、桃子は途中で優里と別れ、ひとり脇道へ折れた。

 想定外の行動だった。桃子を見失わないためには、すぐにバス通りを横切らなければならない。横断歩道までは距離があったため、車が切れるのを待つのももどかしく、車道を小走りに横切った。念のため優里の行方を確かめようと駅のほうをちらりと見たが、人ごみに消されて、もうその姿は見えなかった。

 脇道に入り、一定の距離をおいて桃子のあとをつけていく。

 桃子は後ろを振り返ることなく、まるで散歩でもするかのようにのんびりと歩いて、やがてビルのあいだに現れた小さな公園のなかに入っていった。

 気持ち時間をおいてから公園に入る。

 ちょうど日が沈んだところで、誰もいなくなった園内を人工的な白色LEDの街灯が明るく照らしていた。遊ぶ子供たちの姿がない無人のブランコやすべり台が、まるで人類が初めて目にする異星人の妖しい装置のように思えてくる。

 桃子は、まだ多少湿っていたのか木製のベンチにハンカチを敷いて座り、暮れおちたばかりの曇った夜空を見上げていた。今日は薄い水色の夏物スーツで、ベージュのハイヒールが雨で湿った黒い土にめり込んでいる。

 私は、広くはない園内を他意のない風でゆっくりと一回り歩いてから、桃子の座っているベンチに近づいた。

「ふるさとのアンドロメダが、雲に隠れて淋しいですか? 王女様」

 彼女のコミュニケーション耐性を測るために、バカなセリフを投げてみる。

「アンドロメダは、まだ季節じゃありませんけど?」

 桃子は、立っている私に向けて顔を上げ、まるで知人にするように笑顔で応じた。

 ミディアムにまとめた髪の先端がさらりと肩の上を流れる。キラキラ輝く瞳は、季田が持ってきた週刊誌で見た写真そのままだった。スーツの左胸の上部には、例のライオンの顔のブローチが、街灯の光を受けて鈍く輝いていた。

 なるほど二十代で社長を務めるだけのことはある。普通なら、頭のネジがゆるんだ危ない男だと判断して、無視するか、この場から走って逃げ去るかだろう。下手をしたら110番をされる可能性さえ、なきにしもあらずだ。

「見えてなくても、アンドロメダ銀河はちゃんと同じ場所にあります。地動説が証明されてからは」

 と私は話をつないだが、それにはとりあわず、

「以前どこかでお会いしてましたっけ?」

 桃子は、少し目を細め、私の顔が既知のものかどうか確認するように見つめた。

「ひと月ほど前に、週刊誌のグラビアで」

 私が答えると、フフフと笑って、

「失敗でした。あの雑誌が出てから、いろんな人に声を掛けられるんです」

「デキる男ほど、放っておかないでしょうね」

 桃子は、私の言葉の意味をちょっと考えて、さらに大きく笑う。

 私は、横長のベンチの桃子の隣に腰を下ろし、

「実は、民矢社長のことを知りたくて、会社からあとをつけていました」

「どういうことでしょう?」

 いぶかしげにこちらを見る。

「ライターの周防と申します」

 絵鳥に渡したのと同じライターの名刺を差し出し、

「ファンアロー社、そして民矢桃子さん、あなたに非常に興味がありましてね」

「また何か雑誌にでも掲載されるんでしょうか」

「いえ、まだ何も決まっていません。僕はフリーのライターなので、独自にネタを探しているんです。イケると思ったら記事にして、ニュースサイトやウェブマガジンに売り込みます。このご時世ですから、紙の媒体とはずいぶん疎遠になりました」

「たいしたことないですよ、ファンアローは」

 桃子は前を向いたまま、ひとりごとのように言った。私に横顔を見せたまま、うつむいて泥に汚れたつま先を見つめている。

「シェアリング・エコノミー・サービスはこれから成長が期待される分野らしいですね」

「本来は消費者間での取り引きを指す言葉なんですが、現実には私たちのように企業間の取り引きをサポートするサービスも広がってきています」

「個人、企業を問わず、いまあるサービスの〈合間〉をぬって、これまで見落とされていた時間、空間、スキルを価値あるものに変える。現代の錬金術のようです」

 私はあえて〈合間〉という言葉を使い、アイマヤを連想させてみる。

 桃子は意に介さず、

「私たちはただ、取り引きの場を提供しているだけです。そこに価値を創り出すのは、あくまで取り引きの当事者同士ですから。当事者同士がウィン・ウィンの関係を築くために、そのスタンスを守ることは割と重要だと思っています」

「取り引きの場を提供するだけ……。そのせいでしょうか、参入障壁は低いと聞きました。同業者間での競争は、さぞや激しいんでしょうね」

「相手と資本力の差が大きいときは、どうにもならないことも多いです。アイディアだけで勝負するには、やっぱり限界があるんです」

「例えばですが、ライバル社にアイディアを盗まれた、といった経験はありますか」

 直球を投げてみる。桃子は特に表情も変わらず、

「そう感じるときもあります。ただ、ファンアローの考えるアイディアは、素朴で当たり前の、シンプルなものばかりで、仮に他社に先を越されたとしても、それがファンアローに何か決定的な問題を引き起こすことにはならないと思っています」

「ビジネスの土台がしっかりしているんでしょうね」

「成長よりもシェア、共有ですから」

 控えめな口調で応える。

「目指すは社会貢献というわけだ」

「そうありたいとはいつも思っています」

 桃子は、一瞬こちらをチラと見たあと、また元のように前を向いて、

「ただ私の場合、社会のために何かしなければいけない、自分だけが儲かってはいけない、と思いながら頑張ってきて、気が付いたらこうなっていた、というのが正直なところなんです。もっと野心とか持ったほうがいいと、よく人から言われるんですけど」

「経営者の鏡です。自社の儲けばかり考えているようではダメらしい」

 私は季田との会話を思い出しながら言った。

「私はそうでも、社員たちには豊かな生活をしてもらわなくてはなりません」

「もちろんです。ただ、ちょっと気になったことが」

「えっ」というように桃子がこちらに視線を向ける。

「いまあなたは、『社会のために何かしなければいけない、自分だけが儲かってはいけない』と言いました。でも、普通は経営者と呼ばれる人種なら『社会のために何かをしたい、たくさんの人が儲かるようにしたい』といったポジティブな言い方をするんじゃないでしょうか。なぜあなたは『いけない』という表現を使ったんだろう」

 生暖かく湿った突風が吹いて、桃子の髪が彼女自身の小さな顔を覆った。風はすぐに止んだ。ハラリと髪が元の位置に戻る。

「私は、罰を受けなければいけない、と思っているのかもしれません」

 LEDの明るい街灯の下だというのに、桃子の表情はいまひとつつかめない。

「また『いけない』が出ました。よけいあなたに興味が出てきた」

 桃子はすっと立ち上がり、

「これ以上お話しするほど、周防さんとはまだ、ぜんぜん親しくないですから」

 狭い公園の、ブランコのあるエリアまで小走りに走っていく。私のほうを振り返り、

「イスがまだびちゃびちゃ。今日はブランコは無理だなあ」

 桃子を獲得したブランコが、異星人の装置から馴染み深い地球人の遊具に戻る。あるいは桃子は、未知の装置を操る異星人なのか。

 私も立ち上がり、ゆっくり歩いてあとを追う。

「この公園に、よく来るようですね」

「仕事がうまく捗らないときとか、ここでひとりでリフレッシュする習慣ができちゃったんです。リフレッシュというより、リセット、かな」

「リフレッシュは希望、リセットは後悔のイメージです」

「後悔?」

「リセットすることは、いままでを否定することでしょう?」

「無邪気にブランコに乗れた子供時代に戻りたいのかもしれません。夕飯の支度ができたと公園に母が迎えに来ても、友達と笑い合いながら、いつまでも夕焼けのブランコから降りようとしない、そんな時代に」

 ブランコの周りを囲む安全柵に沿って歩く桃子の靴は、すでにつま先から踵まで黒い泥に汚れていたが、そういうことはあまり気にならない性格のようだった。

「また今度、詳しい話を聞かせてください。もっと親しくなってからでいいので」

 と私は言った。

「今後の検討課題としておきます」

 微かに笑いの混じった返答に、ある種の手応えを感じながら、

「あともうひとつ、アイマヤという会社は知ってますよね」

「もちろん、同業ですから」

「即答しましたね。何か特別な関係でも?」

「いえ、成功している同業他社として認識しているというだけです」

「アイマヤの社長のことは?」

「名前はときどき耳にしたかもしれませんが、憶えていません」

「会ったことはない?」

「会ったことはありません。それが何か?」

 不思議そうに首を少しかしげ、細めた目でこちらを見る。

「いえ、僕も知っている会社でしたので」

「アイマヤはとても素晴らしい会社みたいですね。アイマヤとは、これからも共存できたらいいな、と思っています」

「やっぱり、さすがです」

 桃子は何か言いたそうに曖昧に微笑んだあと、不意に私に向かってバイバイ、と手を振ると、そのままサッと背を向けて公園の出口のほうへ歩き出した。


 駅のほうへ向かう桃子の背中を見送ったあと、コインパーキングまで戻ると、私の車のボンネットに両手をついて寄りかかり、男がひとり空を見上げていた。

 私の車は海外ブランドの高級車ではなかったし、今月納車されたばかりの新車でもなかったが、知らない男にべったりと手のひらを付けられるほど安くみられる覚えもなかった。

 男は、ヨーロッパに本社のある格安のファッションブランドでよく見るような奇抜な柄のプリントシャツを着ていて、ボタンを少なくとも二つ以上は外して胸元を開けていた。

 髪は短く刈り込まれ、その下に続く四角張った大きな顔と中肉中背の身体は、他の髪型を選択するという可能性を見事なまでに排除していた。

 そのような男がひとり空を見上げている様は、ロマンティックの対極にあるような滑稽さが感じられた。

「ずいぶん大っぴらに動いてくれるじゃねえか、探偵」

 私の顔を認めると、男はしわがれた低い声で話しかけてきた。自分ではドスの効いた声だと思っているのだろう。

「何のことだかわからないな」

「民矢桃子を嗅ぎまわるのはやめるんだな」

 一見したところ、四十代手前ぐらいに見えないこともないが、この手の男は実際より年上にみられたがるし、そのように日々努力していることが多い。実際には三十代前半ぐらいなのかもしれない。

「やっぱり何を言ってるのかわからないし、僕の車に手を突くのもやめてほしい。無駄な洗車はしたくないんだ」

 男はボンネットに突いていた手の平を拳にして、バンッとボンネットを叩く。車のボディ全体がグラリと揺れる。

「洗車で済めばラッキーだろうな。ほら、こんなものもあるんだぜ」

 そう言いながら男は、いつのまにか手にしていたアウトドア用のフォールディングナイフをカチッと開いて私のほうに刃先を向けた。

 私はひどく疲れを感じて、

「それがどうかしたのか。いまからそれで僕に、タネがバレバレのマジックでも披露するのか?」

「民矢桃子に近づくな、と言ってるんだ。さっきおまえが桃子と公園にいたことを俺は知ってるんだぜ。それでも分からないっていうんなら……」

 男はいきなりナイフを逆手に持って、私の車のボンネットに突き立てた。カツンと乾いた音がした。

 防犯の観点から駐車場内は街灯に明るく照らされていたが、それでも被害の状況が分かるほどの光量はなかった。目立つような傷は付かなかったかもしれないが、ピンホールのような跡がついた可能性がある。

「今度はおまえの身体のどこかが、こうなるってことだよ」

「僕は必要だと思ったときに、必要な人間に会う。それは誰にも止めることはできない。特に君のようなタイプの人間には」

「だからこうして実力行使に出てんじゃねえか」

 私はズボンのポケットに両手を突っ込むと、男の顔を正面から見つめて言った。

「この何日か、毎日のように個性的な人間が僕の前に現れた。個性的という点だけで見れば、君もそのうちのひとりだろう。だけど君のように時代遅れな人間は初めてだ。その意味では、本音ベースでびっくりした」

「俺のファッションがダサいっていうのか?」

「服なんてどうでもいい」

 私は、フロントグラス越しに車内のルームミラーの横を指さして、

「君にはこのドライブレコーダーが見えていないのか。さっき君がボンネットを拳で叩いて車を揺らしたときから、ドライブレコーダーのモーションセンサーが感知して録画が始まっているんだ。多少暗いにしても、君が僕の車のボンネットにそのいかついナイフをいかつい顔で突き立てている映像はしっかり記録されている。それを警察に渡せば、君がどうなるかはわかるだろう?」

 男はひるんだ様子で車から何歩か離れると、ナイフをパチンと閉じてズボンのポケットにしまった。

「なるほどタダ者じゃないってことか。まあいいだろう」

 気になるのかドライブレコーダーのカメラのあたりをチラチラ見ながら、

「俺は、金を手に入れようと決めた。おまえが想像するようなチンケな額じゃねえぞ。これまで生きてきてわかったんだが、金があれば大抵の問題は解決できるし、金を稼ぐための無駄な労働に人生を費やすこともない。難しいことといえば、自分が本当に望んだ女が手に入らないことぐらいだろうな。金では落ちない女がいるんだ。ところが人生っていうのは面白いもんで、いま、その両方、つまり不自由しない金と望みの女とを同時に手に入れるチャンスが俺に巡ってきたんだよ。だからそれをおまえなんかに邪魔されたくないってことだ」

 そこまでひと息に話したあと、私に値踏みするような視線を向けて、

「だがまあ、おまえもそこそこ頭がよさそうだし、これから先、場合によってはおまえと組むこともあるかもしれねえな」

 と妙に親しげな声音で言った。

「地球が太陽の熱で溶けてしまうまでの長い年月のあいだにはそんな機会もあるかもしれないが、僕が生きているあいだは難しいだろうな」

 男は、外国人に知らない言語で道を聞かれた通行人のような顔をすると、

「ヘンなことを言うヤツだ。まあいい、俺は菱谷錠っていうんだ。ジョーは錠前の錠。近いうちまた会うだろうから覚えておいてくれ」

 そう言い残して、菱谷と名乗った男は、早足で私の前から去っていった。

 いったい、いま起こったことは何だったのだろう。私は少なからず混乱した。

 菱谷は、私と民矢桃子を知っていて、私がこの駐車場に車を止めたこと、公園で桃子と会っていたことを知っていた。つまり、私がここに着く前から私の跡をつけていたということになる。

 業務中、自分が尾行されることには注意を払っているつもりだが、今日は何らかの油断があったのか。

 尾行されたとして、なぜ菱谷にそれができたのか。そのようなことが可能な人間を頭のなかでリストアップしてみたが、いまのところ答えは見つからなかった。

 いずれにしても、私はこの案件を軽く見すぎているのかもしれない。

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