銀河の距離

 翌日の午前十時、オフィスに出てきてメールを確認すると、既にアイマヤから取材オーケーの返答が届いていた。

 さすがITベンチャーの動きは速い。

 これが上場している大企業などであれば、まずは取材を受けるべきか担当部署で検討したのち上層部に打診し、そこでまた検討を重ねて疑問点が担当部署に戻され、それが取材者に確認事項として返信され、取材者がそれに回答して再度取材を申し込み、先方がそれを検討し……、といったやり取りを何日もかけて繰り返し、結果エヌジーとなったりする。

 大企業のホワイトカラーは、このような不毛なやり取りに一日の大半を使い、私よりはるかに高額の給料と多くの休日を得ているというのが、これまでに学んだ真理のひとつだった。

 提示された複数の候補日は、終業後のほうが何かと融通が利くということで、いずれもスタートは午後六時からとなっていた。私は、直近の〈明日の午後六時から〉を選び、その旨返信した。返信には、突然の申し込みに快く応じてくれたことに対する感謝の一文を添えておいた。

 アイマヤからのメールは、広報の絵鳥廻という人物から送信されていて、来社の際には自分を訪ねてくれと書かれていた。メールの署名には漢字の横にローマ字で『ETORI MEGU』と併記されていたので、この担当者はおそらく女なのだろう。


 アイマヤ株式会社は新宿駅南口に集まっている高層ビルのひとつに入っていた。西口の高層ビル街よりビルの規模は小さいが、比較的新しいビルが多い一角だった。

 私は約束の時間に間に合うように早めに代々木の裏通りの安いコインパーキングに車を入れて、南口のビルまで歩いた。梅雨の曇り空だったが、幸いにして雨は降っていなかった。

 目的のビルに着き、吹き抜けのエントランスから高層階用エレベーターで十六階まで上り、フロアの案内板を見る。十六階には数社がテナントとして入居していて、そのなかのひとつにアイマヤ株式会社があった。アイマヤは、案内板の区画図を見る限り、フロアのなかでは一番大きな面積を占めていた。

 廊下を何回か曲がりながら歩いてアイマヤの受付に着く。白をベースとした受付は無人で、正面の壁に据え付けられた大きな社名ロゴの下に、受付用のタッチパネルが設置されていた。

 タッチパネルを操作し、リストから絵鳥廻を見つけ出して呼び出すと、脇のスピーカーから、すぐそちらに行くのでそのまま待ってくれ、と女の声が応えた。

 ほどなくして執務室の出入口らしいドアが開き、三十代前半と思われる小柄な女が現れた。

 ショッキングピンクのTシャツにジーンズとスニーカー、前髪を作ったショートの髪は鮮やかなオレンジ色に染められている。Tシャツの上に前をはだけて羽織っているのは、小柄な彼女にはオーバーサイズ気味の実験用の白衣だった。

「絵鳥です。こちらへどうぞ」

 どことなくあどけなさが残る丸い目で一瞬私を見つめると、くるりと向きを変えてそのまま歩き出す。

 白衣の裾が床を擦りそうになるのを目で追いながらあとをついていくと、少し廊下を歩いたところでドアが開かれ、小さめの会議室へと案内された。

「ライターの周防と申します。ウェブマガジンやニュースサイトに記事やコラムを書いてます」

 席に着く前に名刺を差し出す。ウェブライターとしての私は、『周防作(すおう・さく)』ということになっている。

 絵鳥も名刺を出しながら、

「改めて、絵鳥です。こんなカッコで悪いけど、ウチの社風なんで」

 仕事上、相手の外見に驚くことはあまりないが、こうしたオフィスで会う人間としては、確かに若干個性的だった。

「ニースのビーチでは、取材相手の水着が透明でした」

「あーっははは、ライターさんなら、このくらいなんてことないわな」

 声を出して笑う絵鳥の丸い目がくりくりと動く。かわいらしく見えるが、それを額面通り受け取ってよいのかはまだわからなかった。

 すすめられた席に座りながら、

「良く似合ってますよ」

「どうもありがと。やっぱりこういうのは、上が率先してやってみせないと。いくら服装髪型自由ってうたっても、上がガチガチのスーツだったら、社員が好きな恰好なんてできるわけないわな。あ、名刺には書いてないけど、こう見えて私はここの役員なんだ。広報宣伝とマーケ、ついでに情報システムの実務もガッツリやってっけどね」

「天は若い才能を放っておかないんです」

「社長の銀乃より、私、年上だけど」

 私は、公式サイトの『代表挨拶』のページにあった銀乃充のポートレイトを思い出した。確か三十歳前後ぐらいだった。ニコッと笑ってやりすごして、

「でもなぜ白衣を?」

「私、いまの業務の前は技術やってて、そんときから着てたんだよね。ほら、技術系はもともと服装とか緩いし。白衣着てるとなんか気分が落ち着いて、ソースコード書くのが捗ったんだ、すごく」

 と言って絵鳥は、窓のほうに視線を向けた。

 会議室は東面に大きく窓を取ってあり、十六階の高さから都心方面が広々と見渡せた。梅雨空に煙る都心の高層ビル群とのあいだに、新宿御苑の暗い緑がぽっかりと大きな穴をあけている。

 絵鳥は、前髪の真ん中あたりを親指と人差し指で摘まんでくるくると捩るようにし、それを寄り目で見つめながら話を続けた。

「もともとは天文学がやりたくて、マジメにまずは基礎をしっかり身に着けようと大学で物理をやったんだけど、事情があって院には進めなくてね。宇宙に到達する前にタイムリミットが来ちゃったもんで、ビジネスの世界に舵を切ったってわけ。だから科学へのリスペクトを忘れないためって側面もあるわけよ、この白衣には。まあ現実には物理の実験で白衣は着ないんだけど。で、周防さん宇宙には興味ある?」

「アンドロメダ銀河に美しい王女がいるなら」

「あーっははは、まあそういうのも悪くないかな。世紀の偉人だって、最初のモチベーションはきっとそんな類いだっただろうから。周防さんの恋する王女様が住んでいるアンドロメダ銀河は、地球から二百五十万光年離れてる。なので光の速さで二百五十万年かかる。気が遠くなるスケールだよね、一秒で地球を七周り半する光の速さで二百五十万年だよ。そんな場所が存在するなんて、想像するだけでワクワクしない?」

「限りなく光に近い速度で美女を迎えに行けば、もっと早く着きませんか?」

 私は昔どこかでかじった知識で応えた。

「よく勉強してるじゃない、王女が美女とは限らないけどその通り。ただし限りなく光に近い速度のロケットは、私たちが生きている間にはまず完成しない、残念だけど」

「王女の国の科学技術が地球よりはるかに進んでいれば、美女のほうから地球にやってくるかもしれません」

「可能性はゼロではないな。ベースの技術は亜高速ロケットとは違う次元だろうし、やってくるのが美女とは限らないけど。でもこのへん話し出すとキリがないわね。そろそろ本題に入るとしますか」

 絵鳥はあっさりと話を打ち切り、持参してきたノートPCを開いた。

 私も同じようにノートPCを鞄から出して、メモを取る準備をした。メモを取らない取材記者は宇宙に存在しない。つまり地球にも。

「で、周防さんは何が知りたいわけ?」

 一瞬、絵鳥の目に意地の悪そうな光が宿る。

「銀乃社長について」

 と私は答えた。

「ストレートだね。でもなんで?」

 口調は変わらないが、こちらを見透かすような目の光は消えない。

「新しい分野で成長している企業の社長には、誰だって興味を持ちます」

「月並みだなあ。どうしてみんな、社長の話を聞きたがるんだろうね。聞いて何かを真似したところで、それはすでに前例のあること。前例のないことをやらないと儲からないってこと、わかんないのかね」

「確かに。一理あります」

 私は多少大げさにうなずいて同意を示す。

「ついでに言えば、社長ってのはたいてい役に立たない一芸バカ。企業の成長を支えているのはいつもナンバーツーなんだよ。ウチでいえば、私ってことになっちゃうのかな」

 絵鳥の目にあどけなさが戻る。

「興味深いお話です。企業の成長を支える立場として、よろしければ御社の今後の事業展開など聞かせてもらえませんか」

「あっ、と驚く分野に進出するよ」

「いわゆるシェアリング・エコノミー・サービスの業界で?」

「今回はそうなるね」

「何かヒントをいただけませんか」

 絵鳥は、エルゴノミクス・デザインらしい洒落たビジネスチェアの背もたれに寄りかかったまま視線を天井に向けて、

「まあ、それは、企業秘密ってもんがあるからね」

 とつぶやいた。それから不意に背もたれから起き上がって私の顔を直視すると、

「私のほうにも、知りたいことが二つある」

 一旦仕切り直すようにして間を置いてから、続けて、

「まずひとつ目。いま、あんたが使っているPCに挿さっているSIMカードのIPアドレス」

 と勝ち誇ったように言った。

 迂闊だった。絵鳥のその一言で、私はいま自分が置かれている状況を理解した。

 絵鳥は私のPCにじっと視線を向けたまま、

「ウチに高須木って社員がいて、そいつのことはしばらく前からネット上での動きを監視している。いくつか怪しい挙動が見られたからね。そしたら、昨日の夕方に高須木がメール送信したIPアドレスと、夜になって高須木のメールボックスにログインしたIPアドレスが、未知のIPアドレスだった。そんで周防さん、そのあとあんたがウチのサイトの問い合わせフォームから取材申し込みしたIPアドレスが、その未知のIPアドレスと同じだった。それが何を意味しているか、わかるよね」

 通信機器にひとつずつ割り当てられるIPアドレスはインターネット上の住所のようなものだから、IPアドレスが同じであれば、それは同じ機器からアクセスされたものである可能性が高い。そして私は、IPアドレスが常に固定のSIMカードを使っている。

 いくつか言い逃れは考えられるが、高須木が絵鳥の支配下にある以上、すでに昨夜の高須木の行動は把握しているだろう。情報システムの担当役員であれば、高須木が送信したメールの内容も、正規の監査手順でチェック済みに違いない。

 私が答えに窮していると、

「どう? 答えられないなら、私が当ててあげようか?」

「トランプの数当てマジックのように、ちゃんとタネがあるんだろうね」

「タネも何も、あんたが高須木のメールをハッキングしたっていう事実があるだけ」

「なるほど。それで二つ目は?」

 絵鳥は今度は私の顔を見据えて、

「周防さん、あんた何者?」

「アンドロメダの王女に憧れる、ただのライターですよ」

「あんた探偵かなんかだね」

「そういう職業のときもあるかもしれない」

「探偵の名刺出しな」

 絵鳥は私のほうに身を乗り出し、強い口調で言った。

 私はあきらめて、季田に渡したのと同じ探偵用の名刺を一枚取り出すと、テーブルの上に置いた。

「ふうん、『由名時探偵社』か。タイミングとしてはベストに近いな」

 名刺をつまんでヒラヒラさせながら、

「では今日から、私の依頼を受けてもらうとしよう」

 私は意外なセリフに戸惑いながら、

「断ると言ったら?」

 と抵抗を示してみる。

「わかってないなあ。あんたは法を犯した。依頼人本人以外の盗聴は違法だからね。証拠のログもある。つまり、私が当局にチクれば、あんたはジ・エンドってわけ。それでも断れる?」

 絵鳥の目が、また意地悪そうな光を放つ。

「当局の調べが入れば、会社の好ましくない行為も知られることになりますよ」

「会社の好ましくない行為? あーっははは、〈会社の〉じゃなくて〈銀乃の〉でしょ。私は愛する会社のために社長の不正をただす正義の役員ってとこかな」

 少しずつ筋書きが見えてくる。

「僕は何を依頼されることになるんだろう」

「あんたがいまやろうとしていることを続けるってこと。つまり銀乃がなぜファンアローの社長、民矢桃子を調べているのか」

「高須木って社員を押さえているなら、高須木に聞けばいいんじゃないか」

「高須木は何も聞かされてないはず。知ってたら、あんな稚拙な報告書は上げない。ただ指示されたとおり動いているだけ。だからあんたがそれを調べて私に報告する。以上」

 私には選択肢がなかった。そして絵鳥の依頼は、私が季田の依頼を超えて知ろうと試みたことだった。もはや断る理由が見つけられなかった。

 帰り際、会議室から出ようとしたとき、雲の切れ目から差し込んだ夕陽が、新宿御苑を隔てた向こう側にそびえる鏡面仕上げの高層ビルに反射して、オレンジ色に輝いた。絵鳥の髪の色のように情熱的だったが、沈むまでの時間も限られていた。

「太陽って、あと五十億年も経つと、巨大な赤い星になって、地球をドロドロに溶かしてしまうことがわかってる。他にもいろんな説があるけど、人類が生き延びられないことだけは絶対確実なんだよ。そのことを考えると、すごく怖くなるわけ。消滅する人類の運命は誰にも止められない。だから、いまの私にできることは、自分が置かれた場所で今日やれることをやるだけ」

 絵鳥は、ニッと歯を見せて笑うと、いたずらっぽい目で私の顔を見上げた。

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