稚拙な報告書

 新宿で適当に夕食を済ませ、酔いを醒ましてから高円寺のコインパーキングまで車を取りに戻った。下りの中央線は込み合っていて、酔っている客も多く、とても快適とはいえなかった。進行方向左側のドア横に立ち、夕方上り電車で井東優里がそうしていたように、灯りの疎らになった西新宿の高層ビル群を眺めて気を紛らわせた。

 オフィスに帰ると、締め切った室内にはムッとする熱気が立ち込めていた。バナナを栽培したらさぞや順調に育つのではないか。私は、オフィスの空きスペースにたわわに実るバナナの房を想像してみた。

 エアコンのスイッチを入れ、ひんやりとしたカビ臭い空気が音を立てて吹き出してくるのを確認しながら、デスクに座ってノートPCを開く。

 スリープから目覚めたPCのネットワークのアイコンが内蔵SIMカードでのキャリア通信のままなので、またビルで契約している光回線のルーターの調子が悪いのだろう。

 ルーターが正常に稼働していれば、オフィスのwifiに自動接続されるはずだが、最近では調子が悪いことのほうが多い。

 これまで提供元のプロバイダーに何度かクレームを入れて調査をさせたが、そのときに限って不調が再現せず、「こちらの設備は問題ございません。お客様の設定をご確認いただけますでしょうか」と返されるばかりなので、あきらめてオフィスでも内蔵SIMカードを使うことが多くなった。

 どちらにしろ、インターネット上の住所であるIPアドレスで判別して接続を許可するタイプの業務用データベースサービスを利用するときは、都度IPアドレスが変わってしまうここの光回線は使えず、固定IPアドレスで契約している内蔵SIMカードに切り替える必要があるので、むしろそのほうが手間が省けるともいえる。もちろんその分、パケット代を余計に消費することにはなるが。

 パケット解析ソフトを立ち上げて、夕方に新宿のカフェ&バーで井東優里の相手の男のノートPCから傍受した通信を解析する。

 目当ての通信履歴から、男のメールアカウントのIDとパスワード、送信元メールアドレス、宛先メールアドレス、エンコードされたメール本文を入手することができた。メール本文はデコードしないとすぐには読めないが、ここまでの情報があれば急ぐ必要はない。

 あらかじめ調べておいたアイマヤの公式サイトからの情報と照らし合わせたところ、次のことがわかった。

 送信元メールアドレスはアイマヤのドメインで、タカスギという名前の社員のもの。優里の相手の男のメールアドレスだろう。

 宛先メールアドレスもアイマヤのドメインで、ギンノという名前。公式サイトの会社概要から察するに、アイマヤ株式会社代表取締役社長・銀乃充のものだと推測できた。

 すなわち、アイマヤのタカスギという社員が、井東優里のUSBメモリから入手した情報を、社長の銀乃充に送信していた、ということになる。

 続いて、タカスギのメールボックスへのアクセスを試みる。

 まずメールのドメインをもとにアイマヤのメールサーバーを探す。通常、メールサーバーは誰でも検索できるため、そこから受信用の設定を推測することはそれほど難しくはない。

 判明したメールサーバーを、メールソフトに設定する。

 もし、〈受信〉と〈送信済み〉の両方のフォルダにアクセスできる方式でメールボックスに接続できれば相当にラッキーだ。

 先ほど入手したタカスギのIDとパスワードを入力しながら、いくつか設定を試していくと、あっけなく期待通りの方式でアクセスすることができた。

 思った通りIT事業者は、サービスの開発にリソースを取られて足元のセキュリティが弱い。とはいえ、不正アクセスがバレればそれなりの防御策を講じられるだろうから、チャンスは一度きりと考えたほうがいい。

 まあバレたところで、社長ぐるみで何やら後ろめたい行為を行っているのであれば、不正アクセスの件を警察に届けることはしないはずだ。

 私のPC上で、いま生成されたばかりのタカスギのメールボックスに、送受信メールが次々と読み込まれていく。

 メールボックスの同期が完了するまでしばらく時間がかかりそうだったので、このオフィスのささやかなオアシスである小型冷蔵庫の前に行き、なかから氷とソーダ水を取り出して、スコッチウィスキーのハイボールを作りながら待った。

 小型冷蔵庫の上には、以前に北海道出身の依頼人から帰省みやげでもらった木彫りのクマが置きっぱなしになっていた。四つん這いで顔をこちらに向け、大きな鮭を加えているタイプだったが、無造作に並べられた酒のボトルやグラスに囲まれて居心地が悪そうに見える。いずれ相応しい場所に移動させてやる必要があるだろう。

 グラスを持ってデスクに戻り、ひと通り同期が完了したことを確認したところで、〈送信済み〉フォルダ内の銀乃社長宛のメールを検索機能で抽出する。

 ハイボールを飲みながら、まずは直近のメール、つまり今日の夕方に私の目の前で送信されたメールの内容を確認した。

 メールは特筆すべきところのない形式的な報告文と添付ファイルから成っていた。メールの署名から、タカスギは営業部の高須木剣児であることがわかった。添付のワードファイルは優里が作成したものだろう。ファイルをダウンロードして開いてみる。

 そこに記載されていたのは、季田が危惧していたようなファンアロー社の機密情報ではなかった。

 そこには、株式会社ファンアロー代表取締役社長、すなわち民矢桃子の過去一週間分の行動が日付別に詳細に記載されていた。

 詳細に記載されているとはいっても、そのときにそばにいた人間、つまり優里が目で見て認識できるレベルの行動で、何時から何時までPCを操作していた、何時何分にトイレに行った、誰それから電話があった、誰それに電話をかけた、どこそこでランチを取った、といった極めて表面的な内容だった。

 もちろん民矢が退社してからの行動や、会社がない土日の行動も記載がない。いくら優里がにわか仕込みの素人スパイとはいえあまりにお粗末な報告書だった。

 ハイボールのお代わりを作り、飲みながら残りのメールも過去にさかのぼってチェックしていく。

 同様のメールは三通あり、いずれも同じように民矢桃子の行動をまとめたものだった。曜日はまちまちだったが概ね週に一度、この一か月以内に送信されていて、それ以前にはファンアロー社に関係していそうな社長宛のメールは確認できなかった。

 季田の予感は、ある意味的中したといえるが、別の意味では外れていた。

 民矢桃子がファンアロー社を代表しているのであれば、確かに井東優里はファンアロー社の情報をライバル社に流していたことになる。けれどもその情報は、ファンアロー社のビジネスに関わる機密情報ではなかった。

 銀乃充は、なぜこのような情報をほしがっているのか。なぜ、民矢桃子の日常の行動を知る必要があるのか。

 それを調査することは、すでに季田の依頼からは外れているのかもしれない。そこから導き出される真実は、もはや季田が知る必要はないことなのかもしれない。

 にもかかわらず私は、アイマヤという会社をもっと調べることに決め、アイマヤのウェブサイトの問い合わせフォームから、ウェブライターとして取材を申し込むことにした。

 探偵の身分を明かさないほうが都合がいい場合に備えて、ウェブマガジンやニュースサイトに記事を書くフリーのライターとして、ダミーの連絡先と名刺を用意してある。

 問い合わせフォームの必須項目をダミーで埋めて送信すると、ほどなく、

「お問い合わせありがとうございます。内容に応じて専任の担当者が順次回答させていただきます。しばらくお待ちください」

 と記載された自動応答メールが、ダミーのメールアドレス宛に送られてきた。

 時計はすでに午後十時を回っていた。返答が来るのは早くても明日になるだろう。

 私は三杯目のハイボールを作りながら、応接テーブルの上に投げ出してあるやりかけのキューブ型パズルに目をやった。

 まだ底の一段目を完成させたばかりだったが、今日はもう手を付ける気がしなかった。

 私は手を引くべきだったのだろう。今日わかったことを報告書にまとめて季田に提出し、この案件をクローズして、退屈なパズルに勤しむ日常に戻るべきだった。

 そのことを身をもって知るのは、もう少しあとになってからのことになるのだが。

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