尾行と盗聴
午後四時を回った頃、季田から電話がかかってきた。
暇つぶしに、来客用のソファで六面を同じ色でそろえるキューブ型のパズルをいじっていたところで、ちょうどベースとなる一面がそろったときに、固定電話の呼び出し音が鳴った。古い電話機で、呼び出し音はどこから掛かってきても同じだが、なぜか掛けてきたのが季田だということがわかった。
パズルを片手に持ったまま、電話機の置いてある事務用デスクのほうへ移動する。
「早速ですみませんが、たぶん今日です。さっき社長がひとりで外出しました。重要な取引き先を訪問したあと、そのまま帰宅するそうです。井東優里はもうそわそわしだして、帰り支度を始めそうな勢いです」
一面が、九分割された独立して動くパーツになっているキューブを片手で動かしながら、
「単に早く家に帰りたいだけ、ということはないですか?」
「そうではない、とは言い切れません。しかしそんなことを言い出せば、確実な日なんてないじゃないですか。違いますか?」
電話口の季田は、直接会っているときより強気な口調で応えた。
「その通りです。動いてみますので、終業時刻を教えてください」
「六時が定時となります」
「わかりました。あとは任せてください。今日、このあと何かあった場合には、携帯電話のほうにお願いします。番号は、お渡しした名刺に書いてあるはずです」
あまり気乗りしないまま尾行の準備を整え、グーグルマップでファンアロー社の場所を確認する。
五時過ぎに、オフィス裏手に借りている月極の駐車場に回り、仕事とプライベート兼用のコンパクトカーで高円寺へ向かった。
世田谷通りから環七に入り、北上する。甲州街道と交差する大原あたりでそこそこ渋滞することを覚悟していたが、車の流れは意外にスムーズだった。
夏至を過ぎたばかりの午後五時台は、真昼と変わらないぐらい明るく、この時間にその日の仕事を終えることができたなら、さぞや充実したアフターファイブになるだろうと思われた。もちろんそうするためには、時間以外にも手に入れなければならないものが山ほどあるわけだが。
高円寺駅に近づき、中央線の高架が近くに見えてきたあたりで左折し、適当なコインパーキングに車を入れてそのまま待機する。六時少し前になったところで車から降り、駅南口のバス通りまで歩いた。
ファンアロー社はバス通り沿いの雑居ビルの五階にあった。
ガラス扉を押して入ると小さなエレベーターホールがある典型的な雑居ビルで、出入口はもちろんひとつだけなので、通りの反対側で井東優里が出てくるのを待つことにした。
この時間、駅前のこの辺りは人通りも多いうえ、人の外見や挙動に寛容なイメージのある高円寺という土地柄のせいか、ビルの入口を見張るあいだ、特に怪しまれることもなかった。
六時を十分ほど過ぎたころ、入口から優里が出てきた。薄いベージュの半袖シャツに紺色のパンツという軽装で、髪型が季田が持ってきた写真のハーフアップそのままだったため、すぐに本人だと見分けることができた。写真から受けた印象より身長は高めで、曲線的な輪郭も変わらなかったが、大柄という感じはなく、全体のバランスは悪くなかった。
毎日のルーティンであるからか、優里はあたりを見回すでもなくそのまま駅に向かって歩き出す。
通りの反対側にいる私は、駅に行くために優里より一つ余計に横断歩道を渡る必要があったため、少し速足で先回りをし、駅南口のロータリーのあたりで彼女の後ろに合流して高円寺駅の構内に入った。
優里は改札をくぐると、新宿方面、つまり上り方面の中央線快速のホームに登っていく。彼女は小田急沿線に自宅があるから、まっすぐ帰るにしても新宿駅で小田急線に乗り換える必要があるし、季田がにらんだ通りアイマヤの社員と会うとすれば、アイマヤがある新宿で会う可能性は高いから、それは当然だった。
帰宅ラッシュの時間帯なので、下り方面は満員で、上り方面は空いているわけだが、ガラガラというほどではないので、不審がられることもなく、ドア二つ分の距離を置いて同じ車両で新宿に向かう。
高円寺から新宿までは快速でわずか二駅、七、八分で到着する。優里はそのあいだドア横に立ったまま、徐々に近づいてくる夕暮れの高層ビル群をぼうっと眺めてやり過ごしていた。
予想通り新宿で降りた優里は、小田急線の乗り換え口には向かわず、改札を出て地下通路を西口方面へ向かう。
混雑が激しく、見失わないように優里の後ろにピッタリとつかなければならなかったが、新宿駅界隈で自分の後ろを歩く人間のことをいちいち気にしていたら、まず身が持たないだろうから心配はいらない。
地下ロータリーに沿って端まで歩き、地上への階段を上る。人混みも空いてきたので気付かれないように少し離れてあとをつけていると、飲食店が立ち並ぶ雑多な一角で優里は不意に向きを変え、古びた雑居ビルのなかに消えた。
小走りに優里が消えたビルに駆け寄る。
一階の海鮮居酒屋はオープンエアになっていて、五時上がりのサラリーマンが既に何組か飲み始めていた。二階以上のテナントは脇の出入口を利用するらしい。
近づいてなかを覗くと、すぐに階段になっていて、彼女はちょうど二階の店のドアを開いてなかに入るところだった。看板から察するに昼は喫茶、夕方以降は酒類を出すカフェ&バーのようだ。
二、三分待ってから階段を上り、店内が見渡せるガラス張りのドアを押してなかに入る。このあたりでは、外からなかの様子が見えない店は新しい客は入りにくく、常連ばかりになってしまうだろうから、入り口のドアをガラス張りにしたことは正しい判断といえた。
黒を基調とした店内は、ちょうど喫茶からバーに切り替わる時間らしくガランとしていた。入って左手にカウンターがあり、右手は窓に沿ってテーブル席が並んでいた。
客は二人だけで、ひとりは入り口近くのテーブル席でしきりに化粧を直している、これから出勤と思われる派手な赤いワンピースの若い女。もうひとりは奥のテーブル席に壁側を向いて座っている井東優里だった。テーブルの上には、運ばれたばかりのコーヒーカップが置かれている。
私がドアを開けたとき、チラとこちらに視線を向けた優里は、明らかに誰かを待っているようだった。私は、赤いワンピース女の横を通り過ぎ、優里からテーブルを二つ隔てた席に着く。
ほどなく、カウンターのなかにいた従業員がトレーに水とおしぼりを載せて、こなれた足取りでオーダーを取りに来た。
「まだコーヒーでも大丈夫かな」
もうバーの時間帯かもしれないと気を遣って私は言った。店内には海外のロックミュージックがそこそこ高い音量で流れていて、気持ち大きめの声を出す必要があった。
「ええ、全然大丈夫ですよ」
痩せた長身で肩までの長髪、私服の白いTシャツに店の黒いエプロンをした学生アルバイト風の男が自然な笑みで応える。
上半身を私のほうに傾けて少し顔を近づけ、
「なんなら、メニューにないドリンクでも作っちゃいますよ」
店内に従業員は彼ひとりだけで、一つ一つの振る舞いに、オーナーに信頼されていてある程度店のことを任せられている、といった自信が感じられた。
見た目は華奢だが、ヤクザっぽいグループがやってきてちょっとしたクレームをつけてきても、ひとりでそつなく立ち回れそうな雰囲気を持っている。
「ニンジン・ジュースとか」
依頼人である季田の固い表情を思い浮かべながら私は言った。
「はい、ちょうどサラダ用に材料を買ってあるので、オーケーですよ。ニンジン・ジュース、おいしいですよね」
口調は軽いが、ふざけているわけではなく、正規の業務としての対応だった。
「いや、いまはコーヒーにしておくよ」
私は彼を、当面ニンジン君と呼ぶことにした。
テーブルの上には、フリーwifiの案内があり、接続のためのネットワーク名とパスワードが記載されていた。天井を見上げたが、wifiルーターらしきものは取り付けられていないから、ルーターはカウンターの内側あたりにあるのだろう。
持参したノートPCを取り出して電源を入れる。キャリアのSIMカードを内蔵して通信できるタイプなので、このPCをwifi親機として、店のネットワーク名およびパスワードと全く同じ情報で接続するニセのアクセスポイントを作成した。
wifiの電波の強さは上限規制がかけられている。そしてカウンター内のwifiルーターよりも、私のPCのほうが優里の席に近い。もし、優里の相手がこの店の常連で、持参したデジタルデバイスでフリーwifiを利用しているなら、私の用意したニセのアクセスポイントに自動接続される可能性が高い。
IT関連の企業は、メールサーバーを自前で構築していたり、昔ながらのメールソフトでメールを送受信していたりすることも多い。その分野に詳しいだけに、かえってセキュリティレベルが低いまま放置されている場合がある。
運よく(私にとってだが)そのような状態であったなら、私のニセwifi経由で送信された通信は、盗聴することができる。確率の低い賭けだが、何の手掛かりもないいまの状態においては、トライしない選択肢はないだろう。
もちろん、依頼人が承諾したうえでの当人以外の通信を盗聴することが違法なことは、重々承知している。とはいえ、プライバシー意識の高まりによって、社会全体のセキュリティは強化される一方だ。探偵が法律順守で成果を上げられるほど甘い時代ではない。
ニンジン君が運んできたコーヒーに口をつけ、適当にPCを操作するフリをしながら時間をつぶしていると、しばらくして入口のドアが開いた。
優里とニンジン君が同時に入口のほうに視線を向ける。私は顔はPCに向けたままで目だけを動かし、入ってきた男を見た。
男は二十五、六歳で、ノーネクタイだが普通のサラリーマンといった感じのスーツファッション、シャープな顔立ちで、まあイケメンの部類にはいるだろう。
私の前を横切り、期待通りに優里の席のところまで歩いて、彼女の向かい側の椅子に腰を下ろす。
オーダーを済ませ、優里と小声で話を始めるが、BGMがうるさすぎて内容は聞き取れなかった。
優里がバッグからUSBメモリらしきものを取り出し、男に渡す。男はレザーの鞄からノートPCを取り出してカバーを開いた。
私は優里と同じ壁側を向いて座っていたので、窓側を向いた男とは斜向かいの位置になる。そのためPCの画面はこちらから見えなかったが、私のニセwifiのモニタリング画面に新たなデバイスが一台認識されたため、男のPCがアクティブになってニセwifiに誘導されたことが分かった。
男は受け取ったUSBメモリをノートPCに差し込んで操作を始める。
やがて私のPCのパケットキャプチャリングソフトに、男が送信するパケットが流れ始めた。おそらくメモリの中身をメール本文にコピーして、誰かに送信したのだろう。
画面の下から上に次々に流れ去る文字列の一部から、暗号化されていないメール送信プロトコルが確認できた。保存したパケットをあとから解析すれば、何らかの情報を得ることができるはずだ。ただしこの男がアイマヤと何の関係もなければ、徒労に終わることにはなるが。
一連の操作を終えた男は、USBメモリを抜き取って優里に返すと、パタンとノートPCを閉じた。
ぼそぼそと何やら会話をしているが、相変わらずここからは聞き取れない。男のなごんだ表情からして、スパイ云々といった内容の話ではなさそうだった。
やがて二人は立ち上がり、伝票を引き抜いて、カウンターの入口寄りに設置されたレジへと向かう。
二人を目で見送りながら私は、今日はこれ以上井東優里を追いかけるのは止めることに決めた。
重要な情報の受け渡しは、先ほど完了したはずだ。
このあと、二人がレストランや居酒屋で食欲を満たし、さらにはホテルかどこかで性欲を満たしたりするのを、生真面目に尾行したり張り込みをがんばったところで、いったいどんな情報が得られるというのだろう。
二人が店を出て行ったあと少したってから、私はノートPCを片づけてニンジン君のいるカウンターに席を移した。
「ハイボールをひとつ」
背の高いワイングラスを磨いて並べていたニンジン君は、
「あ、仕事終わったんですね」
「なんとかね」
「良かったです。ハイボール作りますね」
冷やしたグラスに氷を入れ、手際よくウィスキーを注ぐ。
「さっきそこにいたカップルだけどね、よくここに来るの?」
既にきれいに片づけられたテーブルを指して私はさりげなく聞いた。
「週に一度ぐらいですね」
「いつ頃から?」
「ひと月前ぐらいかな。でもどうして?」
「いや、女の子がかわいかったから」
「あの子は無理ですよ」
「どうして?」
「相手の男にベタ惚れだから。見てればわかります」
ソーダを注いでマドラーでひとかきし、私の前に差し出す。
私は目で礼を言って、
「それは残念だ」
「お客さん、新宿には他にもカワイイ子いっぱいいますから」
ニンジン君は表情を変えずに淡々と話す。
「そうだな。他を当たることにするよ」
私はよく冷えたグラスのふちに口を付けた。
「ところでお客さん、このあいだ海外で始まった戦争、どう思います?」
ニンジン君は、グラス磨きに戻りながら言った。
「戦争は反対だな」
「もちろん自分もです」
体をひねり、私に背中を向けてみせる。いままで気づかなかったが、黒いエプロンの紐で一部が隠れた白いTシャツの背中には、太い筆で書かれた『NO WAR』の文字がデザインされていた。
「初めてのお客さんに言うのも何なんですけどね。やっぱり腹落ちしないんですよ。国は平常時には、命が一番大切みたいなことを説いてくるのに、いざ戦争になれば、人を殺せと命令してくる。有事というだけで、命の価値って変わるもんなんですか。殺された前線の兵士は、サイコパスの強盗殺人犯のような、死刑に値する重罪人だったんですかね。自宅に帰れば、家族や趣味を愛する普通の人間だったんじゃないんですか」
ニンジン君は変わらず淡々と続ける。
「相手にかすり傷を負わせても罪に問われる現代なのに、人を殺しても罰せられないどころか、勝てば英雄として称えられる。幼少期から培ってきた倫理観に背く行為をしたのに栄誉を授けられて、その兵士は苦悩しないんですかね。勝利の熱狂のなかで、自分のしたことは罪ではないと自分をごまかすんですか。それとも、その栄誉は、苦悩に満ちた残りの人生の代償ってことなんですか。難病の赤ちゃんの手術代がなくて悲しんでいる両親がいるのに、莫大な税金を使って大量殺人ができる武器を買う。たったひとりの命を救うために、救命士が人生を賭けて闘っている同じ時間に、一個の爆弾が大勢の命を一瞬で奪い去る。普通に考えて納得できなくないですか? 人の心も身体もメチャメチャにしてしまうのが戦争で、その戦争が〈お国〉のためだと言うのなら、国っていったい何のためにあるんですかね」
「いつの時代でも、国というのは、戦争が大好きな人間がトップに立つことで成り立っているんだ。国民を駒にしてチェスを指すのが何よりも楽しみなんだよ」
「戦争を避けるにはどうしたらいいと思います?」
「社会が男に〈男らしさ〉を求めないこと。あと、愛国心はできるだけ広い範囲に持つこと」
「地球とか?」
「地球人は好戦的だから、銀河系ぐらいまでは広げる必要がある」
「なるほど。日本が戦争を始めたら、お客さんどうします?」
「できることなら、どこか遠くに逃げたいね。人を殺すのも、人に殺されるのもイヤなんだ」
「同感です。お客さんとは気が合いそうですね」
「国は嫌がるだろうけど」
「今度また来てくださいよ。ニンジン切らさないようにしておきます」
「それまでお互い生きていよう」
私は、すでに空いたグラスで乾杯のまねをして見せた。
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