由比ガ浜へ

 銀乃邸の脇のコインパーキングから車を出して、一方通行の道を迂回して元のバス通りまで戻り、そこから環八に出た。

 環八を南下して玉川インターから第三京浜に入り、制限速度一杯まで一気にアクセルを踏み込む。第三京浜は都内のどの高速道路とも接続していないため非常に不便だが、その分いつも空いているのでありがたい。

 終点近くの保土谷PAで軽く昼食をとった。

 PAのレストラン前の広場に、大きな柴犬が一匹つながれていた。伏せの姿勢で主人が戻るのを待つ柴犬は、朝方の雨で湿ったタイルの上がいかにも居心地悪そうだった。柴犬は何かの記念碑の銅像のようにピタリと固まったまま動かず、私が横を通り過ぎても顔をこちらに向けることもなかった。

 私が車に戻るタイミングで、ちょうど柴犬の主人もレストランから出てきた。太った初老の男だった。柴犬は主人の姿を認めると、自分にも言い分がある、といったていで申し訳程度に尻尾を振りながらゆっくりと立ち上がり、主人の膝のあたりに濡れて光る鼻を擦りつけた。

 PAから本線に戻り、保土谷JCTを横浜新道のほうに分岐して湘南方面に向かう。戸塚を過ぎて、しばらく渋滞区間を走ってから左折して国道から外れ、鎌倉市内に入った。

 低層の郊外型店舗が立ち並ぶ、藤沢市と結ぶ幹線道路を抜けて、駐車場で待機する何台かの観光バスを横目で見ながら大仏殿の脇をのろのろと走る。

 長谷寺の交差点を直進して江ノ電の踏切を越えると、不意に海の気配がしてきた。パワーウィンドウのスイッチを押して窓を全開まで下げると、生暖かい風が車内に吹き込んでくる。風は、重く湿った潮の匂いがした。

 右手に広がる砂浜のほうにチラチラと目をやりながら国道を逗子方面に進む。場所としてはすでに由比ガ浜エリアとなっている。海浜公園の地下の巨大な駐車場に進入して車を止め、エレベーターで地上に上がった。

 しばらく歩道を歩いて国道を長谷のほうに戻ると、真朝に教えてもらった銀乃家のマンションに到着した。マンションは国道沿いに海に面して建っていて、砂浜とのあいだに視線を遮るものはなく、見事なオーシャンビューとなっていた。

 他にもいくつもマンションが建っていたが、風致地区としての建築制限があるらしく、どのマンションも四階までの高さに揃えられている。

 上を見上げたとき、梅雨の曇り空を二羽のカラスが極楽寺の方角に飛んで行くのが見えた。

 国道から脇道にそれ、マンションのエントランスに向かうと、ちょうどドアが開いて、ひとりの男がエントランスホールから出てきた。銀乃充だった。

 濃いサングラスをかけていたが、丸顔で輪郭のはっきりした端整な顔立ちは、公式サイトで見たポートレイトの人物に間違いなかった。

 百七十センチ前後のバランスの取れた体型に、Tシャツとジーンズ、アウトドアサンダルの出で立ちから、いかにも、ちょっとそこまで、といった気軽さが伝わってくる。

「銀乃社長ですね」

 サングラスの顔がこちらに向けられる。視線は読めないが、口元の表情からいぶかしさは感じられなかった。

「ああ、何とかいうライターさんですか。さっき妻から連絡がありました」

「周防と申します。さすが奥さんですね。話が早くて助かります」

 銀乃は渡した名刺にろくに目も通さず、ポケットから出した財布にはさんでしまうと、海岸のほうに歩き出しながら、

「取材を許可した覚えはないんですけどね」

「お時間は取らせません」

「まあ、妻がオーケーしてしまったようだし、こちらもちょうど一段落して散歩にでも出ようと思っていたところだから、少し付き合ってやらないでもない。歩きながら、ということでどうですか」

 銀乃の口元に、親しげな笑みが浮かぶ。

「もちろん、それで構いません」

 国道に出て横断歩道を渡り、海側の歩道を材木座のほうにゆっくりと歩く。

「で、何だったかな。そちらは何を聞きたいんでしたっけ?」

 両手をジーンズのポケットに突っ込み、空を見上げるようにしながら銀乃は言った。

 私は、半歩遅れて銀乃の横を歩きながら、

「ビジネスは順調と聞きました。シェアリング・エコノミー・サービスと言うそうですね」

「一時のようなブームは去ってしまいましたけどね。多くの企業が撤退して、いま残っているのは、だから上手くいった会社だけ、ということになります」

「成功の要因は何でしょう?」

「経営者にとって、ビジネスはあくまでも手段です。ビジネスが目的になってはダメです。会社の成功が目的だなんて、そんなつまらない人生を送りたいと思いますか?」

「自社の利益よりも、社会貢献のマインドが大事だ、という意見を最近よく聞きます」

 銀乃はサングラスの上の眉をひそめて、

「それを否定する人はいないでしょうね。ですが私は、ビジネスで社会貢献、とうたうのは少し問題があると考えています」

「具体的にはどんな?」

「ビジネスである限り、我々はどこまでいっても自社の利益を追求するために奔走し、そこに何か社会にとってマイナスの要素があったとしても、目をつぶって気づかないふりをするものです。そして一度目をつぶったら、その好ましくない要素は徐々に、しかし着実にビジネスの深部を侵食し、もはや内部から改革することは不可能なほどにビジネスと一体化してしまう。名ばかり社会貢献の一丁上がりです」

 と両手の平を上に向けると、やれやれ、といった風に眉をさらに八の字に曲げる。

「営利企業の社会貢献には欺瞞があるので、それを目的にすべきでないと」

「ええ、アイマヤは、いまはシェアリング・エコノミー・サービスを主軸にしていますが、それにこだわっているわけではありません。以前は会員制の口コミサイトを運営していましたし、今後は別の事業に注力するかもしれません」

 突然、「わあっ」と声が上がり、砂浜のほうを見ると、課外授業か何かで来ている小学生らしい一群が、波打ち際ではしゃいでいるのが目に入った。銀乃もサングラスの顔を子供たちのほうに向ける。想定外の大波が打ち寄せたらしく、何人かはすでにひざ下あたりまで海水につかっていた。

「では、銀乃社長の〈目的〉とは何でしょうか」

「例えば、子供たちです」

 銀乃は、砂浜ではしゃぐ子供たちのほうを顎で指しながら、

「こうして見ている限り、あの子たちは無邪気で何の悩みもなさそうに見えますが、なかにはとてつもない不幸を抱えている子がいるんです。その人数は思いのほか多い。まずは世界中のそんな子供たちのために何かできれば、と考えています」

「何か具体的な行動を?」

「会社の利益の一定額を、そうした目的のNPOに寄付しています。いずれは自分で同様の組織を立ち上げて運営するつもりです」

「すばらしいことです。社内に反対する人はいないんですか」

「もちろん、役員のなかには反対している者がいます。NPOに寄付するぐらいなら、もっと本業に投資しろ、というわけです。次の役員会でも、私は叩かれるでしょうね」

 雲の切れ間から薄日が差し込み、遠く靄に包まれていた逗子マリーナの白いマンション群がくっきりと近く見えてきた。

 由比ガ浜の終端となる滑川の河口が近づいてきたとき、私は聞いた。

「森不二緒という女性をご存じですか」

「ああ、妻から聞いたんですね。あれもまだまだ子供なもので、困ったもんです。小学生のときのツーショットに、いまだに焼きもちを焼いているようです」

「純粋で、いい奥さんです」

 私は、サンダル履きの真朝の姿を思い浮かべた。

「純粋すぎるのも問題ですがね。人を信じやすいくせに、なぜか私のことだけは信用しないんです」

「立ち入ったことで恐縮ですが、その森という女性と、何か奥さんに誤解されるようなことはなかったんですか?」

「森さんはあの写真を撮った五年生のうちにどこかへ転校してしまって、それ以来会ったことはありません。いま頃、どこで何をしているのか……」

「いまは、民矢桃子のほうが気になりますか」

 銀乃は、特に動揺した様子もなく、

「誰でしたっけ? 聞いたことがあるな」

 と片方の眉をつり上げて見せる。

「ファンアローの社長です」

「ああ、思い出しました。業界の集まりなどで、ときどき名前を耳にします。ちょっと前に週刊誌にも出てましたね。でもなぜ私が彼女を気にしていると?」

「同業者で、同じ年代ですから、興味があるかと思いました」

「ファンアローとは、規模も方針も違うので、申し訳ないですが実はあまり意識していません。もちろん、過渡期を生き抜いた同業者ですから、頑張ってほしいと思っていますがね。それと、この業界では、二十代の社長は珍しくありませんので」

「会ったことはありますか」

「ないですね。会ったことはないです」

 自分に言い聞かせるように低い声で応えると、

「ところで今日の取材はどんな記事に?」

「実はまだ決まっていないんです。いまネタを集めている最中です」

「なんだ、つまらないな、期待してたのに……、ちょっと失礼」

 銀乃のスマートフォンがバイブ着信したらしく、ポケットから端末を取り出して応答する。私に背を向けて二言、三言話したあと、通話口を手で押さえてこちらを振り返り、

「すみませんが、やらなければならない仕事ができたので、マンションに戻ります。ですので今日はここで。……そうだ、今度ウチのマンションで、パーティでもやりませんか。妻も交えて三人で。妻もあなたを気に入っているらしいし、そのときに取材の続きをすればいい。夏の由比ガ浜は最高ですよ」

「光栄です」

 と私は言った。

 どうやらこの夫婦は、人に対する警戒心というものが二人そろって欠けているらしい。だからこそここまで成功したのだろうし、誤解を生むこともあるのだろう。

 あるいは逆に、私という人間が、人を警戒しすぎているだけなのかもしれない。

 銀乃は、「ではまた今度」とゼスチュアで示すと、また向こうを向いて通話に戻り、もう振り返ることはなかった。


 夕方、オフィスに戻ると、入口のドアの前で季田が待っていた。私の探偵事務所が入っているビルの廊下には冷房がないから、かなり蒸し暑いのを、私が戻ってくる時間もわからないまま忍耐強く待っていたことになる。

 季田はドアの横の壁に背をもたせて寄りかかっていたが、私の姿を認めるとサッと壁から離れて背筋を伸ばし、直立不動の姿勢になった。午前中、銀野邸の前で見たときと同じポロシャツとチノパンのままだった。

「どうしたんですか。僕はここに寄らずにそのまま自宅に帰ったかもしれないんですよ」

 季田は小さな目で私を睨んだかと思うとスッと目を伏せ、

「電話やメールは思い通りに相手とコミュニケーションが取れなくて、気を揉むことが多いです。直接会って話すのが一番だと思っています」

「もしも僕と会えなかったら?」

「それでも、こうして行動することで、自分を納得させることができますので」

「わかりました。まずはなかに入ってください」

 私がドアの鍵穴にキーを差し込もうとすると、

「いえ、ここで結構です。調査の結果を教えてください」

 私はドアを開けるのを止めてキーをポケットに戻し、季田のカジュアルなファッションを改めて眺めた。

「今日は会社を休んだんですか」

「ええ、ウチも有給休暇はなるべく消化すべし、という方針になったもので」

「せっかくの休みにまでスパイのことが気になりますか。ずいぶんと会社思いだ」

「それは嫌味ですか。私は本当に会社のことを心配しているんです」

 威勢よく言い返してくるが、途中からトーンダウンして視線が宙を泳ぐ。

「漏れて困るのは、会社の秘密じゃなくて、君の秘密じゃないのか」

 私は銀野邸の前で目撃したことを思い出して、つい強い口調になった。自分でも意外だった。

 季田はビクリと全身で反応し、ダイエットが必要なはずの身体がキュッと引き締まったかに見えた。そのまま数秒が過ぎたあと、季田は何とかバランスを取り戻したようだった。

「私はただ、先日そちらに依頼した調査の結果が知りたいだけなんです」

 私の顔を見据えると、

「どうでしょう? それは教えていただけるはずです」

 私はポケットのなかでキーをチャラチャラさせながら、

「もちろんだ。結論から言うと、井東優里とアイマヤ社員とのあいだに、君が心配するような機密情報のやり取りはなかった。調べた限りでは、二人が付き合いだしてから現在まで、そうしたことはなかったと考えられる」

「それはよかった」

 季田は乾いた声で言い、胸をなでおろすゼスチュアをして見せた。

「ただし、夜中にベッドのなかで井東が君のプライベートな秘密をしゃべったかどうかまでは、まだわからないんだ」

 私が真面目な表情をしてみせると、季田は真っ赤になりながら、

「本当に失礼な人だ。やっぱり探偵なんて頼むもんじゃない」

 頭を細かく速く左右に振ってから、

「もういいです、調査は終了して結構です。報告書と請求書を名刺に書いてあるメアド宛てに送ってください」

 季田は、やにわに私に背を向けると、なおもブツブツ言いながら、エレベーターの前を通り越して端の非常階段のところまで進んだ。

 ちょっとキョロキョロしたあと重い鉄の扉を押し開けて、私の前から姿を消した。

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