あの小樽のバブルなラブホテルで

くらげもてま

本文

 音大受験を諦めた俺は二浪の末、北大の工学部に合格した。

 世間的に見れば十分な学歴。しかし俺の母校はいわゆる「お受験校」で、旧友たちは既に就活を始めている者もちらほら。

 同窓会も兼ねた初めての飲み会に出て、すぐに後悔した。インターンだとかエージェントだとか、楽しむより劣等感とコンプレックスを煽られただけだ。


「2浪で北大かぁ。現役で真面目に受験しとったらなぁ」

「タカちゃん頭よかったんに、勿体ないわ。普通にやっとれば京大ストレート行けたやろ」


 真面目に、普通に……そんな言葉を投げかけられる度に俺の中で、何かが抉られていく。

 音大を目指した三年間。それが本当に無意味で、無様で、価値のない時間だったことを改めて突きつけられたような気がしたから。


「結局さ、音大に入る人たちってエリートなんだよね。だいたいみんな幼稚園や保育園の時からもう楽器に触り始めてる。親も音楽関係者で、宿題なんかは全部親がやってあげて練習練習また練習……そうやって積み重ねて、もう楽器が体の一部になっちゃった人たちと南君は争わなきゃいけないんだよ。少なくとも南君の狙っているような学校は、そうだね」


 生徒たちから「東京ハゲ」とバカにされていた音楽指導の先生の、諭すような表情。

 きっとあの先生も音大を出ているたはずだ。そこで何を見て、どういう経緯で「お受験校」の音楽指導をするようになったのか。受験科目が第一で音楽など勉強時間を圧迫する邪魔者程度にしか考えていない、あの学校に……。


「京大A判定でも無理ですか……」


 それはきっと世界で一番情けない男の言葉だった。今にして思えばそんな驕った奴、音楽の神に愛されるわけがない。

 先生はつるりと禿げ上がった頭を神経質そうにかきながら、曖昧に微笑んだ。それが答えだった。


 わざわざ北大を選んだのも、学びたいものがあるとか気になる教授がいるとか、そういう事はぜんぜんなかった。

 逃げ出しただけだ。故郷から。「タカちゃん就職どうすんねん(笑)」という友だちの視線から。「二浪もさせたんや、当然ええ会社はいって親孝行してくれんやろな?」という両親の期待から。"普通"にやれば何の痛みも背負わずにいられたのに、格好つけて、俺は音楽と心中したいなんて自惚れて、当然のごとく逃げ出した自分から……。


「そもそもさ、タっくんはなんで楽器初めたの?」


 何より情けなかったのは結局その後、キャンパスライフを何食わぬ顔でエンジョイしていたことだ。北海道の大地は、俺みたいなひねくれ者でも包み込んでくれる度量の広さがあった。


「まあ、うん。俺さ、自分のこと天才だと思ってたから。行けると思ったんだ、なんとなく」


 キャンパスライフ2年目。俺はちゃっかり彼女まで作っていた。

 伊藤エミ。札幌の短大に通う2個下で(二浪してるから同学年交流すると相手はだいたい2個下だ)、インカレのジャズサークルで仲良くなった。そう、俺は北海道でもまだ楽器の道を引きずっていた。


「わら。さすが灘高生って感じ?」


「いや灘じゃねえから」


「え、そうなの? 私てっきり……」


「俺んとこは灘の滑り止め。いわゆる自称進学校ってやつ。まあだいたいみんな中学受験で早々に現実見て、うわー世の中って化け物ばっかなんだなって気がつくんだけど」


「タっくんはそうならなかったんでしょ? なんで?」


「……恥ずかしいから言わない」


「えー言ってよー」


「言いません!」


「じゃあ今日はフェラしてあげない」


 その時はすっかり慌てて、危うくハンドルを切り損なうところだった。

 札幌午後の講義の後にエミを拾い、小一時間走って小樽でディナー。そのまま海岸沿いをずっと走り、銭函にあるザ・バブルって感じのラブホに泊まるのがお決まりのルートになっていた。


「そ、そういうのありか!? ずるくない!?」


「出た童貞」


「あんまり男子校出身者をいじめるなよ! 泣くぞ!? てかもう童貞じゃねえから!」


「でー? どうして拓海君の心は折れなかったんですかー?」


 今でも理由はわからないが、エミとは妙に馬があった。お互いが素の自分をさらけ出すことができた。

 二つも歳下のはずなのにまるで気心の知れあった同年代と話しているような安心感。ただ一度だけ理由を聞いた時には「んー、中学ん時にニ個上の先輩と付き合ってたからかな?」と言われ、心が抉られた。

 けど今にして思えば、素をさらけ出してるのは俺だけだったのかもしれない。


「まあ、その。ほんとにありきたりなんだけどさ」


「んー?」


 晩夏の黄昏の薄夕暮れの下で小さなレンタカーに乗っていると、燃えるような空と深なる闇に見下されていると、自分のちっぽけさが嫌でもわかる。

 北海道の沿岸部は海岸線と背後の山の隙間がごく短い。この列島で人々は、天と地の僅かな隙間にへばりつくようにして暮らしてきたんだろう。

 北海道の大地は神戸のにぎやかな港とはぜんぜん違う。人の手を拒む、理解できない怪物だ。


「なんつーのかな……言っちゃえば、本気を出してないだけだって思ってたんだよ。俺はまだ本気じゃないから。灘だってさ、中学受験じたいにモチベが無かったから落ちただけだって思ってた。現にほとんど勉強もせず偏差値65の学校に引っかかったんだって」


「あー……いるんだなぁ、ほんとにそういう人」


「うるせえ! だから言いたくなかったんだよ!」


 その後にしたセックスより気持ちいいセックスは、きっと、今の俺にはできない。

 でも他に何を話してどんなふうにやったのか……ちっとも覚えていない。

 夏が終わってからはエミとも会う機会が減った。俺の方は何も変わらなかったけど、短大2年生のエミはもう卒業を控える時期だった。


「いいなぁー4年制大学。まだぜんぜん働きたくないでござる~~」


「おまえそれ……ネタ古くないか」


「うるせー! こちとら春から社会人じゃーーーーい!」


 雪の小樽。クリスマスくらいはデートしようと俺から誘ったら「また小樽? バリエーション少なっ」と煽られた。


「なんか小樽に思い入れでもあるの?」


 運河の流れる音と、エミの吐き出す白い息が、妙に印象深かった。

 その日は珍しく小春日和で出歩いてる人も多く、試される大地の有情面って感じだった。

 でも胸の中には不思議な焦燥感があった。酷くしばれる寒さなのに、前日になって重要なレポートを思い出した時みたいに腹の底が熱かった。


「いやべつに……札幌以外で最初におまえが案内してくれたのが、小樽だっただろ」


「ああ、それねぇ……まあありがたい、かな」


「なにが?」


「西は親戚とかいないから。ほら、私って北部出身じゃから」


 それは俺といられるのを見られたくない、ということだったんだろうか。

 おそらく単純に地元の知り合いとソリが合わなかったんだろう。エミは東京の女みたいに(東京の女なんて当時俺はほぼ見たこと無かったが)垢抜けていたし、なんていうか、特に女コミュニティだと嫌われそうなタイプだった。


「タっくんはさぁ、院まで行くんでしょ?」


「まあたぶん」


「何やってんだっけ? ロボット?」


 俺の入った学科は情報エレクトロニクス学科という仰々しい所だった。

 そこを選んだのはべつに、特別な熱意があったわけじゃない。単にロボットとかAIとか、そういう分野は将来潰しが効きそうだっていう打算的な理由だ。とはいえ結果的にその選択が今の食い扶持に繋がってるし、最初の目論見はあながち間違ってもいなかったんだろう。

 それにちょっとマニアックな分野だった分、周りの連中も熱意にあふれていたんだ。そういう環境に巻き込まれて、知らず知らずに俺も変わっていったんだろう。卒業する頃には立派なオタクの一員になっていた。知識量は一番下だったが、卒業写真では誰よりもいい目をしてたと未だに同窓会で笑われる。


「楽器は?」


「……趣味で続けてくよ」


 多分俺はカッコつけの楽器より、馬鹿みたいな連中と熱中するロボットのほうが向いていたんだろう。

 ニ年目の冬頃になって自惚れも収まりつつあった、ということもある。普通に講義やら実習やらがハードすぎてそれどころじゃなかったのもあった。実際、女と付き合ってるのなんて同期じゃ俺くらいだった。


「親元には戻らないの?」


「わかんねーけど……でも戻らないんじゃないかな。東京で就職しようと思ってるし……」


「そっかぁ。いいなぁ」


「エミは?」


 聞いてから後悔した。けれど吐き出した迂闊な質問はもう取り返しがつかなくて、振り返ったあいつのさみしげな目が……それを見た瞬間に俺は、こいつとは今日が最後なんだって理解していた。それは本当に唐突な理解で、あんなことは後にも先にもあれっきりだ。

 今でも夢にうなされる。あの時の小樽、雪としばれる空気。俺はエミを抱きしめようと手を伸ばすが、ドロの中でもがくみたいに体が動かない。


「あーあ」


 エミの言葉はそれだけだった。

 その「あーあ」がなんの「あーあ」なのか、今どきに隆盛を極めつつあるAIなら理解るだろうか? いつしか完璧なAIを搭載した人型ロボットが生まれたとして、同じ状況で「あーあ」としか言わないことがあるんだろうか?


 俺達は特に会話もなく運河を後にした。つなごうと握ったエミの指先は冷え切っていて、最後まで握りしめることができなかった。

 札幌駅で別れた後、むしゃくしゃして風俗に行った。その時に貰ったミントのキャンディ。それが今日、たまたま引っ張り出したダウンのポケットに入りっぱなしだったんだ。

 それでこんなことを思い出している。

 もう十年以上前のキャンディだ。ゴミ箱に放ると、からからと乾いた音がした。

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