第19話 白石明日和
2才上の姉の言葉がおかしいこと。
母と姉が話すときは、お互いに話しながら両手を動かすこと。
それが何を意味することか、最初はわからなかった。
ただ、話すときに動かす姉の手の動きが、とても綺麗だと思った。
明日和は、幼稚園へ入る頃には、簡単な手話を覚えていた。誰に教わったわけでもなく、母と姉の会話を見ているうちに、自然と覚えたのだ。
家族の中でも父だけは、ほとんど手を動かしながら話すことはなく、言葉だけなのが逆に不思議だと思っていた。
やがて幼稚園に入園すると、イヤでも自分の家の方が特殊だと気付かされる。
他の家では、話すときに手を動かさない。
他の家では、耳の聞こえない人がいない。
「アスワちゃんの、おねぇちゃん、きこえないの? かわいそう」
そう言われて、明日和は幼稚園で初めてケンカをした。
明日和にとって、知子は憧れだった。決して『かわいそう』な存在ではなかったのだ。
二人は小学生へと成長する。
明日和は、人と話すのが苦手だった。だから、友達もいなかった。
明日和の姉、知子は聞こえない。言葉を発すること自体が得意ではないので、人と話すのは当然苦手だ。
明日和と同じ。いや、滑舌やイントネーションがおかしいぶん、明日和の方が上手く話せる。それは、明日和自身がわかっていた。
なのに、いつも結果は逆。
姉の周りには人が集まり、明日和は一人のことが多かった。母も姉ばかりかまう。
なんだかズルイ気がして、姉のことが嫌いになっていった。
母親が仕事を始めた。経済的な理由からだ。
その結果、明日和が小学校4年になると、姉の付き添いを、させられるようになった。と言っても、たまに病院へ行くときなどだ。
やることも姉の通訳くらいだったし、明日和が通訳しなくても、姉は上手くやっていただろう。
「明日和って、かわいそうよね。聞こえないお姉ちゃんのお世話をする為に、親が産んだんでしょ?」
ある時、心ないクラスメイトが、聞こえるように話していた。
明日和は腹を立てたが、すぐに怒りはおさまる。
事実かも知れないと、明日和自身が考えていたことでもあったからだ。
普通に考えれば、聴覚障がいである姉のために、両親が子供を産むというのは、有り得ない話しだった。そもそも、明日和が『聴覚障がい』で生まれてくる可能性だってあったのだ。
でも、もしかしたら……と、明日和は考えてしまうのだった。
明日和は中学1になった。
姉は中学3年生。
明日和は、とにかく姉と別になる時間を作ろうと考えた。
姉の出来ないことをと考えて、軽音楽部に入ったのだ。が、そんな明日和の思惑を、母はわかっていたようだった。
「母さんが仕事でいない時間、誰が知子の通訳をするの! 明日和、あなたは自分勝手な……」
怒り狂った母を止めたのは、他ならぬ姉だった。
『母さん、過保護。わたし、大丈夫。明日和、好きにさせて、お願い』
姉はそう手話で話して微笑み、母は仕方なく了承したのだった。
姉から逃れるためだけに始めた軽音楽部は、中学1年だけで辞めてしまった。
もとから、好きで始めたわけでないので、続くはずもない。
姉は1人でよく出掛けるようになっていた。
しかも、決まって母のいない日に。
彼氏が出来たのだと、明日和は思った。
そして、ある母のいない日に、姉が出掛け、その後を明日和が追った。
姉は電車に乗って、30分ほどかけ、ある家へと入っていった。古い平屋の家で、鍵は掛けられておらず、扉は完全に閉まらないように、ゴム製のストッパーが置かれていた。
明日和はコッソリと中に入る。
家の中には10人以上の子供達がいた。年齢は、幼稚園から小学生くらいだ。大きめの机1つに3.4人づつノートを広げ、勉強をしているようだった。
なかには、ふざけたり騒いでいる子もいたが、そこに言葉は無い。
気配に振り返ると、明日和の隣に姉が立っていた。
『みんな、わたしと同じ』
姉の通っている平屋の建物は、ろう者や難聴者の託児所ということだった。聴覚に障がいのある児童は、他の子供と上手くいかなかったり、敬遠されることも多いという。
姉はこの場所で、ろう者の子供達に勉強を教えたり、親が来るまで預かるボランティアをしているのだと言った。
『ろう者、進学できる学校少ない。わたし、進学して、みんなのモデルケースなる』
『姉ちゃん、スゴイ!』
その日から、明日和もそこへ通うようになった。
明日和は姉のようになりたいと思い、姉と時間を共にすることが多くなっていった。
明日和にとっての姉は、目標で、憧れで、ライバルに変わっていた。
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