第16話 妹の記憶の行方
「はい、そこまで。おばあさん、いったん離れましょうか」
という男の声と共に、わたしから祖母が離される。
でも、この声って……。
「あの、僕は怪しいものではありませんので」
ヒロさんは、体の半分がボヤケた状態で、そう言った。たぶん、別の空間にいるのだろう。
あと、血は止まっていたけど、左手が千切れていて、なんか固まった血でドス黒いんですけど……。
「本当に、怪しくないんです。信じてください!」
ヒロさんは、祖母をつかんでいた右手を放すと、父や田中さんに訴えかけている。けど、2人ともドン引きなんですけど!
なんだか、もう見ていられない。
「ヒロさん、怪しすぎますから」
わたしが言うと、ヒロさんは気まずそうに右手で頭をポリポリかいた。
しぱしの沈黙。
その気まずい沈黙を破ったのは、祖母の行動だった。
『知子の妹……』
と、祖母は唐突に立ち上がると、手話で語り始める。
『……明日和、知子の部屋にいる。でも、体が無い。なぜ?』
「明日和が?」
『何かが、知子と勘違い。食べよう、考えている』
「『カミカクシ』だ」
わたしのことを知子と言い、妹の名前を明日和と言う祖母。そんな祖母か、わたしの部屋に明日和がいるというのだ。
しかも『カミカクシ』に狙われている。
もしかしたら、『わたしがろう者の世界』と『わたしが聴者の世界』が、重なってきた影響なのかもしれない。
妹の記憶なのか、魂みたいなものかはわからないけれど、もしかしたら『カミカクシ』に食べられるとか、あるのだろうか?
ヒロさんなら、知っているかもしれない。と、先ほどヒロさんのいた方を見たのだけれど、すでに姿はなかった。
「ヒロさん?」
返事はない。
いなくなった? いや『カミカクシ』と戦うことが目的なら、絶対にいるはずだ!
「ヒロさん、出て来てください!」
「いやだ、説明がメンドウだから」
耳元で声がした。
「出て来てください、殴ってあげますから!」
「イヤだね。それよりも時間が無いから、急いだ方が良いと思うぞ。今度『カミカクシ』と戦いになったら、前ほど時間は持たせられないからね」
本当に、姿を現す気は無いらしい。というか、もしかしたら何か理由があって姿を現せないの?
「何がどうなっているのか、教えてくれるか」
と父さん。
まあ、普通の人なら聞きたいですよね。
でも、説明している時間が、いまはもったいない。
「たぶん、時間が無いから。とにかく、わたしは先に帰らないと。父さんが家に帰ってきたときに、キチンと話すから」
「何言ってるんだ! どう見ても危険なところへ行く娘を、1人で行かせるわけないだろ。父さんも、一緒に帰るぞ!」
なんだか、こちらの世界の父は、積極的な気がする。わたしが『ろう者』だったときにあった、感情のわだかまりが無いせいなのか。
「父さん、一緒に帰ってくれるのはありがたいんだけど、その前にあれ言っておいた方が良いよ」
「あれ?」
「バスの中で話したじゃん」
父は思考を巡らせ、すぐに思い当たったらしい。一瞬、不器用な中学生男子みたいな表情になった。
「あ、うん」
父は大きく深呼吸をした。そして祖母の前に屈むと、優しい動きで手話を始める。
『ずっと、母さんに冷たい態度をとって、ごめん。本当は、とても感謝していたんだ。でも、母さんがバカにされるのが嫌で……何も言い返せない自分に腹が立って、なのに母さんに八つ当たりして……』
『わかっているから』
祖母は開いた右手を、自分の胸に当てると、なでるように下げた。その表情は、穏やかで優しい。
『また、来るね』
父が言う。
『また、おいで』
祖母が答える。
祖母が本当に理解していたのかは、良くわからなかった。
痴呆症なのか、それとも『カミカクシ』のせいで記憶が混合してしまっているからなのか。
いずれにしろ、いまの父にとって、大した問題ではないだろう。
※日本手話は言葉の並びが日本語とは違いますが、あえてわかりやすいように、日本語の並びにしてあります。
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