第11話 白石和彦
父については、名前も顔も知らない。
母親から聞いた話では、恋人関係にあった男が、キヌの妊娠を知った途端、姿をくらましたらしい。
和彦は、母親が嫌いだった。
父親がいないのも、家が貧乏なのも、全てが母親のせいだと思った。なぜなら、母は『ろう者』だったからだ。
近所でも学校でも、母親が『ろう者』ということで、イジメの対象になった。
和彦は聴者(聞こえる人)だったから、よく母親の通訳のような物をさせられ、それも嫌だった。
和彦は手話が使えて、近くに手話を使える人が他にいないのだから、やるしかない。それは、理解している。
理解は出来ても、納得は出来なかっただけだ。
手話はキヌに教えてもらった。日本手話。
手話なんて、この世から無くなれば良いと、本気で思った。
和彦は高校を出ると、隣の県で働くことにした。
理由は単純明快。
母親の元を離れたかったのと、学生時代から付き合っている恋人(智佐)と同棲のためだ。
和彦の母を誰も知らない土地での生活は、驚くほど快適だったが、独りで生活してわかったこともある。それは働くこと、生活することの大変さだ。
そして和彦は気がつく。
ろう者で仕事を得る事が、いかに大変だったのか。それに加えて、母はどれほど孤独だったろう。
けれど、素直になれないまま、半年ほどの時が流れる。
母親とは、ほとんど連絡をとらない状態が続いていた。
母は聞こえず、幼い頃から日本手話(語順等が日本語とは異なる)をやっていた為、日本語が苦手だった。そのため電話もメールも、通信手段にはならない。
だが、それは言い訳だと、和彦が1番わかっていた。現実から逃げているだけなのだと。
和彦は、智佐を母親に会わせる決心をした。
『母さん、久しぶり』
『初めまして、誰ですか?』
久しぶりに再会した母キヌは、恐ろしいほどに痩せていた。そして、認知症にかかっていた。
すぐさま役所と話し合い、母親を施設へ入れることになったが、お金や収容人数の関係で、半年近く掛かってしまう。その間、和彦は2つの街を行ったり来たりの生活だった。
それ自体、どうということはない。
それより会社の上司に、婚姻届の保証人になってもらう為、ついキヌの話しをしてしまったときのこと。そのときに、上司が『無意識に』発した言葉が引っかかっていた。
「お前の母さん、ろう者だったの?」
母親が、ろう者だということの本当の意味を、和彦はやっとわかったような気がした。
遺伝の問題である。
家系に『ろう者』がいると、ろう者の生まれる可能性が高まるからだ。
和彦と智佐は、結婚を前提に同棲をしていた。
智佐の両親には秘密にして。
なぜなら2人の結婚は、猛烈に反対されていたからだ。理由は和彦の家系にいる『聴覚障がい者』つまり母親である。
だから、智佐の両親には秘密で、2人は学生時代に付き合った。
カモフラージュで、智佐は友人の兄と付き合っているフリをしていた。両親の目をあざむく為だ。
和彦も、カモフラージュだとは知っていたが、疑念は払えなかった。
だから、娘が生まれ、その娘が『ろう者』だと知ったとき、実は誰よりも和彦は喜んでいたのだ。
子供が出来たら付けようと、以前から二人で決めていた『明日和』という名前を付けなかったのは、そんな自分の気持ちに対する、戒めのつもりだった。
長女は智佐の漢字を一部取り、智佐が『知子』にした。
知子が『ろう者』で生まれたのは、祖母からの遺伝が原因である可能性が高い。
和彦には、その事実が重くのしかかった。知子を見る度に、事実を突きつけられ、真実を知られるのが恐くなった。
知子には、自分と同じ気持ちを、味あわせたくない。
だから和彦は、日本手話を使うのを辞めた。キヌが『ろう者』であることも、本当は生きていることも話さない。
それが知子のためだと考えたのだ。
和彦は、もう1人子供を作ろうと、智佐に提案した。
今度生まれた子供が、また『ろう者』でも『聴者』だったとしても、自分たち夫婦が死んだ後、1人よりは良いと思ったからだ。
生まれたのは聴者だった。
以前付けようとした名前、
和彦の知子に対する後ろめたさは、消えることがなかった。
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