第9話 考えたくもない可能性

 ひたいに感じていた母の手の感触を、わたしは横に払った。

「明日和?」

「大丈夫だから。ちょっと、貧血なだけ。部屋で横になるから、気にしないで」

 母は何か言いたそうな表情を見せたけど、その言葉は飲み込んだようだった。そして、ため息を1つつき「じゃあ、仕事に戻るから」と、玄関から出ていった。

 無機質な鍵を閉める音が、やけに響く。

「本当に大丈夫?」

 と、背後からヒロさんの声。

 振り返ると、ヒロさんが何も無い空間から、出てくるところだった。

「ヒロさん、いたんですか」

「見つかったら面倒だと思って、隠れちゃった。テへ♡」

 ヒロさんは、自分の頭を軽く叩くと、舌を出して見せた。

 なんか、イラッ! とする。

 確かに、母にヒロさんを見られたら、面倒だったのは認めるけど。

「ところで、1つ質問があるんだけど、良いかな?」

 と急に真面目な顔になるヒロさん。

「どうぞ」

「君の母親は、君のことを『アスワ』と読んでいたようだけど、君は確か『知子ともこ』って名前だよね?」

「はい。それをふくめて、ヒロさんに聞いてもらいたいことがあるんですけど。ちょっと、気になることがあって……」


 わたしはヒロさんに、母と触れて『見えたもの』について話した。

 流れ込んできた『母の記憶』と、この世界では『存在しない妹』について。

 わたしは『桐咲』『琴乃』『母』の3人に触れて、『その記憶』と『現在の記憶』の違いから、ある可能性を思いついてしまう。

 でも、そんなことは無いはずだ。

「あの、ヒロさん」

「えっ? 君もコーヒーを飲む?」

 ヒロさんは振り返り、コーヒーメーカーに水をセットしながら言った。

 もちろん、我が家のコーヒーメーカーだ。

「いや、そういう事ではなくてですね」

「いらないの?」

「いただきます」

「OK♡」

 ヒロさんは、ニコニコしながらスイッチを入れた。

 気を取り直して、わたしはヒロさんに質問をする。

「この世界は、元々わたしが居た世界と、具体的には、どこが違うんですか?」

「それは、わからないよ」

 と、ヒロさんにアッサリと答えられてしまった。

「でも、ヒロさん『カミカクシ』について詳しいじゃないですか」

「僕が知っているのは『カミカクシ』のえさを選ぶ基準が、特定の『感情』だということくらいかな」

「それって、どんな」

「絶望だよ」

 ヒロさんは、こちらを向かなかった。

 黙ってコーヒーを入れると、それを2つのカップに注ぎ、片方を差し出す。

 わたしは黙ってカップを受け取った。

「いままで聞いた話から想像すると、君は絶望した。何に絶望したかはわからないが、少なくとも『カミカクシ』は、君が『聞こえない』事と関係があると思ったのだろうね。事実かどうかは別として」

 ヒロさんは少し困ったように、わたしへと視線を向けた。そして、わたしに取り乱す様子がないことを知ると、安心したように続ける。

「だから『カミカクシ』は『聴者』である君と『聴覚障がい者』の君を、合わせたのだと思う。より絶望するように」

 言いながらヒロさんは、コーヒーを一口飲んだ。そして大慌てで、近くに置いてある角砂糖をわしづかみにして、口の中へと大量投入する。

 どうやらコーヒーは苦手らしい。

 わたしは見なかったことにして、話を続けた。

「だとしたら『この世界』は、わたしが『聞こえる』か『聞こえない』かが換わったの世界ということなんですか?」

「話はそう簡単じゃないよ。君が聞こえると、周りも否応なく影響を受ける。例えば、君が前の世界で補聴器を使っていたとすれば、この世界では補聴器1セット分の売り上げが落ちる。聞こえない時の友達と、聞こえる時の友達だって、違うだろ?」

「だったら、なぜ妹がいないんですか? どうして、わたしが妹の名前なんですか!」

 ヒロさんは、不意に側頭部を押さえて顔をしかめた。けど、それは一瞬だけで、すぐ普通に戻る。

「それは、僕にもわからないよ。ただ、聞こえる君がを及ぼしたんだろうね」

 わたしが納得していないことを、表情から読みとったのだろう。

 ヒロさんは、小さくため息をついた。

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