低迷


 男は輝かしい青き時代を、暗い地下で過ごした。

そこでは男は決して陽に当たることはなかったが、腐り落ちることもなかった。

それは全て彼が望んだことなのだ。


 大学に入り、堅苦しい男の性分も飲み明かすにつれてどうでも良くなってきた頃のことだ。男には一抹の悩みがあった。どうも人を「信じる」ということが出来ないでいるのだ。すでに男は十分に周囲から「頼られて」いた。その年でもう七年目になる居酒屋のアルバイトでは、社員よりも働き、新人には賄いを振る舞い、バイトリーダーとも砕けた口調で話せていた。


 それには男の強い責任感と、職への深い探究心があってこそのものだった。勤労観だとか、責任だとか、そんなことは一旦差し引いても男は美食家の一面が少なからず心にあった。もちろん男はそこに勤め始めた時は、ただ飛んでくる伝票通りにしか料理を作れなかった。料理の作り方に一貫したマニュアルはなく、社員の作るものを見て盗み、わからない部分は貪欲に聞き、体でそれを覚えていった。

 そうやって店のメニューを覚えていく中で、店にあるいくつもの冷蔵庫に何があるかを段々と把握していく。徐々に心にゆとりをもつようになった中、男はふと自分の自炊と同じ要領で賄いを作れないかと思い立った。最初は既存のメニューをアレンジしたものだが、どんどん彼オリジナルの味付けがなされていった。自分の仕事に完全に慣れた頃には、今何を作ればこの疲れを労うことができるか、男はそれだけを考えて働けた。

 その頃自身の賄いを同期のバイトに振る舞うことが増えた。自分で美味しいと思えた料理をただ面白半分ですすめてみた所、いい反応をもらえることが多かったのだ。だが男は慎重で臆病だった。友人のように思っていた同期の反応でも、忖度や世辞めいたものに聞こえたのだ。だがそれゆえに、男は自分の料理をより深く試行錯誤した。

 

 ある日、いつも美味しそうに男の作る賄いを食べる同期に新しく作る料理をたべないかと男は誘った。だが、その日は一段と忙しく、皆締めの作業をすることには会話をするのも億劫なほど疲れていた。「今日はいいかな」と素っ気なく返されたので自分だけでやってみることにした。

 もやしを炒め、キャベツを手早く千切りにして豚バラと合わせてサッと火を通す。炒めたものを卵液を薄く焼いたものにくるむ。皿へ盛り付け、ソースとマヨネーズをかけて、最後に青粉をふる。男はそうして即席のとんぺい焼きを作った。

 それは男の疲れと空腹に彩られ、骨の髄にまで響くような旨さだった。それは男が一人で研究していた途上の料理だと思っていた。ホールで働いていた同期はそれをみて「今度作ってよ」と言い残して帰った。その後すぐに辞めた。


 またある日は発注にミスがあり、手作りで卵焼きを提供していた。それはバイトの後輩達にも絶賛だった。生姜焼きを賄いで作った日は、空いたコンロで味噌汁を作って品数を増やした。忙しくてどうしても賄いが作れない日は早めに唐揚げを揚げ置きしておき、サラダと既に仕込まれている一品料理から彩のよいものを選び、ていねいに盛り付けて作った。そんなふうに男は誰に言われずとも、「美味い飯が好き」というだけで自分なりに賄いを試行錯誤していった。だがいつの間にか同期は卒業や就職の前にどんどんと辞めていき、追加で入る新人も2ヶ月と持たず辞めていく。


 男の作る賄いは確かに美味だった。また男の新人や同期に対する物腰や言葉遣いは、確かに彼らの緊張をほぐしていた。だが、男はどうしようもなく腐りきったカビ臭い職場に対して、これ以上の解決策を持たざるを得なかった。男の良さを上司や会社の思想が打ち消して、尚あまりある汚泥で新人達は辞めていくのだ。それに気づくことなく、男はどうすれば新人が辞めないか考えに考え、より自分の振る舞いを見つめ直しては働いた。


 賄いもどんどんと趣向を凝らしたものになった。親子丼、天ぷら、かき揚げ、冷やしちゃんぽん、カレー、和風パスタ、炒飯、男は様々な料理を作っていった。そのうちに包丁にも慣れた。だがそれは最初、男は「お裾分け」程度のものとしか考えておらず、いつしか男の作る料理が「賄い」として新人達から求められるようになるとは思っていなかった。

 なぜなら冬になるにつれ、店は日ごとに忙しくなっていたからだ。しばらく働くと悠長に賄いを作る時間は無くなっていった。初めは店長と二人で回していたキッチンも、店長が交代してからはいつしか一人で回すようになり、二人で回すはずの注文量を一人でこなすようになった。

 疲労は倍になり、賄いはおなかを満たすだけの簡素なものになり、それでも襲い来る空腹は水で誤魔化した。店長が変わった時にバイトのほとんどはいなくなってしまったので、もう誰かに料理を作ることも考えなかった。新しい店長は自身が仕事を覚える前に店長の気に触れた社員をハラスメントしていき、追い込まれた社員はやむなく退職した。そうしてついに店長以外に社員はいなくなった。

 

 ある程度忙しさが落ち着くと、社長は新人を雇い始めた。その冬は一段と傷つき、疲れ果てたものだった。男はその中で、新人を絶対にやめさせてなるものかと思い至る。一人で働くことに限界を感じていたのだ。

 マニュアルや仕事の理想論ばかり追い求めていくと、究極は一人で全てこなすのが一番最効率で最速だ。しかしそれはさびしい。同時にひどく疲れる。どうしようもなく体がいうことを聞かなくなる。やりたいと思っていた夢も、明日何をしたいかさえも分からなくなる。

 だが、新人の面倒をいくら見ようと、より美味しいものをいくら作ろうと、時給は時給。一文たりとて得にはならない。それでも男は美味い賄いを作り続け、限りなく新人の疑問や仕事には手伝い、気を張った。その想いとは裏腹に、淀んだ空気のこの地下の居酒屋で、連日忙しくもなれば同年代の者達はあっけなく辞めていってしまう。


 最後に残るのは何かを抱え、何かを諦めた、臆せず言えば変な人ばかりだ。だが男は決してその人たちを蔑ろにしたいわけではなかった。ただ、これまでの自分の努力と血の導く果てが、薄暗いこの生活かと思うとやるせなかった。もはやそんなペシミズムに浸るのもばかばかしくて煩わしい。二つの考えが打ち消しあって、それでも働いて、しぼりたての疲労が頭を埋め尽くした時、男は何も言わずグラスに酒を注いで呑んだ。電球の小さな暖色だけが、男の手元を照らしている。


 そしてまた次の日。「悩み」とも言いたくない考えを抱え、その居酒屋までの階段を下りる。小さな電球が規則正しく地下へ続いている。今日の賄いは何を作ろうか、空腹と眠気に抗いながら男は考えるのであった……。

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言葉の星々 暮葉紅葉 @momizi_kagemiya

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