第10話 夏の始まり

 この席になって1週間は経っただろうか。

 解答を書き終えた小テストをぼんやりと見ながら、ふと思った。


 遠間くんとの関わりは本当に最低限の会話だけで、一瞬目が合ったような気がしてもそれから合うことはないので正直に言うと楽だ。お互い気にしなくていい感じで嫌な気分はしない。

 今も後ろから渡される小テストの回収の際に、視線は交わることなく手が触れることもない。言うなればクラスメイトのひとりというだけでしかないのだ。

 冷たい言動をする遠間くんは普段からみんなに優しい訳じゃないけど、困っている人には手を貸す場面を見かけたことがある。私には、いつも胡散臭い笑顔を浮かべている天草氏よりも、遠間くんの方が好ましく思えた。


 そして最近気がついたことなのだが、前の方に座っている濱砂さんはよく遠間くんに話しかけている。心なしか天草氏よりも遠間くんの近くにいることが多い気がするのだ。まあ、だからと言って何かある訳でもないのだが、少し納得もしている。

 以前ふたりで出かけている所に遭遇したこともあり、親しい者同士なのだろうと思う。よく一緒にいるからといって恋人であるとは思わないし、ましてや彼らのことに口出しする気も興味もないのだけれど、友人関係は周りの勘繰りで不意に崩れてしまうこともある案外脆いものだ。その人達の関係性はその人達にしかわからないので、私が知ることはないだろう。


 ただ難点が1つ。必然的に私の席にも濱砂さんが近づくことになる。そのため川井ちゃんの所に頻繁に行くことも相変わらず続いている。


 そういった中で少し変わったことと言えば、矢吹くんと前より話すようになったことだろうか。

 他愛ないことも話すようになり、古典はやっぱり苦手なのか、この席になってから既に数回「ノート見せて」と言われたこともある。

 勉強を教えてくれたりする優しい一面と、渡したきゅうりをすぐ食べてしまう不思議な一面をこの1ヶ月くらいで知ったけれど、まだまだ知らないことの方が多い。

 これから矢吹くんをはじめとした高校で出会った人達のことをより知る機会があるのだろうか。

 夏休み目前となり、浮き足立っているように感じる生徒と同じように、私もこの夏に何かを期待しているようだった。


 ***


「行村さん、ちょっといい?」

「ん?」


 朝のホームルームが終わり、授業の準備に取りかかると左の上の方から声をかけられた。


「あ、矢吹くん。どうしたの?」


 顔を持ち上げると矢吹くんが机の近くに立っていた。


「夏休み中に読む本が欲しくて、何かおすすめない?」

「えっ、と……それなら私じゃなくて司書の人に聞いてみた方がいいんじゃないかな」


 私よりも知識も豊富だし、きっとそういう質問にも答えられるはずだ。それに専門の人がいるならその人に聞いた方がいい。


「この前教えてもらった本、良かったから。また行村さんに聞きたい」

「あー……」


 言葉がストレートっ!

 わかってる! 本が素晴らしかったってことなんだけど、そんなこと言われたらちょっと嬉しくなっちゃうじゃん!


 思わぬ出来事に動揺していた私の返事を待っているのか、何も話さない矢吹くん。その沈黙に耐えきれなくなった私は、思わぬ暴挙(?)に出ることになる。


「じゃあ、一緒に図書館行く?」


 って、あ、やったわ。急に図書館行くとか予定あるに決まってるし、それ以前に別に直接教えなくても、次の日までに紙に書いて渡すでもいいはずで。

 口に出した後に考えてももう遅いのに、今になって他の案が出てくるなんて。どうにかごまかそうと思った時には矢吹くんが頷いていた。


「うん。学校のだよね?」

「えっ、あ、うん」

「今日の帰り時間ある?」

「ある……」

「じゃあ今日の帰り、よろしく」


 そうして自分の席に帰っていった矢吹くんを呆然と見送り、我を返った時にはチャイムが鳴って引き留めることはできなかった。


 どうしよう。授業の内容が入ってこない。あんなこと言われても……

 そんなことを悶々と考えていたのだが、予定はなくて暇だし頼られるのは悪い気はしないのだから引き受けてもいいのかもしれない。これも図書部員の仕事のうちだ。

 授業が終わる頃には考えても仕方ないことに思えて開き直っていた。



「行村さん」

「あ、ちょっと待って!」


 帰りのホームルーム後、いつもはゆっくりと用意をする所を今日は忙しく手を動かしていた。


「ごめん待たせて。行こっか」

「うん」


 図書館へと続く廊下をふたり並んで歩く。矢吹くんとこうやって歩くのは初めてで、何か話題がないかと頭を悩ませる。


「……今日、予定はなかったの? 部活とか」

「大丈夫。行村さんは?」

「私も何もないよ。……今まで聞く機会なくて聞いてなかったんだけど」

「ん?」

「矢吹くんって何の部活やってるの?」


 筋肉質ではない体を見て、運動部ではなさそうだと予想を立てるがどうだろう。


「ああ、科学部だよ」

「か、科学部?」


 そう言えば科学部ってあった気がするけど、馴染みがなさ過ぎて早々に選択肢から除外してたな。いや、馴染みなくたっていいんだろうけど、理系がさ、苦手なんだよね……せっかく部活に入るなら興味あるのが良くてさ。と、言い訳を頭の中で繰り返す。


「あの、つかぬことをお聞きしますけど、部活ではどんなことやってるの?」

「……色んな実験をしてるかな」


 それから具体的な実験内容を説明してくれたけど、いまいちわからなかった。右から左に流れていってる気がする。


「行村さんは図書部員だよね」

「え、知ってたの!?」

「前に図書室に行った時に見かけた」

「あ、なるほど……」


 貸し出しなどの作業を行っているからか、他の文化部よりは誰が所属しているかわかりやすいかもしれない。


 誰もいない廊下で、たまに沈黙になったりしながらぽつりぽつりとお互いのことを話した。


「えっと、矢吹くんはどんなのが読みたいとかある?」


 本棚の前に立ち矢吹くんの顔を覗き込んだ。顔は見えないけれど全く見ないで話すことはない。こんなことをしても、たぶん目が合うことはないけれど。


「……行村さんは色んなジャンルの本読むの?」

「うん。あ、でもやっぱり読みやすい本が多いかも。歴史物とかはそんなに読んでないよ」

「……じゃあ、行村さんが好きな本教えて。ジャンルは何でもいいから」

「え、私の好きな本……?」

「うん」


 え、本当に私の好きなのでいいの?


 淀みない声に圧倒され、思わず矢吹くんの方をじっと見つめてしまった。

 見えないけどじっと見つめ返されているように感じる。


「じゃあ……こっち」


 そう言って歩き出した私の後をついてくる矢吹くんになんとも言えない感情が沸き上がる。

 好きな本と言われて思いついた数冊を紹介して、その全てを矢吹くんは借りていった。


「行村さんは電車?」

「うん。矢吹くんは?」

「僕も電車」


 この会話から流れで駅まで一緒に行くことに。

 同じ電車通学ではあったが、最寄り駅を聞くと自分とは反対側だった。そう言えば出身中学もそこら辺だったと今さらながら思い出す。


「今日は付き合ってくれてありがとう」

「全然! 直接おすすめの本を紹介することなんてないし、何て言うか勉強になったよ」

「それ何の勉強なの」

「……プレゼン、とか?」


 思い浮かんだ言葉を声にすれば、「プレゼン……」とそれほど納得していなさそうな呟きが聞こえた。


「でもありがとう。おすすめしてくれたやつ、自分だと選ばない本だった」

「私の趣味嗜好で選んじゃったけど本当に良かったの?」

「うん。新しい視点が欲しいと思ってたから」

「新しい視点……そんなこと考えたことなかったな。興味のある本ばっか読んでるし」

「そう? 違ったジャンルの本も読んでるみたいだったから十分だと思うけど」

「そう、かな」


 相変わらず顔からの情報が皆無で声から推測すると、その声は取り繕ったようなものではなく、平坦なものだったから本当にそう思っているように聞こえて胸がざわめいた。


「それに、興味のある本から読んでいくのはいいと思う。この世界に溢れんばかりにある本を全て読むことなんてできないだろうし、嫌々読んでも何も残らないよ」

「……確かに。そういうのって記憶にも残りずらいかも」


 そんなことを言う矢吹くんがわざわざ私のおすすめの本を聞いたことに少し疑問を抱いたが、聞くようなことでもないように思えて口にはしなかった。

 ちょうど会話が途切れ、改札を通り抜けると自然に壁際に寄った。左右に分かれた階段に向かう人達が立ち止まった私達の横を通り過ぎていく。


「じゃあ、私こっちだから」


 そう左を指差すと矢吹くんは首を縦に振った。


「じゃあ、また」

「またね」


 そう言葉を交わした後、階段へと急ぐ。電車の到着を知らせるアナウンスが流れ、人波に流されるように電車に乗ると反対側の電車はまだ来ていないようで待つ人達が見える。

 向こう側にいるはずの矢吹くんの姿は、私の目では判別がつかなかった。

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