第8話 変わりゆく関係性
あまり得意ではない化学の授業は大抵実験室で行われており、そういった移動教室の時は川井ちゃんと行動しているのだが、未だに濱砂さんの視線を感じることがある。
初めの頃は移動教室の時にも声をかけられそうになったから川井ちゃんの所に逃げ込んでいたのだが、それも今は濱砂さんが理由ではなくなった。川井ちゃん自身は常に誰かと一緒じゃないと嫌ってことでもないみたいで、ひとりでも平気っぽいのだが、お昼は別のクラスの友達と食べているようで私も同じように別のクラスにいる実咲と食べているから、そこら辺の利害が一致したと言うか。とにかく川井ちゃんとは案外いい関係を築けていた。
そんな川井ちゃんとの関係は置いとくとして、問題は濱砂さんである。
こちらは相変わらず私に興味というか関心があるようで未だに視線を感じることがある。
どこで彼女の琴線に触れてしまったのか、入学して数ヶ月経った今でもわからない。
川井ちゃんとは違い、入学当初から変わらない私達。なぜか関心が尽きないらしい濱砂さんと、早く興味を失ってほしい私。
対策などなく、ただ関わらないようにするだけなのだが、ここまで諦めが悪いとこっちが諦めたくなる気持ちを抑えてそれはだめだと考え直す。持久戦に持ち込まれたとしても、この戦い(?)に負ける訳にはいかないのだ。
それにしても、逃げるものほど追いかけたくなるものなのかと問いたい。まるで獲物を前にする動物のようだ。幼い頃、猫から逃げたら追いかけられて引っ掻かれたことを思い出してげんなりする。
考えてもわからないことに疲れてきて、実験室の椅子に座るとため息を吐いた。
今回の授業では実験をするらしく、班に分かれて行うらしい。
同じ班で隣の席にいる矢吹くんは、てきぱきと手を動かしていて慣れているようにも見え、実際に実験も成功した。
先生の解説を聞きながら、頭では他のことを考えていた。
あの出先で偶然会ってから、矢吹くんと「また明日」という言葉を交わすのは1度もなかった。席が前後ではなくなっていたし、席が離れてからは挨拶をすることもなかったからだ。
席替えをしてから観察してみると、矢吹くんは周りの人にあまり興味がないのか、あまり会話している所を見かけなかった。ただずっとひとりってことでもなくて、昼食を食べ終わり実咲の所から帰ってきた時には、同じクラスの男の子とご飯を食べているのを見かけている。
あの日、少し仲良くなれた気がしたのは本当に気のせいのように、私は矢吹くんのことを知らない。好きなものも、部活も、そしてどんな顔をしているのかも。顔に関しては家族や実咲も知らないから別かもしれないけれど、いつか1度は見てみたいと思う。
どんな顔をしてどんな風に笑って、どんな目で私を見つめているのか知りたい。不特定多数はいらないから、側にいる人の顔くらいは知っておきたいのだ。
授業終わりに教室へと戻る廊下で、隣を歩く川井ちゃんの顔も見てみたいと、相変わらずのっぺらぼうにしか見えない顔を見て思った。
***
夏が歩み寄ってくる中、二次考査も近づいてきていた。
「わかんない……」
教室にて勉強をしていた私は、ペンを手から放すとノートの上に倒れ込んだ。
文系の科目は比較的得意であったが、どうしても数学や化学に物理といった理系の科目は苦手であり、中学で1度つまずいた経験からか苦手意識を持ってしまっていた。
やらなくちゃ何も始まらないのに、気が進まなくて言葉にならない唸り声をあげてしまう。そんな時に開けっぱなしのドアから足音が聞こえ、顔を上げると顔のない男子生徒がこちらへ歩いてきていた。近づいてくるその人をじっと見ていると、その男子生徒が矢吹くんだとわかった。
名前のテロップは、ある一定の距離まで近づかないと表示されないため、遠くにいる人には効果を発揮しない。そのため、今回もある程度近づいたことで誰なのかわかった。
それで非常に困ることもないのでそういう仕様なんだと納得してはいる。遠くても顔があるかどうかくらいはわかるから、ひとまずはいいと思うことにしているのだ。
「ここで勉強?」
「あ、うん。誰もいなかったから」
矢吹くんは教室のドアから真っ直ぐ歩いてきて、私の机の近くで立ち止まった。これは話す流れだろうか。まあ気分転換になるかもしれないし、いいか。
教室で勉強をすることにしたのはあの3人、濱砂さん達が図書館で勉強するという話を耳にしたからで、一旦教室を出て頃合いを見計らって戻ってきたのである。家で勉強するより
「矢吹くんはどうしたの?」
「先生に質問してきた」
「数学……」
それを見て思わず渋い顔になったのが自分でもわかる。その手には数学の問題集が握られており、私が机に広げていたものでもあった。
「そう言えば、さっき机に倒れ込んでたけど何かあった?」
そっか、見られてたんだ。せめて唸り声は聞こえていないことを祈ろう。話題に出したら終わりな気がするから……
「いや、ここの問題わかんなくて……」
「……ここ?」
「う、うん」
問題を覗き込むようにして近づいてきた矢吹くんに少し動揺する。
お、思ったより距離が近いのですが……
「これはこの公式を使うのはわかる?」
「うん。でもここがなんでこうなるのかわかんない」
「ああ、ここは─」
解説の穴を埋めるように付け足された説明はわかりやすくてやっと理解ができた。
早速教えてもらったように問題を解いていると、不意に立ち上がった矢吹くんは自分の席へ向かい、何か探すように机の中に手を入れてごそごそと動かしていた。
目的のものを見つけたのか、今度は紙をめくる音が静かな教室に響く。その音が止むとおもむろに近づいてきて冊子が突き出された。
「これわかる?」
指が差されたのは古典の授業で少しややこしいと思った部分だった。授業で言われていたことを自分なりの言葉で説明してみる。顔色なんてわかんないのに、矢吹くんがわかっているのか確認したくて、その何もない顔を見つめた。
数秒経って首が縦に数回振られて伝わったことがやっとわかってほっとひと息つく。
ただ、わかったことで雰囲気が柔らかくなった感じがしなくて、なんとなく矢吹くんにとっての古典が私にとっての数学みたいな感じに思えた。
「古典苦手?」
「……いつの間にか寝てる」
「あぁ……」
思い当たる節があって声がもれた。前後の席の時に古典の授業で寝てるのを見たことがあったな。
「やる気にならないんだよな……」
独り言のように小さな声でこぼれた本音は、ふたりだけの教室にはよく聞こえた。
「私も……」
この時の私は、なぜか口からぽろっと言葉が出ていた。独り言だと無視しても良かったのに、口は自然と動いていた。
「私も数学とかあんまり気が進まない……」
矢吹くんに共感したのもあったが、それよりもふたりきりという状況がそうさせたように思う。
「一緒だな」
短い言葉が胸を打った。やっぱり共感することって人に親近感を湧かせるみたいで、気まずさも薄れていくようだ。
「……じゃあわかんないとこあったら聞いてよ。それで行村さんは古典を教えて」
そんな平然とかけられた言葉に急展開すぎて着いていけない。
「え、でも私もわからないかもしれないし」
「その時は聞きに行けばいいよ」
何でもないかのように言われた言葉に戸惑いは増すばかり。なんでそんなことに?
「苦手な教科ほどひとりだと聞きに行きにくくない?」
「……確かに」
納得してしまう自分がいて、一緒に勉強することに。
結局解説を見てもわからない問題があって、ふたりで聞きに行くことになったが、ひとりじゃないことで少し気軽に聞きに行けたように思う。
テスト初日。2限目の数学のテスト前、チャイムが鳴る直前まで教科書を読んで席に着くと、前に座る矢吹くんが振り返った。
「数学どう? できそう?」
「た、たぶん」
「勉強した問題出るといいね」
そう言って前を向いた矢吹くんの背中を見ながら、大丈夫なはずだと自分を奮い立たせた。
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