第3話 本好きに悪い人はいない、とは言い切れないけれど
新生活の慌ただしさが一段落し、少しずつクラスに慣れ始めた頃。遠足で水族館へ行くことになり、友人兼避難場所である川井ちゃんと、その他数名で班になって楽しい一時を過ごすことができた。
班決めの時に、お隣の濱砂さんの視線を受けたような気もしたが気のせいということにしておこう。自分の精神上、知らなくていいことも、わからなくていいこともあるってものだ。
こうしてなんとか危険を回避しながら学校生活を送っていたある日。
黒板の端に書かれていたのは矢吹と行村の文字。名簿番号で決められた日直は、前の席の人とらしい。
彼とはほとんど会話したことはなく、知っていることはほとんどない。ただ、プリントを渡す時に両手を使う人、という取るに足らないことを思っただけ。
第一印象すら覚えていないくらい関わりがないのだから、矢吹くんも私に何の印象も抱いていないだろう。
ホームルーム後、先生から日誌を渡された矢吹くんは特に私に話しかけることはなく、もう何か日誌に書き始めていた。
一応、私も日直なのだから仕事をしなくては。
そう意気込んでから肩をぽんぽんと叩くと、矢吹くんは無言で後ろを向いた。
「矢吹くん、私が日誌書こうか?」
「……じゃあ、4時間目からよろしく」
そう言うとすぐに前を向くから、見えるのは矢吹くんの後頭部だけになった。元からお顔がのっぺらぼうにしか見えないから、正面から見るのも後頭部を見るのも情報量的にはそう大差はないのかもしれない。
しかし、複雑な心境になったのは確かで、言葉に
そっけない態度だから少し取っつきにくいかも、なんてその時は思っていたのだが。
その日1日、一緒に日直の仕事をしていれば、自然と矢吹くんの行動も目に入った。
授業後の黒板消しでは、私の身長では届かない所を率先して消してくれて、丁寧っていうほど綺麗にする訳ではないけど、汚くはない。
そしてちょっぴり動きがゆっくりな気がする。きびきびとは真逆な感じであった。
「はい、よろしく」
「あ、うん」
4時間目が始まる前に矢吹くんから日誌を渡された。
授業の後、黒板を消してから日誌を開いてみると綺麗な文字が並んでいて正直少し驚いた。
提出する物だし、丁寧に書いたのだろうか。それとも普段から字が綺麗なんだろうか。
授業を受けるその背中を眺めながら、少し意外なように感じていた。
6時間目が終われば清掃の時間となる。矢吹くんとは掃除の班が一緒。名簿番号が前後なだけあって、比較的接点は多い方なのかもしれない。
教室の床をほうきで掃く動きは黒板を消す際と同様に素早くはなかったが、サボっている様子もない。やはり真面目な人なのだろうかと考えながら、集めたゴミを塵取りに入れた。
ホームルームとなり、先生の話を聞きながらぼんやり前の席に座る後ろ姿を眺めていると、景色の一部となって忘れていた光景がよみがえった。
ああ、そう言えば、以前授業で矢吹くんもうとうとしていた気がする。
必要のない記憶だからか、どの授業だったのかなど正確には覚えていないけれど。
思い出したからと言って、何かある訳でもない。また忘れて、今度こそ思い出すこともないだろう記憶を、また頭の隅へ追いやった。
そうしてホームルームも終わり、日誌に感想を書けば本日の日直の仕事は終了となる。
早く書いて部活に行こうとペンを握り直した時、上から声が降ってきた。
「もう感想書いた?」
「え? ……まだ、だけど、」
「じゃあ行村さんの後で書くよ」
椅子に座り直した矢吹くんが立ち上がる様子はない。サボって日誌を書かない人もいるみたいなのに。
待っていられるのも気になるのだけれど、仕方ない。
気まずい気持ちを抱えながらなんとか書き終え、日誌を手渡すと、顔の向きがこちらに固定された。
「書いたらそのまま先生に提出してくるから、行村さんは帰っていいよ」
「え、でも、」
「書く内容決まってないから、時間かかりそうだし」
坦々とした言葉は、感情が全く読なくて
浮かんだ言葉達はどれも口から出る前に消えていき、結局彼の言う通りにすることにした。
「……じゃあ、よろしくお願いします」
「うん。……バイバイ」
「ば、バイバイ……」
ぎこちなく挨拶を返して席を立つ。
教室を出る前に足を止め、1度だけ振り返ったが、こちらを気にする様子もない背中を見て歩みを進めた。
初めてこんなに話したけど、あんまり仲良くなれそうにないな。
話しかけづらくはないけど、話していて今の所楽しいとかないし。関わることが多くても、仲良くなれない人はなれないものだよね。
そんなことを部活に向かう廊下で考えていたのだが、その後矢吹くんとの関係が思いのよらないものに発展していくことを、その時の私は知らなかった。
***
「これ、面白い?」
そう尋ねた声は相変わらず平坦で、だからこそ話しかけられたことに驚く。残念ながら、自分の顔が見えたことがないためわからないが、目を丸くしているはずだ。
事の発端は私が本を落としてしまい、それを矢吹くんが拾ってくれたことだった。
「あ、ありがとう」
二重の意味で。
濱砂さんも本を拾ってくれようとしていたみたいで、腰を上げた後すぐに座っていた。
通常の私ならば、"フラグ叩きのめしてくれてありがとう!!"ぐらいには思っていただろう。
その優しさは大変ありがたいのであるが、あまり関わり合いたくない私からすると、本を拾って会話に発展するのは困るのだ。
例えば今のように。
「私は、面白いと思うけど……」
本の好みは人それぞれだろうから一概には言えないが、一読者として好きな本であるのは確かだった。
「ああ、ごめん。普段読まないようなジャンルの本を読んでみようと思ったんだけど、何がいいのかわからなくて。タイトルは聞いたことがあったから、どんな内容なのか気になったんだ」
こんな風に一気に話す矢吹くんを見るのは初めてだ。
いつも口数が少なくて、何を考えているのかわからない相手に戸惑いを隠せなかった。
「そ、そうなんだ。外国の小説だから少し読みにくいかもしれないけど、おすすめだよ」
本好きな人に悪い人はいない、なんてことは言えないが、自分が面白いと思う本に興味を持ってくれるのは嬉しいことだ。
それに、図書部員としては図書館の利用者を増やす機会を逃す訳にはいかない。
「どんな話?」
「えっと、……宝物を探して旅にでる少年の話、かな」
「へー……今度借りてみるよ。それ、図書館のでしょ?」
拾った時にでも見ていたのか、図書館で借りた本だと気づかれた。意外と
「そう! 後少しで読み終わるから、ちょっと待ってね!」
「急いでないから、ゆっくりでいいよ」
そう言ったきり、前を向いて座る背中を見ながら同様に席に着く。
その声はいつもと同じくらい抑揚がなかったはずなのに、少しだけ優しい音に聞こえたのは私の思い違いだったりするのだろうか。
顔も見えなくて、笑顔なんて浮かべていないかもしれない。それでも、ほんの少しだけ雰囲気が柔らかくなったように感じていた。
何も言わない後ろ姿から、手渡された本に視線を移す。
本の話ができるとは思っていなかった。
矢吹くんはどんな本を読んでいるのだろう。もしかしたら、意外と話が合ったりするかな。
先ほどの言葉が嘘ではなく、本当に借りてくれることを願いながら、本の表紙をそっと撫でた。
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