第6話 純粋な興味から来るもの

 雨は小雨になることなく降り続け、家に着いてもその勢いは変わらなかった。濡れた服や鞄の水滴を払い、家の中へ入ると一息つく。

 今日の出来事の中に特別なことなどなくて、あるとすれば雨が降ったことと傘を貸したことくらいだろうか。

 それでも家に帰ってくると、どこか肩の力が抜けるような感覚がした。


「ただいまー」

「お帰り! 濡れなかったか? もうご飯出来るぞ~!」


 リビングの扉を開けると、元気な声が耳に飛び込んできた。

 台所に立ち、こちらを振り向いて笑顔で話しかけてくる兄に、大丈夫だと返して自分の部屋へ向かう。わずかに濡れた制服から着替えてリビングへと戻ると、テーブルに出来上がった料理を並べる兄の姿があった。


「母さんと父さんは遅くなるらしいから、先に食べような」


 兄の言葉に促されるように席に着くと、飲み物を準備していないのに気づいて取りに向かう。コップに注いだお茶をテーブルに置いて座った。


「いただきます」

「いただきます。いっぱい食べな」


 兄が作ったご飯を口に入れて噛みしめると、やっぱり美味しくて箸が進む。母同様に、兄にまで胃袋をがっちり掴まれているようだ。


「学校はどうだ? 慣れたか?」

「うん、友達もできたよ」

「そうか、良かったな!」


 優しく頭を撫でる手を、目を閉じて受け入れた。


 私の兄、行村拓実は家族愛に溢れた、というよりも家族への愛が強すぎる人である。

 両親共に家族に愛を注ぐ人で、特に両親のお互いに対する態度はでろでろに甘い。今でもラブラブっぷりが凄まじく、夫婦の落ち着きある穏やかな空気の時もあるが恋人ような空気を醸し出すこともある。

 そんな彼らは私にもハグや頭を撫でるなどのスキンシップを日常的にしていたこともあって、兄もスキンシップの激しい人となった。

 そんな兄の愛を爆発させた出来事が起こったのは随分前のことになる。



 それは私が保育園に入った頃のこと。

 その時の兄は海の生き物が好きで、水族館に行った時に買ってもらったペンギンのぬいぐるみを嬉しそうに抱きしめていた。その姿が可愛くて見つめている私に気づくと、ぬいぐるみと私を見比べた後ぬいぐるみをしばらく見つめ、ぬいぐるみを抱きしめる力をぎゅっと強くした。

 そして私に差し出してこう言った。


「ぼくはおにいちゃんだから、まゆちゃんにかしてあげる!」


 お兄ちゃんだから。周りにそう言われていた兄は、妹の私に貸してあげないといけないのだと考えたのだろう。

 きっと本心では渡したくない。それでもお兄ちゃんの自分は我慢しないと。そんな心情が容易く想像できた。


「ううん。それはおにいちゃんのたからものだから、おにいちゃんがぎゅってしてて」


 たとえ欲しいと思っていても、あんなに幸せそうにぬいぐるみを抱きしめている兄から奪うことなんてできない。私の中身は一応大人なので、別のものをおねだりすればいいと考えていた。

 同じものを与えられたとしても、兄にとっては最初に買ってもらったものが宝物なのであって、後にもらってもそれは同じものではない。家族で行った水族館で、自分に買ってもらったもの。そのエピソードを含めて大切なものなのだから。


「まゆちゃん……!」


 その時はただ、兄の笑顔が曇るのが見てられなくて、子供っぽい言葉でいらないと伝えた。その言葉は目に涙をためた兄の心には思ったよりも響いたみたいで、私も驚いて目を大きくしてしまった。


 それまでは大好きな両親、特に母を取られたこともあって、そこまで可愛がられることはなかったが、その時を境に甘やかしてくるようになった。


 今でも、当時の話をすると「あの時の真由は天使だったなぁ……」としみじみ呟かれる。幼い頃特有の可愛らしさってあるからね。

「あっ! 真由は今も天使だけどね!」なんてことも言われるが、さすがにこの年で天使はキツイぞ兄よ……


 そんな訳で、私含めて家族への愛が強い兄ではあるが、その愛によって取り組むようになったのが料理であった。

 何でも、「俺が作ったものが家族の血となり肉となるなんて、最高じゃないか!!」とのことで、最近は祖父母の畑を手伝ったりもしている。血肉となるのが嬉しいなんてヤバい人にしか聞こえないが、それで食材にまで手を出し始めたのはむしろ尊敬する。兄の愛に対する行動力は目を見張るものがあると思うのだ。


 ただ、いつか家族以外にその愛を向けた時、その相手が兄の愛に潰されそうで怖くもある。兄から恋愛話を聞いたことがないので、もうすでにそんな相手がいたりしたのかもしれないが、愛が暴走してしまわないことを祈っている。


 目一杯愛してくれる人がいるのはとても幸せなことだ。

 幼い頃の七夕の短冊に書かれた"家族がとびきり幸せになりますように"という願い事を見て、胸がいっぱいになったのは仕方ないだろう。

 そうやって溢れんばかりに与えられた愛に、絆されるようにして私も兄のことを大切に思うようになった。


「お兄ちゃんはどうなの? 大学で楽しいことあった?」

「そうだな──」


 雨が降り続く中で、兄妹だけの会話を楽しみながら穏やかな時間を過ごした。


 ***


 梅雨の時期でありながら、よく晴れた体育祭当日。

 昼休憩となり、昼食を一緒に食べる約束をしている実咲を探してると、視界の端に実咲らしき人が映った気がして振り返った。


「いたっ」


 不意に耳に入った声に振り返るともう1度同じ声が聞こえた。もしかして私が何かしてしまったのか。


「わ、ごめんなさいっ!」

「いや、大丈夫です……って、行村さん」

「矢吹くん! ごめんなさい、痛かった?」

「本当に大丈夫。当たったの髪だし、反射で痛いって言っただけだから」


 名前が表示されて初めて、その声の持ち主が矢吹くんだとわかった。生徒達は皆体操服で、いつも以上に誰が誰なのか判別がつかないのだ。

 そして当たったのは結んでいた髪らしく、どうやら2回も当たってしまったらしい。ポニーテールにしていたのが悪かったか。

 当ててしまった矢吹くんには申し訳ないけれど、まだ当たったのが矢吹くんで良かった。これで知らない人、先輩に当ててしまったらもう大変だ。……いや、同じクラスのあの3人に当たらなくて良かったと言うべきだろうか。

 とにかく、まだ優しそうな矢吹くんなら許してくれそうだと打算的な考えも浮かんだりしながら彼の方を見ると、なにやらぼんやりしているようだった。


「それにしても、髪って攻撃力高いんだね」

「攻撃力……」


 髪に攻撃力という単語が使われたのは初めてだ。

 誰かの髪が当たったことのない自分には、矢吹くんの言う"攻撃力"がどれくらいの痛さなのかは理解できない。

 というか、そんなこと考えてたんだ。予想外過ぎて言葉が出てこない。


「柔らかそうなのに」


 そう言って無言になられると、自分がどんな姿をしているのか気になってくる。顔が動いていないことから視線は私に固定されているように思えてしまって、走ったりした後だから髪が変に跳ねていたりしないか、そんなことを考えながらふらふらと視線を彷徨さまよわせていた。


 次第に増していく居心地悪さから意味もなく髪を触る。ついでに髪を整えていると、矢吹くんが顔を背けたのが見えた。


「ごめん、不躾だったよね」

「いや、……」


 送られていたであろう視線がなくなってほっとしたのは事実だったが、なぜかそれほど嫌だとは感じていなかった。

 これが触られておらず視線だけだったのが幸いして、子供の純粋な興味から来る行動に思えたのもあるかもしれない。読み取れることなどないに等しいが、下心とか邪念があるような人に感じない何かが矢吹くんにはあった。


「引き留めてごめん。じゃあね」


 唐突に別れを告げられ、去っていく背中を見た後、実咲を探していたことを思い出す。

 早くしないと昼食を食べる時間がなくなってしまう。

 先ほど見つけた気がした実咲を探すために再度歩き出した。

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