第57話 景義、京にのぼること

 ――その年の暮れ。


 御家人たちの話題は、翌年に行なわれる将軍上洛のことで、もちきりであった。

 東大寺再建の記念式典が催されるのである。


 景義は一念発起して、頼朝にふみを送った。


「疑刑を以て鎌倉を追放されて後、愁欝を噛み締めながら、はや、三年が過ぎました。今にきましては余命、幾ばくもありません。この景義の、旗揚げの最初よりの功労をご勘案いただきまして、ついては、冥土の土産と思し召されて、ぜひ御厚免を授け給い、この度の御上洛の人数にお加えくださいませ」


 頼朝は、静かに文を畳んだ。

(ひと頃より、政情は落ち着いた。……頃合や、よし。鎌倉へ戻ってこい……)



 数日後――将軍家ゆかりの寺社の、新たな奉行人ぶぎょうにん名簿が発表されるや、鎌倉中に衝撃が走った。

 人々は、驚きに目を疑った。

 名簿の第一番、その先頭――


「大庭平太景義」


 その名が、あざやかに大書されていた。


「鶴岡八幡宮、寺社奉行、大庭平太景義」


 ……誰が見ても、確かにそこには、そう書かれている。

 ついにおおやけに、冤罪が認められたのである。


 年が明け、二月九日、将軍上洛に加わるよう、景義に正式な沙汰が下された。




   二



 建久六年、二月きさらぎ十四日――


 将軍の大行列は鎌倉を出発し、東海道を西へのぼった。

 京に着いたのが三月やよいの四日、南都に入ったのは十日である。


 二品頼朝は公卿くぎょうとして、豪華な網代廂あじろびさし牛車ぎっしゃに乗り、その後に、息子の万寿丸の牛車、於政の八葉はちようの牛車がつづいた。

 三乗の車の前後に、鎧姿の騎馬武者たちがきらびやかな列を成し、将軍家の威光を高らかに示した。

 この行列をひとめ見ようと、物見高い京雀たちが、道の両側を埋め尽くすほどに押し寄せた。



 景義は騎馬武者のひとりとして、北条小四郎義時や結城朝光とともに、頼朝の車にもっとも近い場所につき従っていた。


 入道ゆえ、鎧はつけず、剃り頭を押入れ烏帽子えぼしで包んでいる。

 愛馬の赤鹿毛に、特製の馬具を装着し、右のあぶみよりも左の鐙のほうが短いのは、萎え縮んだ左脚をしっかりと固定するためである。


 宝草御前と娘たちが、この日のためにと精魂込めて仕立てあげた直垂ひたたれは、快心の一作である。

 生地は光沢をつけた、深いあい勝色かちいろ

 袖や胸の菊綴きくとじの部分を、真っ白なさぎ蓑毛みのげで飾っている。

 それはまるで、純白のなでしこの、寸裂する花びらのよう。

 老入道を、気品高く、神秘的に見せている。

 この珍しい直垂は、たちまち見物人たちのあいだで評判となった。


(大庭平太景義……これが最後の、そして最高の、晴れ舞台なれば)


 唇を真一文字に引き締め、背を一寸でも伸ばそうと努めながら、景義は春の光のもとに馬を進めるのだった。


 華々しい行列のなかには、悪四郎翁、御年おんとし八十四の姿も見える。

 翁の前を、溌剌とした若々しい面持ちで進むのは、孫の『与一太郎』実忠さねただである。

 頭ふたつばかりも飛び出た、河村義秀の逞しい姿も見える。



 景義の眼に、南都、東大寺の堂宇は、天を圧するほど巨大に見えた。

 きらびやかな黄金に包まれた毘盧舎那びるしゃな大仏の、その威容を前にした時、かれのまなこは、静かな涙につつまれた。


 日々、信仰を心がけつつも、仏像に相対して、これほどに心動かされようとは想像だにしていなかった。

 西行老師が命をかけてまで黄金勧進の旅を決行したその理由を、わずかながらも感じることができた。

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