第56話 景義、時政を動かすこと
伊豆山の湯につかりながら、景義は、時政に言った。
「伊東祐親公の怨霊を鎮めるため、大規模な法事を開かれるとよい。幕府公認でな。将軍家様も、御台所様も、賛成なさってくださるじゃろう。和殿はご領地に、すばらしい寺院をお持ちであろう?」
「いかにも」
「そこへたくさんの人を集めるのじゃよ。さすれば和殿の力を世間にしろしめすことにもなる。布施や出費はすべて……わしが
さらりと告げられたその言葉を聞いて、時政の頭が大きく動いた。
「本気ですかな?」
「本気も本気よ。わしの名は出してくれずともよい。なんといっても、わしは『罪人』ということになっておる。……罪人、罪人……馬鹿げたことじゃ」
景義は、悔しそうに歯噛みし、拳をふるわせた。
「わしが、和殿の大切な甥子殿の命を、狙うものか。わしは旗揚げ前から、和殿と平六殿をよぉく存じておる。尊敬さえしておったというのに。わしが北条に牙を剥くものか。北条あっての、鎌倉ぞ」
「……」
時政は驚いて、景義の目を見つめた。
景義の目は、真剣だった。
「……和殿が
時政に顔を近づけたまま、景義は急に話を戻した。
「その法事に関しては、わしがすべてを賄うよ」
と言ってから、悪戯小僧が内緒話でもするように声をひそめた。
「ただ、貴公のおみ脚を治すためにも、もうひとつ、鎮めていただき怨霊がいる」
「――とは?」
「大庭三郎景親」
「ふむ」
時政は首をかしげ、考え込んだ。
「しかし景親は、宗時の命を奪った、北条にとって憎き怨敵……」
「それでござる。貴殿の強い憎悪の念が、逆に怨霊に力を与えておるのじゃ。わしもこれで、長いこと生きてきた。最愛の息子を失う悲しみは、人一倍身にしみて、わかり申す。貴殿が怒り、憎むのは当然のこと。
……しかしながら景親は、その罪を命に代えて
さすれば景親が怨霊はようやく成仏し、きれいさっぱり、祟りをなすことをやめるであろう。因縁と怨念を洗い去るのは清き水、すなわち仏の心じゃよ。どうか、この法要、北条がためにも受け入れてはくれぬか? お願い申しあげる」
時政は目をつむり、しばらく思案した。
湯の湧きあがる音が、こぽこぽと弾ける。
ふぅうと深くため息をついたとき、かれの心は、すでに決まっていた。
「よいでしょう」
途端に、景義の顔に大きな笑みが浮かんだ。
――この男はやはり、豪傑に違いない――景義は改めて、時政を見直した。
「素晴らしい。ぜひ、よい法事にいたそうぞ。高名の僧侶を招こう。和殿のおみ脚も、必ず快方に向かうじゃろう」
景義は湯船の外に立てかけておいた杖を握り、湯のなかから不器用に這いあがった。
そして倒れそうで倒れない、一種独特の律動をもって、よろよろと杖を漕ぎながら湯殿を出て行った。
時政は腰のあたりの緊張を解き、湯のなかに、顎のあたりまで体を沈めた。
静かな暗がりのなかで、湯の流れ出る音が心地よかった。
『北条あっての、鎌倉ぞ』
景義のその一言が、時政の胸に、なお響いていた。
(……そうか、わしは、その言葉を聞きたかったんじゃな……)
傷だらけの背中で、ひとり
(たいしたお方よ……)
――建久五年、三月二十五日、伊豆国北条の
(……景親、そなたの罪は、ようやく許されたぞ。やすらかに眠れよ)
入道景義は、ふところ島の仏殿に籠もり、ひとり祈りつづけるのであった。
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