最終章 ちから風 (ちからかぜ)
第55話 時政、伊豆山の湯につかること
第四部 絆 編
最終章 ち か ら 風
一
建久四年、
その一周忌を辛抱強く待った景義は、北条家との関係を修復すべく、行動を開始した。
夕刻のことである。
伊豆山の湯殿で、北条時政が下半身を熱い湯につからせていると、
「無垢霊場、大悲心水、沐浴罪滅、六根清浄……」
と唱え、どぷんと同じ湯に入ってきた者がある。
時政のよく知っている、入道頭の老人であった。
「いやはや、伊豆山の湯は生き返るのぅ」
その老人……大庭平太景義……が、時政のほうを見て、ニッカと笑った。
灯火の光がふたつ、湯の
時政は、驚きながら尋ねた。
「おひとりで?」
「いかにも」
景義はうなずいた。
……景義は、六十代後半。
時政は、この年、五十七である。
時政のよく肥えた上半身を見つめながら、景義は言った。
「貴殿もさすがに、体じゅう傷だらけじゃのう」
「ははは、いかにも」
「見事なものじゃ」
「なに、貴殿とて……」
「カッカッカ、わしも傷だらけじゃ。……これは石橋山の、そしてこれは、山木の時の……。これは保元の古傷じゃ……」
「豪傑ですな。……わしのほうは、これが石橋山、こっちが山木。この新しいのは奥州で……」
それらの戦場傷の他にも、弓馬の稽古でついた傷は数しれない。
男たちはへだてなく、古傷を披露しあった。
そうしているうちに、張りつめていた空気も、いつの間にか
「和殿は、湯治かな?」
尋ねられ、時政は肩を落として答えた。
「ええ、湯治です。実は、
「それはご難儀な……。いやしかし、この伊豆山の湯は、まことにご
「やはり効き目が?」
「もちろん。まあ、わしの左脚が動かぬのは、病ではなく怪我じゃで、どうしようもないがの。脚気には効くじゃろうよ。脚の痛うて効かぬ辛さは、わしは人一倍、誰よりもよく理解しておる。
ああ、そうじゃ。よいところをご紹介しよう。山の中腹に祠があってのう。役行者をお祀りしてあるのじゃよ。役行者に祈れば、脚の健康を叶えてくれるじゃろうて。カッカッカ」
「それはぜひにも……」
「……うむ。しかしな、それよりも、もそっとよい方法がある」
「いかな?」
景義は、急に顔じゅうの皺を引きしめ、今まさに打ち明けるかのように、声をひそめた。
「わしが見るところ、和殿の脚には
「物怪……ですと?」
時政は顔をしかめ、やや身を引かせた。
景義は鋭く目を光らせた。
「ふうむ、治承の頃にあえなく敗残した怨霊じゃ。和殿の縁者のなかに、罪に身を没したまま、供養もされておらぬ方が、おられるであろう」
「……」
考えこむ時政の、その顔を注意深く見つめながら、景義は言った。
「そう、それそれ。今、一番に頭に思い浮かんだ方じゃ」
「
◆
伊東祐親は、北条時政の先妻の父、つまり、
かつて流人の頼朝をひどく苦しめたこの男は、石橋山の合戦で平家方に加わり、頼朝復活の後、捕縛された。
頼朝は、すぐさま、三浦義澄を呼び、祐親に言葉を伝えさせた。
屋敷に戻った義澄は、
「
と言ってから、その言葉をありのままに告げた。
『そなたはかつて、私への憎しみと、平家への恐怖から、わが愛息、
「……」
祐親は、じっとうつむいたまま、聞いている。
『だが、私はそなたとは、人品が違う。そなたは裕福ではあるが、心が卑しい。心が貧しい。……私はそうではない。そなたのように、心が貧しくはない。私は、たとえ血を吐くほどの憎しみを憶えたとしても、けして、そなたと同じ行動はとらぬ。そなたと同じになりたくはない。……それこそが、私の誇りだ』
「……」
『千鶴丸の死、於八重の死……過去のすべての怒りと悔しさを呑み込んで、私はそなたに……恩赦を与える』
……以上です、と、義澄は言葉を結んだ。
「佐殿は、対面を望んでおられます」
義澄が言うと、祐親は憔悴しきった顔で、うなずいた。
「わかり申した」
義澄が幕府に戻り、報告しているあいだ――祐親はわが身を恥じ、みずからの罪深い行いに思いを馳せながら、命を断ってしまった。
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